写真:岡 泰行

勝龍寺城の歴史と見どころ

勝龍寺城は、西国街道や京都に通じる要衝に、防衛拠点として築城された。築城は、応仁、文明の乱が起きた室町時代。平安時代に建てられた勝龍寺の一部がこの地の合戦に登場し、戦国時代になると城下町も発展、信長の家臣、細川藤孝によってより堅固な城へと改修され、京都盆地を主に西側地域を支配の拠点となる。

昭和63年に発掘調査が行われ、堀のすそや櫓台に石垣が使われていたことや高さ4mの土塁、多聞櫓の礎石などが明らかになった。本丸の南側と北側には門跡が発見された。北門跡虎口には自然石の野面積の石垣が残されている。石像仏が多数あるがこれは石垣に用いられた転用石だ。このあたりは石の調達が難しく主に河原石や石像仏を石垣に使用したらしい。現在、勝龍寺城跡は、勝竜寺城公園として整備されている。本丸から近くの神足公園(こうたりこうえん)には、土塁と空堀が整備保存されており、横矢掛の虎口の構造が見られる。

明智光秀の娘、玉(後のガラシャ)は、天正6年(1578)、藤孝の嫡男、細川忠興に嫁ぎ勝龍寺城に輿入れした。天正10年(1582)、本能寺の変の時、藤孝は剃髪して幽斎玄旨(ゆうさいげんし)と名を改め、丹後田辺城へ移り隠居する。玉は約2年間、謀反人の娘として丹後の美土野に幽閉され、その後、秀吉の取り成しで、忠興は珠を細川家の大坂屋敷に呼び戻す。大坂時代にキリシタンとなり、ガラシャという洗礼名を受ける。秀吉の死後、徳川の傘下に入り、関ヶ原の戦いで、石田三成の人質を迫られ自ら死を決意、キリスト教では自殺が認められていないので、家臣に介錯させ最後を遂げた。ガラシは辞世の句を残している。「散りぬべき時知りてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ」。
(文:岡 泰行)

勝龍寺城は安土城に先行する織豊系城郭の最古級の城。

明智光秀の娘 玉(細川ガラシャ)が、肥後細川家の祖 細川藤孝(幽斎)の嫡男 忠興(三斎)のもとに輿入れし、幸せな新婚時代を過ごした勝龍寺城。山崎合戦の際には、敗れた光秀が坂本城を目指してこの城から敗走したと伝わります。

京都と大阪の間に位置することから、織田信長の命を受けた藤孝が、元亀2年(1571)に京都防衛の軍事拠点として大規模に改修しました。安土城に先行する織豊系城郭の最古級の城で「瓦・石垣・天守」という当時の最新技術で築かれています。

瓦は、光秀の坂本城(大津市)や佐々成政の小丸城(越前市)の瓦と同じ型で作られ、信長が抱える瓦職人が派遣されたと考えられています。石垣には自然石のほか、石仏や五輪塔などの石造物も使われました。天守は、発掘調査で明らかになっていませんが、藤孝が“殿主”で三条西実澄から古今伝授を受けたと記録されています。光秀が脱出したという北門には、当時の石垣が一部残り、枡形虎口を今に伝えるほか、公園の北300mのところには、土塁・空堀跡が復元・整備されています。
(文:京都府長岡京市広報発信課)

勝竜寺城公園の資料館

資料館で勝竜寺城の発掘内容などが詳しく紹介されている。また、本丸内は解説板が充実しているため、しっかり見どころをチェックできる。また、勝龍寺城跡土塁・空堀調査などの現地説明会資料(勝龍寺城縄張復原図を含む)は、長岡京市埋蔵文化財センターのサイトでPDFで閲覧できる。

