大阪城の特別公開エキスパートガイド

続櫓 大阪城特別公開大手口多聞櫓の見どころ

大阪城が1位のものと言えば、3つある。「入場者数」「石垣の高さ日本一(本丸東面石垣)」、そして「大手枡形虎口の規模」だ。現在、大手枡形虎口内では、第一の門である大手門、その両サイドの大手門北方塀、大手門南方塀、枡形虎口を取り囲む多聞櫓二棟が国の重要文化財指定を受けている。その枡形虎口と現存規模は、国内最大級と言っていい。多聞櫓は、続櫓と渡櫓があり、渡櫓下に虎口第二の城門である大門(おおもん)がある。この二棟を総じて大手口多聞櫓と大阪城では称している。外観はいつでも観ることができるが、内部は常に公開されている訳ではなく、特別公開時のみ入ることができる。
続櫓・大阪城特別公開
続櫓の武者走り

大手口多聞櫓の歴史

大阪城の続櫓は渡櫓とともに多聞櫓で寛永5年(1628)徳川幕府によって建造されたが、天明3年(1783)に落雷で消失、その後、虎口の櫓台は石垣のみという状態だったが、幕末の嘉永元年(1848)に再建された。ペリー提督が黒船で浦賀に入港する5年前のことだ。再建の財源は天下普請ではなく、大坂や堺、兵庫や西宮の町人に御用金を課したらしい(臨時に上納させた)。なお、渡櫓も含め、石垣の大部分は、「加肥後守内元太夫」の刻印が3箇所あることから、元和〜寛永期に肥後熊本藩主加藤忠宏(加藤清正の息子)によって築かれ、後に、筑後久留米藩主有馬豊氏が笠石を乗せるなど改築した。

続櫓の入口

続櫓の出入口は3箇所ある。見学路の入口である南入口と、渡櫓への接続部手前東側にある東入口、そして渡櫓東室と結ぶ建物内の出入口だ。渡櫓東室の扉は後に触れるとして、順路通り南入口から見てみよう。

続櫓図面・大阪城

南入口

大阪城の二の丸の内側塁壁は芝土居になっている(櫓など建築物がある場合は、その城内側にも石垣を築き、櫓を乗せている)。出入口は、建築物の両サイドに設けられ、最初のアプローチは、芝土居に設置された雁木(石階段)を登るかたちだ。雁木上の踊り場を経て、数段の石階段を登り櫓に入る。現存の千貫櫓乾櫓なども同じアプローチで造られているので覚えておこう。

続櫓・南入口

また本来は、芝土居の雁木を登った堀際に土塀があった。その石垣の天端石(石垣の最上部の石)には笠石銃眼(かさいしじゅうがん)が使われている。この辺りの普請を担当した長門萩藩、松平長門守秀就の石垣刻印(一に○)が確認できる。

続櫓南入口付近の笠石銃眼に残る刻印

踏込間

多聞櫓の内部は、城外側に武者走りを設け、城内側に武者が控える個室を設けている。姫路城西の丸の多聞櫓と同じだ。続櫓の入口部は、その個室がなく(柱はあるが仕切られていない)、広いスペースとなっていてこれを踏込間という。この南側と北東にも入口が設けられているので両端3間を踏込間とする長局形式だ。

続櫓の踏込間

踏込間は、戦闘時に扉の内側に控える人数を増やすことができるとも言えるし、入ってきた敵兵は踏込間を過ぎると道が狭くなるため進みにくい仕組みとも考えることができる。残念ながら現在の南入口は、踏込間にわんさと荷物が置かれていて、本来の姿を確認することはできないが(できれば別の場所へ移動を)、東入口の方は、そのスペースを確認できる。

なお、この踏込間で、『重要文化財大阪城 多聞櫓外昭和修理記』という記録が壁に掛けられている。昭和36年、44年の修理を担当した工事主任が書いている内容で、『修理工事報告書』をざっと要約した内容なので、事前に読んでおくとより理解を深めることができる。

続櫓の南側の壁の厚さは約35.7cmある。扉は二重扉になっていて、外側は土戸(漆喰塗り)、内側に板戸がある。続櫓に入った瞬間に見ておくと良い。なお、板戸は敷居に二本の溝があったことから、昭和44年(1969)の修復時に復元されたものだ。

続櫓の武者走りと個室

続櫓は実に直線的な多聞櫓で、内部の長さは約53mある。南入口から幅一間半(約2.73m)の武者走りの廊下の見通しは良く、全国的に見ても、直線でこの長さの多聞櫓が現存しているのは、おそらくここだけだろう。

