上田城

住所:長野県上田市二の丸 / 長野県 / 城ファンチェック: 17

写真:岡 泰行

交通アクセス交通アクセス

鉄道利用

JR長野新幹線、または、しなの鉄道線、上田駅から徒歩10分で二の丸東虎口に。

マイカー利用

上信越自動車道、上田菅平ICより約10分。無料駐車場が何ヶ所かあるが上田市民会館前が大手門にドア to ドアで便利。

文献資料文献資料

上田市立博物館に復元模型や鎧、郷土の資料などがある。希望により、家臣団の名簿、行状の古文書を見せてもらえます。その他、美術館などもあり、入場料は3館込みの料金になっているため少しお得。でも、美術館は興味がないと入りたくない。資料館には、上田城の歴代城主(真田氏・仙石氏・松平氏)に関する資料が豊富。それぞれ3氏に関する資料集も販売されている。
[荻原秀一 (1998.05.01)]
[デジカメ (1998.10.02)]
[Tuka (1997.06.16)]

撮影アドバイス撮影アドバイス

上田城の代表アングルである東虎口櫓門は、東向き。人の多さを考えると早朝撮影が良い。

上田城の夜桜ライトアップ、横浜ベイブリッジや姫路城大阪城のライトアップを手がけた、照明デザイナー石井幹子さんによるもの。なのでライト装置は通年置きっ放し。毎年、桜の生長に合わせた調整を行うために初回点灯チェックに来られるのだとか。

近郊グルメ近郊グルメ

上田といえば「そば」。城より徒歩5分、中部電力上田営業所裏にある「刀屋」というそば屋は、コシがしっかりしていて本当に美味しいです。城からでは場所がわかりにくいのですが、大手門前の横断歩道を渡ったところにある上田市観光会館で、そば屋マップが入手出来ます。城からは徒歩10分くらいはかかりました。
[ポメ朗 (2010.09.13)]

宿泊宿泊

上田駅近郊で「上田プラザホテル」がもっとも駅近。

長野県の観光おすすめ長野県の観光おすすめ

矢出沢川の石垣城の西側の芳泉寺には、真田信之の正室である小松姫の墓(伝)があります。この寺から北に歩いて行くと北国街道に突き当たりますが、長野市方向(つまり西)へ曲がって行くと矢出沢川に掛かる橋があります。この附近の川の城側には立派で堅牢な石垣が築かれており(移築とも言われている・写真)、上田城の西の玄関口に相応しい様相になっています。「たそがれ清兵衛」のロケ地でもあるそうです。近郊のおすすめ城では、上田市内にある戸石城。武田 vs 村上の山場の一つ、「戸石崩れ」の舞台。ここを攻略しようとした武田軍は、無理押しがたたり大敗。その後、真田幸隆の諜略により武田がたの手に落ちたのだとか。
[デジカメ (1998.10.02)]
[真田大助 (1997.08.02)]

城ファンチェック (17)

  • avatar

    1998.01.14 ヤッシー さんより

    城の裏は格好のマル秘デートポイントかも(誰にも見つからない)。

  • avatar

    1998.08.13 KURAMOTO さんより

    天守閣もなく、松本城と比べると貧相な感じがしますが、博物館で真田家のストーリーに思いをはせ、実質13才でなくなった雪村の息子のエピソードに涙したのでした。その後、上田城以前の真田家の本拠地であった、「お屋敷」とその博物館まで足をのばし(手作りおはぎがおいしかった)、帰途につきました。

  • avatar

    1998.08.13 半兵衛 さんより

    余談ですが、北櫓・南櫓は、当時、遊郭に払い下げられ、内部の柱など、襖を入れるために丸から四角に加工され、障子の溝なども付けられてしまいました。その櫓をまた戻したものだとか。城があった当時は丸い柱だったと思って見るべし〜!

  • avatar

    1998.10.02 デジカメ さんより

    現在の上田城が創建された当所は、古図などから櫓が7つ櫓門が2つ建っていたようです。明治維新後、上田城も敷地や櫓などを売却されるなどして昔の建造物は民間に渡りました。その後、現存する櫓は昭和に買い戻されたものです。ちなみに多聞櫓は、平成になって明治時代の古写真から復元されたものです。瓦の枚数もきちんと数えたり、緻密に検討を重ねて建造されたそうです。現存している北、南、西櫓共に2階建て、外観はほぼ同じで、鉄砲狭間と矢狭間が装備されています。南櫓が公開されていて、2階にも登れます。

  • avatar

    1998.10.02 デジカメ さんより

    本丸へ入る為には東か西、どちらかの本丸虎口を通る事になります。上田城に残る建造物は、東西の本丸虎口に集中しています。本丸東虎口の土橋は両側が高い石垣になっていて、前方にそびえる2つの櫓と復元された櫓門から威圧感を受け、荘厳ささえ感じます。土橋に向かって右が北櫓、左が南櫓。そして、両櫓の間には本丸東虎口櫓門が建っています。櫓門をくぐると、そこは本丸です。本丸西虎口の土橋に向かって右側(南側)に西櫓が建っていますが、その北側(つまり、土橋に向かって左側)には、昔、櫓と櫓門が建っていた石垣の位置を示す石畳が長方形に敷かれています。本丸に入る為には石畳で囲まれた所と、西櫓の石垣の間の桝形を抜けて行く事になります。