勝龍寺城の散策コース

勝竜寺城の城域は公園だけではない。「勝竜寺城公園(本丸跡)」「公園西側の駐車場一帯(沼田丸跡)」「公園北方の神足神社に残る土塁」の3点攻めを忘れずに。

勝龍寺城の撮影方法

勝竜寺城:細川忠興・細川ガラシャ銅像城跡は、どちらかというと東側の堀から撮影しやすい午前中が良い。本丸内にある細川忠興・玉(ガラシャ)の銅像は、北向きに設置されているため、晴天時の昼間は思いっきり逆光になる。光のまわる曇天が良いが、もし日が強ければ、朝(細川忠興が逆光)、夕(ガラシャが逆光)のいずれかのお覚悟を。いやいやそれ以前に、フラッシュを焚いて日中シンクロでどうぞ。

勝龍寺城の写真集

城郭カメラマン撮影の写真で探る勝龍寺城の魅力と見どころ「お城めぐりFAN LIBRARY」はこちらから。

勝龍寺城の関連史跡

神足神社を忘れずに

神足神社に残る勝竜寺城跡の土塁勝竜寺城公園の北に230m(徒歩3分)の距離に、神足神社(こうたりじんじゃ)がある。ここに、勝竜寺城の北を守る曲輪、神足屋敷(その昔は神足城跡)があった。その土塁や空堀、土橋が今も見られるから要チェック。

明智光秀本陣跡 指定地

山崎の合戦の時、明智光秀の本陣「御坊塚」と推定される場所が、勝竜寺城の南に2カ所ある。「恵解山古墳(京都府長岡京市勝竜寺30)」とさらに南下したところにある「境野一号墳(京都府乙訓郡大山崎町下植野宮脇1-107)」だ。前者の恵解山古墳は、発掘整備が進められており、全景を見渡すためか、歩道橋の上に山崎の合戦についての解説板がある。後者の境野一号墳は、付近が住宅街といった風景でその一角が墓地になっており道路上に解説板があるぞ。勝竜寺城から南へ800m(徒歩10分)で恵解山古墳、そこから700m(徒歩9分)で後者の境野一号墳。

そのほか・近郊の城

江戸時代末期の町屋、旧石田家住宅(長岡京市神足2-13-10)があり内部を見学することができる。近郊の城では、ちょっとマイナーに開田城(かいでんじょう・京都府長岡京市天神1丁目1)。近年、マンション建設で整備された開田城土塁公園となっており土塁が見られる。また「エスリート長岡天神」のエントランスには開田城の復元模型がある。開田城は、勝竜寺城から北西に約2km(徒歩25分)、阪急京都線、長岡天神駅のすぐ西にある。有名城では、淀城・淀古城山崎城(天王山城)が近い。

この機会に明智薮をどうぞ

明智薮石碑山崎合戦のとき、明智光秀はここ勝竜寺城の北門から逃走することになる。勝竜寺城と坂本城をむすぶと、ざっくり中間地点あたりに光秀が命を落としたと伝わる「明智薮」がある。現在、明智藪には石碑と竹藪がある。付近には「胴塚」も。行こうと思わないとなかなかいけない場所にあるので、光秀ファンはこの機会に良ければどうぞ。徒歩は厳しいが車移動なら、約13.3km(35分)。明智薮に至る道のりで伏見城、明智薮の付近には醍醐寺も。

勝龍寺城の史跡めぐりにこだわる最適なホテル

このあたりに宿泊どころはない。思い切って、京都・大阪にするか、もしくは山崎城(天王山城)の麓にあるビジネスホテルへどうぞ。

勝龍寺城のアクセス・所在地

所在地

住所:京都府長岡京市勝竜寺13-1 [MAP] 県別一覧[京都府]

電話:075-952-1146(勝竜寺城公園管理事務所)

開館時間

勝竜寺城の本丸跡である勝竜寺城公園は、年末年始を除き無休。本丸は公園内にあるため開園時にどうぞ。4月~10月の開園時間は9:00~18:00、11月~3月は9:00~17:00。

アクセス

鉄道利用

JR東海道本線(JR京都線)、長岡京駅下車、徒歩10分。東口からガラシャ通りを南下、勝竜寺城公園を目指す。

マイカー利用

名神高速道路、大山崎ICから北へ約2km(7分)。勝竜寺城公園西側の無料駐車場を利用する。ちなみに駐車場は勝竜寺城の沼田丸跡。ハイ、城内です。

城ファンの気になるところ (12)