柱に見られる記号やほぞ穴

柱を確認していくと、いくつかの柱に共通した位置に、ほぞ穴を埋めた跡があり、これが連続して何本か続く。向かいの壁の柱にも同位置に対象のほぞ穴が確認できるので、転用材ではなく、おそらくこれも明治期の改編の跡かと思われる。昭和44年(1969)の修復時に、従来の姿に戻されているので、そういったほぞ穴には埋木がなされている。

続櫓の中央の各柱の同位置にあるほぞ穴を埋めた跡

また、南入口から入って4本目の中央に並ぶ柱に、蝶番(ちょうつがい)の跡がある。柱の上下それぞれ1箇所ずつあり、扉が付いていたことは間違いない。明治陸軍による改修ではないかと想像されるが、なぜここに扉があったのか、正確なところは分からない。

特に等間隔でほぞ穴が確認できるのが、各個室で、ほぼ全室で共通した場所に同型のほぞ穴がある。これは、明治初期に大阪鎮台が、渡櫓の中央室を事務室、東室、西室を倉庫、続櫓を兵学校の宿舎として使用していたようで、続櫓の各個室は、四段ベッドが設置されていたその跡ではないかと想像される。

続櫓の東入口踏込間・柱の同位置にほぞ穴がある

東入口の踏込間でも、そのスペースを有効活用しとうとしたのだろう、同様のほぞ穴が柱に見られるので見ておこう。ベッド設備は、千貫櫓や六番櫓にもあったそうだ。とにかく付近一帯が兵学校だった(明治19年、鎮台を第四師団に改称の時、兵学校を廃止)。

続櫓に残る墨書番付

柱に見られる記号を探してみると、新たにいろいろと発見した。続櫓の中央に並ぶ柱(棟真通中角柱)の中で、奥から2本目と3本目の柱には、墨書番付で「八」という文字が見られる。ただ、続櫓は南東隅を「一の一」と起番にして連番を使用していたそうで、そういった意味あいでは北寄りの位置に「八」というのがどうも納得がいかず、大阪鎮台が付けた部屋番号なのかもしれないとも思った。再建時のものか、幕末から明治にかけてのものかは、明らかになっていない。

続櫓の柱に残る「大兵」の印

また、この中央の柱は、25本が並んでいるが、そのうち21本に「大兵」と読める丸い押印がある。大阪鎮台に関係する刻印であることは、修理報告書から確認できたが、これは「大阪」の「兵」であるとか、具体的にどういったことを意味するのか詳細は分からない。大阪城天守閣学芸員の宮本裕次さんによると、江戸時代に「兵」から始まる組織が知られていないことから、押された時期は創建時ではなく、幕末から明治期にかけて、「大」は「大阪(大坂)」、「兵」は「兵部省」「兵器支廠」などが考えられるのではないかとお考えを頂戴した。

昭和の復元

昭和44年の修理報告書の写真を見る限り、続櫓は、個室と武者走りを仕切る板壁が、取り払われていたので、それを復元している。つまり、それ以外は当時のものだ。その他、周囲の壁の羽目板は大部分が西の丸で防空壕を作る際に持ち出されてしまったそうで、これも後述の厚嵌板とともに昭和44年の修理時に復元されている。現在の多聞櫓内をよく見ると材木が新しいことが分かる。

続櫓・昭和の修理前の写真
(『重要文化財 大阪城 大手門・同南方塀・同北方塀・多聞櫓北方塀・多聞櫓・金明水井戸屋形・桜門・同左右塀 工事報告書』(大阪市)より転載)

個室

武者溜まりと思われる個室は、三間(12畳)づつ二区画、次で四間(16畳)、三間(12畳)、五間(20畳)、四間(16畳)に間仕切を設け計6室ある(続櫓の一畳は、98.5x192cm)。本来は各部屋の入口には戸板が入っていた。

続櫓の五間(20畳)の部屋

写真は最も広い五間の部屋。特別に内部から撮影させてもらった。左手の窓は城内側、右手は武者走り。正面の仕切りは漆喰塗りとなっておりこれは防火用途かと思われる。前述の通り旧陸軍の改造で各部屋の仕切りは下半身が取り払われていたが昭和の修理に復元している。写真には写っていないが窓の外側にある突上戸も昭和44年に復元された。また、一間の長さが渡櫓と続櫓とでは異なる。渡櫓は、六尺五寸(約196.95cm)を一間としていて、続櫓の方は、六尺(約181.8cm)を一間としている。なぜそういった違いがあるのかは、宮本裕次さんのお話によると、建物の面積を先に決定し、その縦横に合わせて一間の寸法を調整したためとのこと。細部まで地形に合わせた作事が多く見られる姫路城などと異なり、徳川大坂城は時代が異なり大々的に普請を行ったイメージが強く、そういったことは規格を統一しているのではないかと想像していたが、そうではないらしい。縄張優先というか、縄張尊重というか、そういうことなのだろう。

