写真:岡 泰行

高槻城の歴史と見どころ

この地方の城といえば、高槻城(たかつきじょう)と芥川山城(あくたがわやまじょう)がその代表格だ。芥川山城は永正12年(1515)、細川高国が能勢頼則に築かせ、後に三好長慶が飯盛山城に移る7年間を過ごした。高槻城は正暦元年(990)、近藤忠範(こんどうただのり)が築いたのが始まり。永禄12年(1569)、織田信長が芥川山城に入り高槻城は、和田惟政に与えられた。

元亀2年(1571)、池田城主の摂津の国人、池田知正との白井河原の合戦で、和田惟政は池田勢の中川清秀に討たれた。子の惟長(これなが)が後を継ぐが、元亀4年(1573)、高山友照・彦五郎(後の右近)父子に下剋上ともいうべきクーデターを高槻城で起こされる。永禄11年(1568)に和田惟政の配下となっていた高山友照・彦五郎とわたりあった和田惟長は深手を追い、城を脱出して伏見まで逃げたが傷が癒えず死亡した。こうして高山友照は高槻城主となった。この翌年には右近が高槻城主となっている。

高山氏は親子ともキリシタンで知らている(高山友照の洗礼名はダリオ、子の右近はジュスト)。高槻城主となって後、この地の布教に努めた。天正8年(1580)には領内の信者が14,000人に達し、武士はすべてキリシタンに改宗していた。60人あまり僧も改宗していたらしく、高槻市史では高山右近が寺社を破壊したのではなく、寺社が無用のものとなったのではないかとしている。

高山右近は、天正10年(1582)、山崎の戦いでは秀吉軍の先鋒を務め、その後も秀吉配下として賤ヶ岳、小牧長久手、四国征伐など各地を転戦した。天正13年(1585)、播磨船上城に転封となった。秀吉のバテレン追放令の後、領地と財産をすべて捨て信仰を選び、旧知の武将を頼り各地を転々とするも、家康のキリシタン国外追放令で、マニラへと渡り病で死去している。

その後の高槻城主は、新庄氏、内藤氏、土岐氏、松平氏、岡部氏とめまぐるしく変わり、慶安2年(1649)、永井直清が入って後は、永井氏が13代続き明治を迎えている。

高槻城は土塁と堀で構成された城だったが、元和3年(1617)に徳川幕府による修築で、石垣を持つ近世の城となったと考えられている。城域は東西約630m、南北580m、多数の曲輪を持ち三層の天守を構えた大規模な城郭だったが、明治7年(1874)、東海道本線の工事や工兵隊駐屯で大きく破壊され、遺構はほとんど見られない。

高槻城跡石碑

大阪府立槻の木高等学校の東側に石垣石とともに高取城の石碑がある。また同様に高槻市立しろあと歴史館にも石垣石がある。そのほか高槻城公園には模擬天守台があり公園東側には三の丸曲輪と外堀の段差が見られる。建築遺構は本行寺に移築城門、また、しろあと歴史館の西に、野見神社・永井神社があり、その門として高槻城のものと伝わる唐門が現存している。同神社は江戸時代の城内随一の神社で右近時代の高槻天主教会堂の推定地とされている。

高槻城二の丸跡発掘調査で出土した障子掘
高槻城二の丸跡発掘調査で出土した障子掘(高山右近時代のもの)

高槻城二の丸跡発掘調査で出土した石垣
高槻城二の丸跡発掘調査で出土した石垣(高山右近時代のもの)

平成29年(2017)、高槻城公園北西の二の丸跡で発掘調査が行われ、高山右近が造ったと見られる障子堀が長さ70mにわたり発見された。近畿の城で障子堀の発見はめずらしい。堀は石垣を備えたもので、障子堀の深さは30cmほどと浅いもので堀底に造られていた。入ると出られないという深さは無く、粘土層のため、足を取られ身動きができなくなることを想定していたのではないかとされる。
(参考文献『高槻市史』第一巻)

高山右近の銅像は同じデザインで5体ある

高山右近の銅像高山右近の銅像は、滋賀県の彫刻家、西森方昭氏の手によるもので同じデザインのものが全部で5体ある。この高槻には高槻市民会館前、高槻城公園、北陸の高岡城、カトリック小豆島教会、その最期となったフィリピン・マニラ湾公園にあるらしい。高槻にはほかにデザインは異なるが、カトリック高槻教会にイタリアから贈られた高山右近像がある。

