写真:岡 泰行

弘前城の歴史と見どころ

1611(慶長16)年に築城され、江戸期を通して弘前藩・津軽氏の居城であった弘前城。以前は高岡(鷹岡)と呼ばれていたこの地で築城を始めたのは、津軽氏初代の為信である。陸奥の名族、南部氏の支族出身で、大浦氏に養子として入ったとされるが、出自については諸説ある。元々は南部氏の被官であったが、やがて独立して津軽地方を統一。豊臣秀吉による小田原攻めの前から豊臣政権に接近し、本領安堵を得た。

1603(慶長8)年、為信は居城を大浦城(弘前市堀越)から高岡に移すことを決め、工事が開始されるが翌年、上洛中に死去し中断となる。2代信枚(のぶひら)が幕府の許可を得て築城を再開するのは、7年後の1610(慶長15)年のことだった。翌年には5層の天守も完成した。ところが、1627(寛永4)年、天守は落雷の影響を受け焼失してしまう。翌年、信枚は徳川家康の側近として知られる南光坊天海の助言を受け、高岡(鷹岡)を弘前に改める。

1810(文化7)年、幕府は弘前城天守(御三階櫓)の造営を許可し、それまでにあった辰巳櫓を改造した天守が完成した。許可が出された背景には、ロシアをはじめとする異国船の往来増加や、それに伴う蝦夷地警備を弘前藩に命じたことがあったとされる。

明治を迎えると、本丸御殿など一部の建物は取り壊されたが、天守や二の丸の櫓などは残り、1895(明治28)年には「弘前公園」として一般に開放された。1897(明治30年)、天守台石垣の崩落に伴う天守倒壊の恐れから、天守を「曳家」で移動させ石垣を修理する工事が、1915年まで行われている。

1937(昭和12)年には、天守など8棟が国宝に指定された(戦後成立した文化財保護法により、重要文化財に指定移行。1953年には三の丸東門も追加指定)。1952(昭和27)年に国の指定史跡となったが、1985年には弘前城以前の居城であった堀越城とともに「津軽氏城跡」として再指定されている(2002年には種里城も追加)。

1983(昭和58)年の日本海中部地震をきっかけに、2002(平成14)年まで続けられた調査により、再び天守台石垣のふくらみが確認されたため、2014(平成26)年度から天守の曳家と石垣の解体修理が始まり、現在も続いている(2021年現在)。

弘前城の特徴と構造

弘前平野に築城された弘前城は、石垣で囲まれた本丸の外に二の丸、西の郭、内北の郭が置かれ、内堀の外にはさらに、三の丸、北の郭(四の丸)などを配した、梯郭式平山城である。本丸と二の丸の間には馬出しがあり、曲輪に出入りする門は枡形を形成している。

築城当初あった5層の天守は南西隅に置かれており、焼失後は本丸未申櫓が建てられたが、本丸の櫓は、天守を除いてすべて撤去されている。天守は3層3階で白漆喰で塗りこめられており、屋根は銅瓦葺き、本丸側(西面と北面)には連子窓が設えられている。二の丸にっ面した側(東面と南面)は1階と2階の屋根部に切妻破風があり、多くの狭間が開けられ、石落としを備えたものとなっている。

二の丸の丑寅櫓、辰巳櫓、未申櫓も現存。このほか、二の丸の南門と東門、三の丸の追手門と東門、北の郭(四の丸)北門(亀甲門/かめのこもん)も現存で、いずれも国の重要文化財に指定されている。なお、戦いに巻き込まれたことのなかった弘前城で、亀甲門のみは矢などの跡が見られる。これは同門が、南部氏方の城であった大光寺城から移築されたという言い伝えにも合致するものだ。また、築城当時はこちらが大手(追手)門だったという説もある。