  • avatar

    1998.10.02 デジカメ さんより

    本丸は、上段と下段に分かれていて(創建当時のものと思われる2m位の石垣が一部残っています)、下段には真田神社あります。真田神社の横から西櫓へ登る道があり、途中に真田井戸があります。この井戸は、抜け穴が上田市の北部にある太郎山まで通じていると言う伝説があります。

  • avatar

    1998.10.02 デジカメ さんより

    上田城に天守はあったのか?と疑問が残りますが、古図の中には、本丸の北西隅の平面上に「御天守跡」の記述があるものも存在します。この図の信頼性の有無は確かではありませんが、徳川家康が「天守も無き小城」と言って上田城を攻めた後に、天守が建造された事も十分考えられると言う意見もあります。とにかく、真田時代の上田城は資料が少ない為、謎も多いのです。

  • avatar

    1998.10.02 デジカメ さんより

    古図と発掘調査をもとに最近復元されたばかりの、二の丸北虎口も要チェック。桝形が形成されています。

  • avatar

    1998.10.02 デジカメ さんより

    二の丸には博物館や、美術館、プール、テニスコートがありますが博物館以外、将来は城跡公園の整備のため、移転が予定されているのだとか。

  • avatar

    1998.10.02 デジカメ さんより

    内堀は近年、水位が低下し、底が見えてしまっている所さえあったのですが…。最近、発掘調査が行われたあとの整備が実を結び、立派な水堀に戻りました。内堀の築造時に出た土砂は本丸部分の盛り土に使われたと言う事です。

  • avatar

    1998.10.02 デジカメ さんより

    総構えの堀は、今は無き大手門前に南北にあった。今は市街地となって消滅しているが、その役割を担った矢出沢川は旧状を比較的留めている。

  • avatar

    1998.10.02 デジカメ さんより

    三の丸には江戸時代に藩主がいた居館跡が残るが、今は長野県上田高校の敷地となっている。しかし、同校西側には堀と、江戸時代に作られたと言う正門が残る。なお、館の平面図は「定本 上田城」(今はもう売っていないかも)に掲載されています。今は清明小学校がある場所にも堀を伴った館跡があった様ですが、殆ど旧状は残っていません。

  • avatar

    1998.10.02 デジカメ さんより

    城の西側にある上田市立体育館がある場所は小泉曲輪と呼ばれ、この北西には外堀の一部を担った捨堀の跡もグラウンドとして残っています。体育館の東側(つまり、外堀西側)には、空堀と城側の土塁が見事に残っていす。外堀西側の土橋もコンクリートの橋が掛かっていて土橋は消滅しています。

  • avatar

    2001.10.23 かない さんより

    城の北、裏手には明治時代以降に建てられた頌徳碑などの石碑が多く建っています。信州は好学の地と言いますがその影響でしょうか。時代は違いますが、これもまた歴史を感じます。

  • avatar

    2006.05.27 イッチー・半兵衛・デジカメ さんより

    信州上田城といえば、外堀の中を電車が走っていたことがあるんですよ。今も、架線跡があって、また、上田城の現在の入り口の真下には駅の跡も残っており、堀跡に降りると今にも電車が走ってきそう。ちなみに、上田温電北東線といって、昭和3年〜47年まで走っていたそうです。その面影は二の丸へ向かう土橋に残っていて、今は電車が通る為に作られたコンクリートの橋が掛かっていて土橋は消滅しています。外堀北側の土橋西側は石垣が見事に残り、水の通り道である石筒も綺麗に残っています。

  • avatar

    2010.09.13 ポメ朗 さんより

    内堀の周りは一回り600mほど。ぐるっと一回りして全体を見回すと、本丸から見るのとはまたひと味違った上田城を見る事が出来ます。

  • avatar

    2014.02.27 亀★仙人 さんより

    上田城・真田家・・大阪夏の陣で壮絶な最期を遂げ、血脈が絶えたとされる幸村公。決戦前夜、密かに敵方の伊達家家臣片倉小十郎重綱に5人の子女が送られ、決戦の最中に伊達領内に匿われた。後に幸村公次男の大八は伊達家家臣として現在の宮城県蔵王町に領地を与えられ、三女阿梅は片倉重綱の妻となる。徳川全盛期には伊達家が全力で真田血筋の存在を秘匿したが、江戸時代後期、徳川の影響力も弱まったとして仙台真田家として復活した。同い年の伊達政宗と真田幸村、伊達家と真田家ライバル関係に有りながら信頼し互いに認め合っていたのか・・・。

口コミ投稿

ささ、あなたの知っている上田城ネタをご投稿ください

お城めぐりFANライブラリ:上田城フォト

あわせて読みたい