しろあと歴史館

しろあと歴史館現地では「しろあと歴史館」へとうぞ。関連書籍が販売されている。高槻城に加え、芥川山城に関する展示もある。

高槻城跡の発掘調査現地説明会資料

高槻城跡の発掘調査現地説明会資料は下記サイトでPDFにて公開されている。

書籍『高槻市史』第1巻・第2巻

現在、絶版となっており古本市場でたまに見かける。筆者は買ってしまった後だったが、戦国時代を含むこの2冊は、高槻市立図書館のWebサイトでPDFにて公開されている。「Ⅴ. 戦国動乱と天下統一」あたりで、応仁の乱から芥川城、高槻城をとりまく歴史を読むことができる。

高槻城の撮影方法

高槻城跡公園の模擬石垣と高山右近の銅像は、東向きなので午前中が適している。

高槻城の写真集

城郭カメラマン撮影の写真で探る高槻城の魅力と見どころ「お城めぐりFAN LIBRARY」はこちらから。

高槻城の関連史跡

高槻城の移築建築物

高槻城の移築城門(野見神社唐門)高槻城は、石垣など城の遺構が見られない。石垣は鉄道の敷石にと、ほとんどが持ち去れられ、掘は埋め立てられ、宅地開発で姿を消した。よってすべては地中にある城だ。これまで、和田惟政時代、高山右近時代、江戸時代を通して、城のかたちが変化しておりそれらが重層的に出土している。現地散策では、建築遺構は本行寺の移築城門や江戸時代の城内随一の神社、野見神社には、高槻城の移築城門(唐門)がある。高槻城移築城門(本行寺山門)ほかに移築櫓が城跡公園から南へ徒歩15分の距離にある。そのほか石垣石が、城址公園の入口付近、枡形門の石垣石、しろあと歴史館の門前にある。キリシタンで有名な高山右近だが、その一方で、一時期、野見神社が右近によってこの地を追われたことはあまり知られていない。野見神社は高槻天主教会堂の推定地ともなっている。

高槻市立歴史民俗資料館

旧笹井家住宅江戸時代中期の町屋、旧笹井家住宅が、高槻城公園に移築公開されている。本瓦葺の町屋で旧紺屋町にあったもの。小屋組が古い特徴を示しているとか。内部は広さを感じる空間で特に土間が広くとられている。10時〜17時(入館16時30分まで)。

高槻城のおすすめ旅グルメ

城周辺は住宅地なので特に何も無い。鉄道利用の場合は、阪急電鉄「高槻市駅」周辺でどうぞ。

高槻城のアクセス・所在地

所在地

住所:大阪府高槻市城内町 [MAP] 県別一覧[大阪府]

電話:072-673-3987(高槻市立しろあと歴史館)

開館時間

高槻城公園は散策自由。高槻市立しろあと歴史館は、10:00〜17:00(入館は16:30まで)月曜(祝日は開館)、祝日の翌平日、年末年始休館。

アクセス

鉄道利用

阪急京都線、高槻市駅下車、徒歩10分。または、JR東海道本線、高槻駅下車、徒歩15分。

マイカー利用

名神高速道路、茨城ICから国道171号線を北東へ約8km。または大山崎ICから、国道171号線を南西へ約10km。いずれも「北大手」交差点を南下「しろあと歴史館」を目指す。

城ファンの気になるところ (4)

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    平成22年7月24日に、高槻城二の丸跡確認調査の現地公開があります。

    ( 高山右近)

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    高槻城は、いまは模擬天守台しか残っていなくて公園になってるけど、歴史マニアの人にはもってこいの城跡です。

    ( 島津義弘)

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    キリシタン墓が高山右近の旧領地(千提寺地区)で見つかり、発掘現地説明会が、2013年3月23日にありました。

    ( 城好き匿名希望)

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    2019年1月、高槻城の高山右近時代の障子堀が出土した。幅約16×約4mの堀で長さ70mにわたる障子堀。障子掘は粘土層の地層に作られており、個々の深さは20cmから100cmとほとんどが浅い。その年代から近畿で最古級ではないかと言われている。豊臣大坂城の障子堀は、どれも深さ1mほどと大規模なので、少し浅い感触を受けるが、現地説明会では「浅くとも泥の層が30cmもあれば足が取られて動けないので充分に効果がある」ということだった。また、粘土層だから障子堀にしたのか、その辺りはよくわからない。

    ( shirofan)

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