100年ぶりの石垣修復

弘前城本丸東面石垣が、平成25年7月から約10年の歳月をかけ、修復されます。弘前城天守閣は、明石城の櫓と同じく曳屋工法で約70m、本丸の内側へ移動させ、平成28年には移設先で公開予定です。工事の進捗など詳しくは弘前市サイトでご確認ください。

弘前城の撮影方法

下乗橋から天守を狙うと良し。時間は夜明け〜午後。季節は春が良い。弘前さくらまつり期間中(毎年4月下旬〜5月上旬ごろ)は多くの人出でにぎわう(観光客などの写り込みは必至)。冬ならば雪景色との組み合わせもおすすめ。

弘前城の写真集

城郭カメラマン撮影の写真で探る弘前城の魅力と見どころ「お城めぐりFAN LIBRARY」はこちらから。

弘前城の関連史跡

侍町の武家屋敷や商家

旧伊東家住宅弘前城の北門(亀甲門)は、四代藩主信政時代まで正面玄関にあたる追手門だった。この守りのために町割りされたのが侍町で、現在、このエリアで、次の武家屋敷や商家など5件が一般公開されている。旧梅田家住宅、旧伊東家住宅、旧笹森家住宅、旧岩田家住宅、石場家住宅だ。どれも北門から徒歩圏内。この記事を書いた当時、正確な場所を示すマップが無かったので、上記Googleマップを作成した。是非参照してほしい(写真は旧伊東家住宅)。

ふたつの寺町、長勝寺構と新寺町

城下町に、城を守る支城の役割で寺町が形成されるケースがあるが、ここ弘前では2つの寺町がある。弘前城の西を守る「長勝寺構」と南を守る「新寺町」だ(詳しい場所は上記Googleマップ参照)。

長勝寺構

長勝寺長勝寺構は、慶長16年(1611)に、弘前城を築城した津軽信枚(弘前藩2代藩主)が、藩祖為信が拠点とした大浦城周辺の禅院33寺を集め造られた弘前城の出城の役割を果たすエリア。長勝寺は津軽氏の祖である大浦光信の菩提を弔う菩提寺で、大浦城、堀越城、弘前城と大浦(津軽)氏の居城とともに移転し、弘前城築城時に現在の地に移った。

長勝寺の総門「黒門」長勝寺の総門「黒門」は城郭建築の高麗門で現存、境内の庫裏(くり)は、大浦城の台所が移築されているほか、津軽家歴代藩主や奥方の霊廟や藩祖為信公57歳当時の姿と伝わる木像がある。
また、弘前城は桜で有名だが、正徳5年(1715)に弘前藩士が京都の嵐山から、わずか25本の霞桜などを持ち帰ったのが始まりとされ、そのうち1本が、長勝寺で今も見られる。そのほか、12代藩主になるかもしれなかった津軽承祐のミイラが昭和29年(1954)に発見され、平成17年(1995)に、火葬された。ミイラが入っていた棺桶もあって驚く。

新寺町

大浦城の移築城門新寺町の寺院は、元寺町にあったが、慶安2年(1649)に、横町の大坂屋久兵衛宅から出火し、15寺に類焼、これを機に弘前城の南を守る目的で、現在の台地に移され「新寺町」という名が付いた。長勝寺が同一宗派で統一されているのに対し、新寺町は、浄土真宗、日蓮宗など様々な宗派の23寺院が並ぶ。中でも古い建築物は、最勝院五重塔。藩祖津軽為信の津軽統一の際に戦死した敵味方の将士を供養するために建立された。また、新寺町の法源寺には大浦城の移築城門がある。

津軽信政廟所

津軽信政廟所弘前城から西へ約10kmの地点に、高照神社がある。名君と讃えられた弘前藩四代藩主の津軽信政は、自らの埋葬地をこの地と定め、弘前城で死去。五代藩主はその遺言に従ってこの地に神葬し、高岡集落の元を作ったのだとか。高照神社は、江戸時代中期の神社建築がよく残っており、津軽信政廟所ともに重要文化財に指定されている。本殿の裏手からさらに山奥へと進むと、津軽信政廟所がある(詳しい場所は上記Googleマップ参照)。

