元和8年(1622)、城と城下町建設の際に常興寺山(城山)と永徳寺山の間を切り開いた吉津川が外堀の役目を果たしていた。城下から神辺方面への北への入り口として、妙政寺の門前あたりに総門を設け番所を置き、西国街道から城下に入る表門として機能した。二代藩主、水野勝俊の頃、現在地に総門が移転した。
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