写真:岡 泰行

岸和田城の歴史と見どころ

岸和田城(きしわだじょう)は、天正15年(1587)に近世の城として小出秀政が大改修を行い、慶長2年(1597)に五層の天守が完成、総曲輪を持つ城となった。明治維新を迎え、本丸・二の丸の石垣と水堀を残し破却。天守は昭和29年(1954)に市民の寄附などにより三層で再建された。その歴史と特徴を紐解いてみよう。

岸和田城の歴史

岸和田城は、大阪と和歌山を結ぶ紀州街道の要衝として築かれた城で、別名、千亀利(ちきり)城、猪伏山縢(ちぎり)城などと呼ばれている。もとは「岸」という地名だったが、南北朝時代に楠木正成が和泉の守護職となり、一族の和田高家を代官としたことから、「岸の和田」と呼ばれたことがこの地の由来らしい。当時の城は、現在の岸和田城から、東に500mほどの場所にあった岸和田古城といわれている(歴史スポットの項目参照)。古城から現在の城地に移った年代は明らかになってはいない。

時は下り、中村一氏が根来・雑賀衆と対峙していたが、天正13年(1585)に小出秀政が入城、岸和田城は、近世の城として大改修され、慶長2年(1597)五層の天守が完成する。元和5年(1619)、松平康重が入封し城下町の整備を行なった。その後も城主は変わり寛永17(1640)年、紀州藩の監視役として高槻城から岡部宣勝(おかべのぶかつ)が入城、さらに城下町を拡張した。以後、岡部氏が明治維新まで続くこととなる。天守は文政10年(1827)に落雷で焼失した。

岸和田城本丸土橋と隅櫓
本丸土橋と隅櫓

岸和田城本丸の犬走り
本丸の犬走り(特別公開時)

岸和田城の本丸東虎口
本丸東側に設けられた水堀へ通じる虎口(特別公開時)

岸和田城は総曲輪を持つ城となっていたが、明治維新を迎え、本丸・二の丸の石垣と水堀を残し破却。天守と小天守は昭和29年(1954)に市民の寄附により再建された。その後も昭和44年(1969)に多聞櫓と隅櫓が再建された。もとの焼失した天守は5層だったが模擬天守は3層となっている(内部は郷土資料館)。春は桜が美しく、毎年4月にはお城まつりが行われる。

参考文献:『日本城郭大系12』(新人物往来社)、『探訪ブックス城5近畿の城』(小学館)

岸和田城の特徴と構造

岸和田城の規模を理解するには、絵図をもとに制作された模型が天守内で展示されているのでそれを見るとよく解る。本丸と二ノ丸を中心とし、三ノ丸、外曲輪、町曲輪などの曲輪が配置され、さらにその外側に総堀が設けれていた。紀州街道に向いた方が正面となるよう設計されている。現在は、そういった城域は想像しにくく、本丸・二ノ丸とその堀を残すのみでその他の堀は埋められてられている。本丸石垣は打込ハギで、石垣下には犬走りが設けられている。

二の丸

岸和田城二の丸2001年、二の丸の一画で発掘調査が行われ、鉄製品の製造工房があったことが確認された。通常、天守に近い城内でこういった施設があることは考えずらく、大坂の陣の時に、当時、岸和田城主だった小出家が籠城も想定し工房を設置、刀や槍などを急造していたのではないかといわれている。

防潮堤石垣

防潮堤石垣元和5年(1619)松平康重が整備した海岸防衛と防潮を目的とした石垣が、紀州街道の西、中町の石垣筋に残っている。規模は約800mあったが現在見られるのは長さ9m、高さ2m。当時の惣構の石垣で海岸線の位置が把握できる。

岸城神社の櫓台

岸城神社の櫓台岸城神社には櫓台が残る。岡部家筆頭家老の中家にあった平櫓だそう。石垣は積み直しされているようだ。また見学不可だが、岸和田高校のグランドの一角に、駐蹕記念碑があり、その碑が建てられた台は、櫓台と見られており、積み直しがされていない西面は当時のままの姿と考えられている(学校内のため非公開)。

東大手門跡

岸和田城東大手門跡岸和田城の東大手門跡は、南側にマンションがありその土台の高低差で土塁があった場所が実感できる。塀には城門があったことを解説したプレートが貼られている。

岸和田城の関連書籍

書籍では『岸和田古城から城下町へ―中世・近世の岸和田』(和泉書院)などがある。余談ながらこの本を執筆された大澤研一氏は、日本史の研究者で2020年に大阪歴史博物館の館長をされている。

岸和田城の撮影方法

岸和田城撮影岸和田城は天守や本丸土橋は西向きなため、順光となる午後の訪問が良いが、唯一、午前中が良いアングルがある。本丸の水堀越しに東南角から狙うと、水堀と石垣、土塀の天守といった実に城らしいアングルが得られる。

岸和田城の写真集

城郭カメラマン撮影の写真で探る岸和田城の魅力と見どころ「お城めぐりFAN LIBRARY」はこちらから。

岸和田城の関連史跡

武家屋敷「佐々木家住宅」

岸和田の武家屋敷「佐々木家住宅」岸城町は当時の城内で上級武士の屋敷が建ち並んでいたエリアだ。この地に現在も残る武家屋敷が佐々木家住宅だ。佐々木家は藩主である岡部氏に仕えた譜代家臣で町奉行などの要職を務めた家柄。現在も末裔の方が住まわれている。長屋門は本瓦葺、入母屋造りの長屋門で与力窓がある。続く土塀も当時のものといわれている(内部非公開)。