歴史ストーリー上、押さえておきたい付近の城

堀越城大浦(津軽)為信に関係の深い城はチェックしておきたい。元亀2年(1572)から始まった、大浦(津軽)為信の津軽統一。謀略により堀越城から大仏ヶ鼻城を攻め、統一後、本拠を大浦城から堀越城に移し、さらに慶長16年(1611)、弘前城に移り、津軽藩祖となる。つまり、大浦城、堀越城、大仏ヶ鼻城、弘前城の4セット(プラス、浪岡城で5セット)は、同時に見ておきたい。中でも堀越城は、近年、城跡の整備に力を入れ、2020年4月17日に公開された。土塁、堀跡、木橋などが復元されている(詳しい場所は上記Googleマップ参照)。

大砲の練習ため津軽藩によって造られた摺鉢山

他府県から摺鉢山訪れた場合、弘前らしさを感じるるポイントは、りんご畑の多さだろう。1,200本のリンゴの木が植えられた広大な公園「弘前市りんご公園」に足を運ぶと、充分に堪能できる。公園内にある摺鉢山は、江戸時代に大砲の練習ため津軽藩によって造られた山。岩木山の眺望も良く、タクシーの運転手の話によると、その景色の良さから藩主の別邸もあったらしいが定かでない。付近には農家の旧小山内家住宅もある(詳しい場所は上記Googleマップ参照)。

弘前城のおすすめ旅グルメ

ずばり蕎麦の「高砂」(弘前市親方町1-2)。注文後かなり待たされるが、休日には行列ができるほどの老舗の人気店。春のさくら祭りは、城内に夜店が数多く出ているから食に苦労はしないが、それ以外の期間だと、弘前城のまわりにグルメ処が少なく苦労する。または、近年整備された弘前城東側の「津軽藩ねぷた村」。津軽の家庭料理が愉しめる。夜の町なら北川端町へ足を運ぶと良いだろう(詳しい場所は上記Googleマップ参照)。

余談だが、10月には実に青森らしいリンゴ畑の風景が弘前一帯に拡がる。弘前市の1/6がリンゴ畑といわれ、山間部に行くほどでリンゴ畑が多く、標高の低い平地では、稲作が多い。米は「つがるロマン」と呼ばれ、美味しいお米として知名度が高い。
[shirofan (2014.05.20)]

または、「菊富士」たらじゃっぱ汁や貝焼きみそなど津軽の郷土料理が味わえる。中土手町あたり。 または「いもや」天ぷらの店。弘前公園から土手町方面へ向かう途中。ここのおやじは少し怖いが旨いっ!その他、冬以外、弘前公園で林檎のアイスが売られています。夏など観光シーズンになると市内でも。やはり弘前公園の桜とお城を見ながらが一番のお薦めですね。
[津軽衆 (1998.11.24)]
[coin (1999.09.06)]
[三谷恵馬 (2000.07.07)]

弘前城の史跡めぐりにこだわる最適なホテル

弘前で温泉地といえば嶽温泉郷だが、城めぐりが主体でもっと手軽にとなると、スーパーホテル弘前で天然温泉をどうぞ。もちろん温泉にこだわりが無い場合は、弘前駅から弘前城にかけて多くのビジネスホテルがある。毎年、桜が満開を迎えるゴールデンウィークには、どこも満室になるので早めの予約をどうぞ。

弘前城のアクセス・所在地

所在地

住所:青森県弘前市下白銀町1 [MAP] 県別一覧[青森県]

電話:0172-33-8733(一般財団法人 弘前市みどりの協会)
電話:0172-33-8739(弘前市公園緑地課)

