長篠城の見どころアドバイス

逆さ桑

駅・公衆電話横に。合戦に敗れた勝頼が落ちる途中民家で粥を馳走になったがその時箸代わりに庭先の桑の枝を折った。食べ終わったあと、桑を逆さに庭先に差したところ逆さに生えてきたという言い伝えがある。それを駅横に移植したものと言うことになってます。
[長篠村の田吾作(99.03.24)]

※補足
これは、勝頼が敗走途中で小松ヶ瀬にて寒狭川を渡ったあたりで食事をとった時の話です。ただし、勝頼本人かどうかは解りません。ただ、目撃者(見ていた住人)は、体格の良い若武者が箸を地面に差して置いたところ、やがてその箸が根付き桑の木になった。しかし、その枝が下へ下へとのびることから逆さ桑と名付けられた。後に住民達はその若武者を勝頼だろうと噂した、とのことだったと思います。で、その桑を確か挿し木で長篠城駅前に植えたのだと記憶しています。
[長篠治左衛門(99.04.08)]

長篠城跡

駅より西に徒歩5分。広さ・堀の様子・駅沿いの道(旧飯田街道)からのアクセスのし易さを見ても、守るに堅いとはいえない印象を受ける人が多いと思います。が、それも駅沿い側から見た印象。城の3方は宇蓮川・豊川のV字谷に囲まれています。500の兵でも一点に集中させれば大丈夫だったのでしょう。
GWにはここで長篠合戦のぼり祭りが開かれてます。戦死者を慰める名目で初夏、梅雨の始まる前にお祭りをします。でも地元の百姓としては、無茶を承知で戦場に散った武田側の家臣が哀れでならないんですね。400年経った今も山縣さんだの、内藤さんだの、馬場さんだのといった名字の方(ご子孫でしょうか)が今でもお酒やお米を祭壇に供える姿を見ると感慨深いものがあります。
[長篠村の田吾作(99.03.24)]

※補足
旧街道の名称は別所街道です。飯田街道は確か名古屋から飯田へ抜ける国道153号線ではなかったかと思います。また勝頼が落ち延びた伊那街道は寒狭川を渡った新城市大海から寒狭川沿いに北上し、稲武あたりで飯田街道と合流したと思います。
また、長篠城の形は三輪川と寒狭川の合流点を頂点とする扇形をしていて、その頂点のところに本丸があります。従いまして、攻めてが本丸に近づくにつれ、防衛ラインが狭くなり守りやすくなります。また川の崖も風化した頁岩であるため、非常に崩れやすく攻めてにとっては登りにくい崖になっています。そして、長篠合戦屏風図には三輪川に橋が架かっていますが、当時から今日まであの場所に橋が架かっていたことはありません。
なお、本丸には天守台跡はありません。何故なら長篠城には天守は無かったからです。本丸跡から飯田線を越えて三輪川へ向かう道筋に、殿井戸と呼ばれる井戸の跡があります。本丸土塁にある城藪稲荷は民話「おとら狐」に出てくるおとら狐がいたところで、おとら狐はこの稲荷の使いとされていました。
また、城兵500ですが、奥平の家来は250ほどで、残りは徳川家康からの応援部隊です。鉄砲は城内に50あり、内2挺は大鉄砲といわれる、口径の大きなものでした(具体的な大きさは解りません)。
[長篠治左衛門(99.04.08)]

長篠城趾史跡保存館

城跡すぐ横。火縄銃と弾が数点。あと、合戦時のものと伝えられる血染めの陣太鼓が展示されています。んが、ごめんなさい。何ぶん田舎なもので満足させる展示にはなっておりません。合戦について良く知りたい方はJR三河東郷駅(長篠城駅から3駅)下車の設楽が原の資料館にお越しください。
[長篠村の田吾作(99.03.24)]

※補足
長篠城趾史跡保存館には、火縄銃は結構所蔵されています。ただ、設立が昭和30年代と古いのと、国の史跡内にあるため、建物を大きく出来なかったことなどから、展示してある数が少ないだけです。ここでは火縄銃よりも中津藩奥平家の家宝であった、「血染めの陣太鼓」が見物でしょう。これは保存館が出来たときに、奥平家から鳳来町に寄贈されたものです。また、朱色の畳具足が展示されていますが、これは武田の落ち武者のものと伝えられているものです。この具足は乗本の民家に代々伝えられてきたもので、正月には「兜様」「具足様」と祀られていたとのことです。