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    勝竜寺城は、小畑川と犬川の合流地点に築かれた平城で、すぐ側を西国街道が通る。

    ( ガラシャ)

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    当時の遺構は、土塁跡や虎口跡、井戸跡で偲ぶしかないが、本丸は、平成4年に勝竜寺城公園としてオープン、模擬櫓や復興土塀で囲まれ、多少城らしくはなっているぞ。

    ( ガラシャ)

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    ガラシャ夫人が、細川忠興に嫁いだ城で、山崎の合戦では、明智光秀が勝竜寺城の北門から坂本城に向かって逃走したらしい。

    ( ガラシャ)

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    勝竜寺城は発掘後、埋め戻され公園化されている。土塀で囲われたエリアに井戸跡と虎口、その西側に空堀跡がある。建物は資料館。夜はライトアップされる。

    ( 城の観光好き)

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    1339(暦応2・延元4)年、細川頼春の築城と言われ、足利尊氏の西岡衆統率の本拠として築かれた。1568(永禄11)年、信長上洛に伴い、岩城友道が城主で柴田勝家に攻略され、1573(元亀4)年、細川藤孝が入封。本能寺の変後の山崎の戦いでは、明智光秀がこの城に一旦引いたが、ここから近江の坂本へと落ちていく。元々は城でなく勝龍寺という寺があり、その名の由来はここから来ている。寺と古墳とを合体させ、改修、城と生まれたと見られている。

    ( 城の観光好き)

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    山崎合戦のおり、豊臣秀吉が天王山城(宝寺城)を、明智光秀が勝竜寺城を本陣としたことはあまりにも有名です。1578年細川忠興・ガラシャ夫妻は勝竜寺城で盛大な結婚式を挙げ、新婚時代を過ごしたとされている。南北朝以来たびたび戦場になったこの城も江戸期には重要とされず、1643年に事実上廃城となりました。現在細川藤高の築城を復元させ、秋には細川忠興・ガラシャ夫妻にちなんだ「長岡京ガラシャ祭」が行われています。

    ( 城の観光好き)

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    勝竜寺城本丸跡は長岡市の手により堀で囲まれた、大層立派な公園(日本庭園)と化している。石垣のみが残るというのを好む古城ファンには、ちと納得がいかないかも知れない。

    ( KUBO)

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    細川忠興のもとにガラシャ夫人が輿入れしたお城。公園の建物の瓦も忠興が使い始めた「九曜紋」だが、勝竜寺城の実質上の城主は父の藤孝だから、ちと先走りすぎな気もする。

    ( KUBO)

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    今の勝竜寺城は発掘調査にもとづいて復元されました。この城は土塁の1部に石垣を使っているという珍しい城です。今では2層櫓のような管理練があって、発掘調査で見つかったものが展示してあります。この管理連は当時の城には無かったが、復元図によると本丸と沼田丸の間にある小高い土塁の上に2層櫓らしきものがあって、天守の役目をしていたとも言われています。隣の沼田丸は芝生広場になっていて、見る価値は無いなと思うかも知れないけど、よく見ると空掘が芝生広場を取り囲んでいます、この堀はなかなか保存が良いです。本丸の近くにある神足神社には、2〜3メートルもある土塁がきれいに残されています。小畑川にかかる橋には大手門があったらしいです。

    ( 忠興)

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    勝竜寺城から駅へ「ガラシャ通り」を通っていると、右側に建物の隙間からわずかに残る当時の土塁を見る事が出来ます。地元のタクシー運転手さんが教えてくれました!

    ( ポメ朗)

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    地元では毎年「長岡京ガラシャ祭」が行われています。

    ( ポメ朗)

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    なんと、公園北東の水堀のすぐ側にあるベンチは、上から見ると「九曜紋」のかたちになっている。

    ( shirofan)

城の情報

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