開館時間

本丸・北の郭
9:00〜17:00(4月中旬〜11月23日)
※さくらまつり期間中は7:00〜18:00
※11月24日〜3月31日は入園無料
入園料金320円
※弘前城植物園との共通券あり

アクセス

鉄道利用

JR奥羽本線、弘前駅下車、市役所方面行バス15分「市役所前公園入口」降車、徒歩5分。または、タクシー約10分。

マイカー利用

東北自動車道大鰐ICから約25分。津軽藩ねぷた村の有料駐車場(250台)有り。弘前さくらまつり期間は臨時駐車場あり。

城ファンの気になるところ (10)

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    現存天守12基の1つ。もともとは慶長16年(1611)、津軽信枚築城。当時は5層天守がそびえていたが、2代信牧公のとき(1627年)の落雷で消失。その後、本丸辰巳櫓を移築、改修し明治を迎える。天守の特徴は、見る位置によって様相が違うこと。東側と南側である、外から見える方には千鳥破風をつけているが、北側と西側は、連窓になっている。つまり外見は綺麗だが本丸側に立てば、実に質素な天守に見える。一国一城令のあとの天守再建だけに、幕府への配慮がうかがえる。

    ( 青森観光おすすめ隊)

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    5月に行われる桜祭りの時期の天守閣は気品が有りすばらしいです。 本丸から見える岩木山(津軽富士)も絶景です。

    ( 津軽衆)

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    弘前城追手門側の追手門広場にある観光物産館に資料があります。天守閣内部に津軽家の資料。また、弘前公園内の弘前市立博物館内にも、弘前城に関する資料あり。

    ( 津軽衆・ただくん)

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    桜祭りでは、ソメイヨシノを中心に約五千本の桜が園内(49ha)を埋め尽くします。これだけは、他県の方にも自慢できますね。めっちゃ綺麗ですよ。是非見に来てください。

    ( coin)

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    城の周辺は弘前公園となっており桜の名所。天守閣、城門が5つ、櫓が3つ、それと番所が残っています。天守閣は元々櫓だったものを改造して建てたものだそうで、3層の比較的小規模なものです。

    ( ただくん・光秀)

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    だいぶ前のことで記憶も曖昧ですが、桜祭りの期間中、数年に一度の割合で6代か7代の子供のミイラを、どこかのお寺で公開しています。なんでも、その子が病気で伏せっていた時に、元気付けようとして桃を食べさせたそうなんですが、砂糖をかけてしまったことが原因で亡くなったそうです。母親は半狂乱になったそうですが、見かねた周囲の人がミイラとして保存することで母親を鎮めたとか。何か間違いがあったらごめんなさい。でも、これをきっかけに調べてみるのも一考ではないでしょうか。

    ( 義輝)

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    津軽弁と南部弁がある青森県。他府県の人は津軽弁が聞き撮りにくいらしい。

    ( 城好きの匿名希望)

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    弘前市には弘前城もありますが、戦国時代の砦も神社に姿を変えて多数存在しています。弘前城が完成する直前まで使っていた「堀越城」は熊野神社として城址が存在し、掘割の跡を確認できます。お花見で弘前公園を訪れた時、もしお時間があれば市内の古い神社仏閣を巡られると、面白い発見があるかも知れませんよ。

    ( 自称郷土史研究家見習)

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    みちのくの無骨さがそのまま残されているところと、本丸から桜越しに見える残雪の岩木山が最高です。

    ( 越後のひま殿)

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    弘前城天守は、最大27cm東側(石垣側)に沈み込んいた。その石垣修復のため、総重量約400トンの天守を曳家工法で2ヶ月かけて70m移動した。200年前に建てられた天守の柱は、直線上に並ぶものではなく微妙にずれているのを補完しながらのジャッキアップ。天守入口の扉部分は、外からの湿気のため土台となる木材の傷みが激しく、また200kgを超える扉が付いていたため沈んでいたらしい。

    ( 城好きの匿名希望)

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