また、以前は信玄の遺言状(例の3年喪に服せとか、勝頼の息子に家督を継がせるとか書かれたもの)が展示されていましたが、持ち主(山県氏の子孫の方だとおもいました)から返却の要請があったため、現在は所有者の許可を受けて作成した模写が展示されております。また山県氏の子孫から提供された山県昌影所有の畳兜や、設楽が原近くの民家から出てきた血染めの畳兜なども展示されております。
なお、ここで長篠の戦いの資料が購入できます。ひょっとしたら鳳来町史「長篠の戦い編」がまだ買えるかもしれません。この本は5千円ちょっとですが、長篠城に興味がある方なら買いでしょう。山家三方衆の家系とか、長篠の戦いに関する逸話が詳しく載っています。
また、保存館初代館長の丸山彭氏(彼は長篠村最後の村長でもありました)が調査し書き記した本が売られています。もし、閲覧が可能でしたら、「鳥居強右衛門とその子孫」をご覧ください。そこに「磔の旗印」は武田方の落合左平治のものであることが断定されています。じつは子孫の方から丸山氏に連絡があり、共同で調べた結果断定したものです。その子孫の方のところには、絵柄の違う「磔の旗印」がまだ2つほど残っており、有名な東大資料編纂室の旗印も、もとはその家のものであったことも記されています。何故これを見て欲しいかというと、名和弓雄さんの書かれた「長篠の戦いの真実」(書名が間違っているかもしれませんが)では、武田方の落合左平治か徳川方の左平治か不明となっていたからです。
#まぁ、これは武田、徳川両方に落合左平治がいて、しかも二人とも紀伊徳川家に後に使えていることから、混乱していたのですが。
どうも、名和氏は設楽が原の資料館に協力して貰ったようですが、もし保存館の協力も仰げば、そんなミスはしなかっただろうと思うと、やるせない気持ちがします。名和氏の本は全国の書店でうられ、丸山氏の本はほとんど出回らないことを考えれば、事実よりも間違った認識の方が世に広まってしまいますから。
設楽が原の資料館は、私もオープンしたての頃行きましたが、ほとんどが火縄銃の展示でした。これはそもそも火縄銃の個人収集家(この方の実家は、馬場美濃守戦死の地である新城市出沢にあります)のコレクションを元にしたもので、長篠の戦いそのものに関連したものではなかったと記憶してます。
ということから、私はたとえ建物がショボクても、展示品から考えると、保存館の方がましだと思います。少なくても長篠の戦いに直接関連するものが展示されております。
[長篠治左衛門(99.04.08)]

大通寺

城跡から北に3分。負けると分かった戦さを前に家臣が別れの水杯をかわしたという井戸が残っています。
[長篠村の田吾作(99.03.24)]

※補足
山号は達磨山。馬場美濃守の陣があったところ。内藤、山県、馬場、ともう一人(秋山だったか、土屋だった忘れました)の4将が「これが武田家への最後の奉公となるだろう」と馬場に誘われて水杯を交わした、「水杯の井戸」が本堂裏手にあります。
#もっとも、この井戸ではなく、新城市清井田付近の清水で交わしたとの説もあります。
また、大通寺からのびる山のあたりに、菅沼氏が長篠城を築く前に、長篠氏が築いた古い長篠城があったという話がありますが、おそらく遺構は残ってないと思います。
[長篠治左衛門(99.04.08)]

長篠山医王寺

武田勝頼の本陣だったところ。大通寺から更に北に3分。門前の弥陀池には”片葉の葦”の伝説が残っています。合戦前夜、合戦の不利を説いた家臣団の忠告を聞かず開戦に踏み切ると言った勝頼の夢枕に、弥陀池の仙人が立ち、合戦の無謀さを説いたそうです。しかし勝頼は、言を入れずその仙人の片腕を切り落としたそうです。以来、この池の葦は片方にしか葉が出ないという言い伝えが残っています。
現在、この葦は残念ながら枯れています。でも私が中学の頃までは生えており、ホントに片方にしか葉がなかったんです。ある種の変異体だと思いますが、地元の百姓は戦さの虚しさをこういう言い伝えに託して、子や孫に伝えていったんでしょうね。
あと全く信憑性にかける話で申し訳在りませんが、わが家の田んぼ(県道69号線沿い)の1枚目のたんぼの水路の辺りは、徳川家康が尻まくってウンコした所だそうです。父はそう言い張っています。
↑何でやねん!
一応、父も祖父も曾祖父も先祖代々そう伝え聞いてるそうなんですけど。ねぇ?
[長篠村の田吾作(99.03.24)]

※補足
実は実家の菩提寺。先祖代々の墓や位牌があります。
「方葉の蘆」の伝説とは、勝頼の枕元に白髪の老人が立ち、「私はこの池の蘆の精霊である。」「この戦は武田が負ける。だから退却せよ。」
と告げたところ、勝頼は妖怪と思い、斬りつけ、片手を切り落とした。翌朝池の蘆をみると、すべて方葉になっていた。それ以来この池の蘆は、小さいときは両方に葉がでるが、やがて片葉になった、と言うものです。今から10年ほど前までは、幾らでもあったのですが、最近は少なくなりました。
また、医王寺には先代住職が集めた民俗資料が展示されています。たぶん寺の人に言えば閲覧可能かと思います。また、本堂には勝頼が裏山に本陣を築いたことから寺に残されている武田方の遺品(兜や鏃など)が展示されています。
[長篠治左衛門(99.04.08)]

さらに、余力のある方。

鳶が巣砦

城跡から川を渡った対岸にあります。駅から徒歩30〜40分。篭城戦の長篠城を対岸のこの山の上から見張りました。城跡はよく見えます。飯田街道(現在の151号線沿いの旧道)もはっきり見えます。城回りのみならず、設楽が原方面まで、敵の動きを知るには完璧な見張り場所といえるでしょう。
車・バイクの方。砦のすぐ横までアクセス可能です。県道69号線沿いに看板が出ています。それを指標に上って下さい。
[長篠村の田吾作(99.03.24)]

牛淵橋

豊川・宇蓮川の合流点にかかる橋。鳶が巣砦から西に徒歩で20分くらいかな? 史実とは何の関係も在りませんが、この橋の上から対岸正面に長篠城跡が見えます。豊川・宇蓮川を天然の堀として、切り立った崖の上に建つ長篠城が偲ばれます。わずか500の兵で武田軍をしのいだ長篠城の堅固さがご理解いただけると思います。

そのまま牛淵橋を渡ってまっすぐ5分も歩けばJR飯田線鳥居駅にでます。そのまま上り電車に乗って、三河東郷駅へGO! 設楽が原の古戦場においで下さい。(そうそう。田舎なので電車は1時間に1本です。下車したときに帰りの時刻表チェックして下さいね)
[長篠村の田吾作(99.03.24)]

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