紀州街道

紀州街道岸和田城二の丸広場よりの西方を眺めると、甍を重ねた古い町並みの風景がある。この付近は戦時中に空襲に遭っていないことから当時の町並みが残っている。岸和田城の西を通る紀州街道だ。久住裕彦邸、金納邸、川崎邸、阪口邸などの町屋が残り、歩いてみても実に街道らしい風情がある。町屋はいずれも非公開。街道沿いに「まちづくりの館」という休憩所があるがこれは新しく建てられてたものだ。

蛸地蔵天性寺

蛸地蔵天性寺紀州街道沿いにある蛸地蔵天性寺は、根来・雑賀衆に攻められた落城寸前の岸和田城を救ったという伝説が残る。元亀元年(1570)に建立された。本尊の地蔵菩薩は古くから岸和田の守本尊とされ、天正年間に岸和田城が根来・雑賀衆に攻められた際、数千の蛸とひとりの法師が城を救ったという。数日後、堀から矢傷や弾傷を負った地蔵菩薩が発見され、城に安置されたが、民衆が参拝できるようにと、天性寺に移された。余談ながら、筆者の母はその昔、蛸地蔵付近に実家がありこの地で生まれ育った。その後、親類が住んでいたこともあり、筆者も子供の頃に何度も訪れ、南町のだんじりを引いた。蛸地蔵には当時、山門をくぐると遊具があり、日が暮れるまで境内で遊んでいた記憶がある(蛸地蔵天性寺は南海本線、蛸地蔵駅から北西に徒歩9分(700m)・大阪府岸和田市南町)。

岸和田古城

岸和田市野田町に岸和田古城がある。岸和田古城は、現在、石碑と解説板があるのみだが、かつて日照山と現地で呼ばれていた小さな丘が城跡で、堀跡と思われる窪みから一段高くなった曲輪があり、そこに石碑が建てられていた。平成18年(2006)〜19年(2007)にかけて発掘調査が行われた。濠や土塁、竈跡が発見され、古城図に一致する部分が多く、日照山が中心部の本城(本丸)である可能性が高まったそうだ。現在は宅地開発で姿を消し、大正10年から日照山に建てられていた「和田氏居城伝説地」の石碑が、住宅街の一角にひっそりと建つ。

  •  現在の岸和田古城

    現在の岸和田古城

    (石碑と解説板のみ)

  •  岸和田古城(宅地開発前)

    かつての岸和田古城

    (2007年3月撮影)

  •  岸和田古城(宅地開発前)

    かつての岸和田古城

    (2007年3月撮影)

膳所城の移築城門が泉大津に

膳所城南総門・瀬田口総門意外な城スポットとしては、泉大津市松之浜2丁目に膳所城の移築城門がある。個人宅なので、一言断ってから撮影を。昭和12年(1937)に、トラック40〜50台で運送した。この時、瓦が破損したそうで一部を残し葺き替えられている。鯱は移築時にこぶりなものに変えられた。また、太平洋戦争の時、菊の御紋は恐れおおいとして、塗り込められた箇所がある。

岸和田城のアクセス・所在地

所在地

住所:大阪府岸和田市岸城町9-1 [MAP] 県別一覧[大阪府]

電話:072-431-3251(岸和田城)

開館時間

10:00~17:00(入城16:00まで)
入場料(天守閣):大人300円・中学生以下無料
休館日:毎週月曜日(月曜が祝日またはお城まつり期間中は開館)・年末年始(12月29日~1月3日)そのほか臨時休館あり。

アクセス

鉄道利用

南海南海線、岸和田駅下車、徒歩15分。または、蛸地蔵駅下車、徒歩5分。

マイカー利用

阪神高速湾岸線、岸和田南ICから東へ2.3km(約8分)。「岸和田市営駐車場」と「岸和田市役所 第4駐車場」が岸和田城に近い。

城ファンの気になるところ (7)

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    この地はもともと「岸」と呼ばれていたところらしく、楠木正成一族の和田高家が築いたことから「岸」の「和田」がなまり「岸和田城」と呼ばれるようになったそう(諸説有り)。

    ( 大納言)

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    岸和田城は元弘4年(1334)、楠木正成の一族、和田高家が築きし城。天守閣は文政10(1827)に焼失、昭和29年(1954)に岸和田市の再建。現在は本丸・二の丸の石垣と水堀を残し復元天守が資料館。

    ( ゆかs)

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    1999年6月28日の豪雨で、城の石垣が崩れました。石垣修理をしていますが和泉砂岩の強度が弱いとのことで、中国産と思われるピンク色花崗岩を多用しています。石垣は現在ピンク色のモザイクで、コンクリートにタイルをはりつけるような感じです。大阪府の史跡なのに、こういう修復の仕方でもいいのですね。岸和田城の石垣のなかにはコダイアマモの化石も含まれているのですが、使われなくなった石は捨てるそうです。

    ( 城文鳥)

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    岸和田城は「五風荘」から天守を狙うとかっこいい写真が撮れます。時間は夕方あたり。季節は春が良い。以前は岸和田高校付近が良かったが、石垣がピンクになったのでちょっと変かも。

    ( 城文鳥)

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    武家屋敷が残っています。また、近くの五風荘は戦前の紡績王の別荘で、お庭がきれいで公開されています。

    ( 城文鳥)

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    岸城神社周辺の岸城町には武家屋敷の長屋門が残ると言われているが、パンフレットなどに掲載されている長屋門は近年、取り壊したらしく今は無い。

    ( 左近)

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    私のお勧めの見どころは、城内への表門を入りすぐ右手に石段があります。向って左側は石垣と土塀、右側は石垣とその上には植え込みがあります。石段の幅は約3m位。甲冑姿の武者行列が行進する姿など撮影すると迫力あると思います。

    ( ニコライ)

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