一宮城の歴史・見どころ

一宮城は、暦応元年(1338)、阿波守護・小笠原長房の孫(長久の四男)にあたる小笠原長宗によって築かれたと伝わる。南北朝の動乱の中で、一宮氏は山岳武士の旗頭として南朝方に与し、細川氏ら北朝方と激しく争った。暦応3年(1340)以降、南朝勢力が衰えるなかでも抵抗を続けたが、貞治元年(1362)に長宗は降伏し、美馬郡に退いたとされる。その後も一宮氏は代々この城を本拠とし、阿波東半の有力勢力として存続した。

戦国期には阿波の覇権をめぐり三好氏・細川氏・長宗我部氏らの抗争の舞台となる。天正5年(1577)、城主成助は三好長治と対立し、長宗我部元親と結んで軍事行動を起こし、阿波各地で激戦を重ねた。

天正10年(1582)、織田信長の四国征討軍先鋒である三好康長と十河存保が一宮城を収めたが、同年6月、本能寺の変によって情勢が一変すると、長宗我部元親が阿波へ再侵入し、中富川の戦いで勝利して勢力を回復した。同年11月、元親は成助ら一宮氏を粛清し、支配体制を改める。

天正13年(1585)の豊臣秀吉による四国征伐では、一宮城は長宗我部方の重要拠点として抗戦したが、元親の降伏により開城する。同年、阿波を与えられた蜂須賀家政が入城し、石垣整備など近世城郭化を進めたが、翌天正14年(1586)には徳島城へ本拠を移した。その後は阿波九城の一つとして存続し、元和元年(1615)の一国一城令を経て、寛永15年(1638)に廃城となった。

一宮城の特徴と構造

一宮城は徳島平野西南部、鮎喰川南岸の山塊に築かれた標高約144mの大規模山城である。東方に紀伊水道や鳴門海峡を望み、背後には急峻な山並みを控える天然の要害で、徳島県内でも最大級の規模を誇る。

主郭にあたる本丸を中心に、明神丸・才蔵丸・小倉丸など複数の曲輪が尾根上に展開し、これらを竪堀や土塁が防御する。蜂須賀家政入城後には石垣整備が進められ、本丸跡には石塁や礎石建物跡が確認されている。麓には御殿居と呼ばれる里城跡も存在し、山城と平地拠点を組み合わせた構造を持つ点が特徴といえる。

一宮城の四段石垣
本丸北側には、四段で構成された高石垣が残る。
一宮城の堀切
本丸の南側の尾根には、城内最大規模の堀切が残る。
一宮城小倉丸
小倉丸は西側の城外側に土塁が巻かれている。さらに西側に、小丘を利用した椎丸と水ノ手丸がある。
一宮城城主の居館跡
山麓の寄神社周辺は「御殿居」と呼ばれる城主の居館跡と伝わる。周囲には堀の名残かと思われる水路が巻いている。

一宮城の整備状況

一宮城跡は昭和29年(1954)に県指定史跡となり、現在は地元保勝会による環境整備活動が継続されている。登城道や曲輪周辺の整備が進み、年間を通じて見学しやすい史跡となっている。また、平成29年(2017)には日本城郭協会により「続日本100名城」に選定され、全国から多くの来訪者を集めている。

近年、徳島市では国史跡指定を目指した総合調査事業を推進している。平成29年度(2017)から山城部で発掘調査が行われ、本丸では礎石建物跡が確認された。礎石は山下から運び上げられた厚みのある円礫が用いられ、岩盤を削って据えられていた。瓦が全く出土しないことから、板葺き屋根の建物であった可能性が指摘されている。

明神丸の造成に伴う盛土からは、京都系土師器や中国産の輸入陶磁器(白磁碗、染付皿)、肥前系磁器皿などが出土した。これらの出土遺物は16世紀代から17世紀前半を示しており、蜂須賀氏が居城としてから一国一城令(1615)による廃城までの間に、城郭の整備が具体的に進められていたことが明らかになりつつある。

  • 『日本城郭大系15』(新人物往来社)
  • 徳島市Webサイト「一宮城跡国史跡推進事業」
  • 『県史跡「一宮城跡」発掘調査現地説明会資料』(徳島市教育委員会)

一宮城の撮影スポット・絶景ポイント

一宮城の写真集

城郭カメラマンが撮影した「お城めぐりFAN LIBRARY」には、一宮城の魅力を映す写真が並ぶ。事前に目にしておけば現地での発見が鮮やかになり、旅の余韻もいっそう深まる。

一宮城アクセス・駐車場・営業時間

所在地

住所:徳島県徳島市一宮町西丁 [地図を見る]

県別一覧:[徳島県の城]

電話088-621-5418(徳島市社会教育課)

アクセス

鉄道利用

JR徳島駅下車、徳島バス約35分「一の宮札所前」降車、登山口すぐ。徒歩約30分で山頂。バスは1・2時間に1本のため、時間には注意が必要。

マイカー利用

徳島自動車道、藍住ICから19分(12.7km)。徳島一宮神社を目指す。神社手前の登山口わきに無料駐車場(5台)有り。

地図

一宮城をより深く学ぶ展示・資料館・学習スポット

『阿波一宮城』(「阿波一宮城」編集委員会 2019)が良い。B6版325ページ。