城外側の窓

窓は、漆喰塗りの土戸が外側にあり、格子の内側には障子がある(障子は後の復元)。窓には1箇所だけ、何本かの木材を鉄で束ねている柱があったが、よく見ると、1本の木材で背割れを防ぐために金具を使っている状態だった。

続櫓城外側の窓と笠石銃眼

写真は、格子窓を外から見た土戸を閉めた状態と開けた状態。窓の格子は四角形で漆喰塗りだ。余談ながらこの写真を撮影するのに、閉館時間に順に窓を閉めていくところを狙ったが、土戸で重たく高い位置にあるため、かなり閉めずらそうだった。そして、窓の土戸を閉めている人が、下からは見えなかった。ゆえに厚嵌板は約1m36cmの高さで充分ということなる(後述)。

17の鉄砲狭間、笠石銃眼

足下の鉄砲狭間を見てみよう。石をくりぬいて造れた銃眼で、これを笠石銃眼(かさいしじゅうがん)という。大阪城のほかに、江戸城二条城岡山城でのみ見られる珍しい銃眼だ。石垣の天端石を利用した銃眼で、藤堂高虎の家臣、米村勘左衛門の設計と言われている。時代により3種あるという。天端石とは、石垣の一番上の石のこと。虎口側から続櫓の石垣を見上げると、約5.9mの高さに笠石銃眼が17個、35個の石で構成されている。一方、城内側に銃眼は無い。続櫓内の笠石銃眼の石材は、高さが約48cm、石の表面は、すだれ処理がなされ、各石材のつなぎ目を目地漆喰で覆っていた。今でも白漆喰の跡が随所で確認できるので、是非見てほしい。

笠石銃眼
続櫓内から見た笠石銃眼。石のつなぎ目に目地漆喰が残る。写真右手の白い線がそれ。

頭高厚横嵌板張(城外側のみ)

写真をよく見てほしい。笠石銃眼の上に横に渡した厚みのある嵌板がある。厚みは約3cmで城外側のみ設置されている。城外の攻撃から城兵の身を守るための板かと思われる(松前城天守にあったと伝わる板もこういったものかも)。コンコンと叩くと分かるのだが、この嵌板は、他の壁材と比べ随分固く、欅(けやき)が使われている。ちなみに、大手口多聞櫓は構造造作材は欅(けやき)や桧(ひのき)が使用され、厚嵌板は欅、その他の板類は杉が使用されている。

頭高厚横嵌板張

続櫓の厚嵌板の高さは約59cm、厚嵌板下の横材が約28cm、笠石銃眼の高さが約49cmなので、床面から、約1m36cmの高さまで、より強固に守られていると言っていい。これは幕末の工法かと思いきや、元和6年(1620)に造られた千貫櫓乾櫓でも同様の厚嵌板が城外側に設置されているのが確認できる。

また、続櫓を歩くと分かるが、窓の位置が床面から高く、身長172cmの筆者では、床面に立って窓から虎口を見下ろすことはできない。笠石の上に立たないと窓から攻撃できない高さとなっている。このため、窓があるところには笠石の窪み(銃眼部分)がほぼ無い。

東入口

なぜ空中に入口が設けられいるのかピンと来ないが、石垣上に造った搬入口というべき入口で、幅は一間、普段は、通風用の大窓として機能したのではないか。幕末の動乱期に造られた可能性もあるらしい。外側から見ると空中に土戸が設置されており、その中間に一本、手摺りが通してあるのが分かる。扉までの高さは約5.7m。

続櫓の東入口

こちらの入口も内側には個室が無く、南入口と同様に踏込間が設けられている。城内側から見られる格子戸は昭和44年に復元されたものだ。さてこの踏込間は、渡櫓への入口へのスペースも兼ねているが、続きは渡櫓のページで。

続櫓台に見られる石垣刻印

続櫓台に見られる石垣刻印
大手門側の続櫓石垣には、写真では解りずらいが中央の石には「二千内こん太夫」という刻印が見られる。こん太夫は、加藤家馬廻小姓組で谷崎権太夫のことで採石奉行を務めていた。

(文・写真=岡 泰行)

参考文献:
『重要文化財 大阪城 千貫櫓・焔硝櫓・金蔵修理工事報告書 附 乾櫓』(大阪市)
『重要文化財 大阪城 大手門・同南方塀・同北方塀・多聞櫓北方塀・多聞櫓・金明水井戸屋形・桜門・同左右塀 工事報告書』(大阪市)
『日本名城集成 大坂城』(小学館)

大阪城の特別公開エキスパートガイド
大阪城

何気に関連ありそうな記事