写真:岡 泰行

鳥羽城の歴史と見どころ

鳥羽城(とばじょう)は、織田信長の九鬼水軍の本拠地として世に知られている。古くは保元年間(1504〜21)に橘氏の居館があり鳥羽殿と称していた。永禄11年(1568)、九鬼嘉隆は橘宗忠をくだし宗忠の娘と婚姻を結び、鳥羽城を海に面した標高40mの城山に築城、海側に大手門を設けた城だった(鳥羽水族館前に大手門跡の説明板が設置されている)。九鬼嘉隆は信長配下の水軍となり3万5000石を領した。信長の命令で鉄甲船を製造、毛利氏を打ち破ったことは有名である。その後は、秀吉の水軍となり、関ヶ原の戦いでは嘉隆は西軍につき、どちらが勝っても家が残るよう、嘉隆の次男、守隆は東軍についた。西軍の敗戦を知ると鳥羽城の東約3kmに浮かぶ答志島(とうしじま)へと逃亡、その後、家康から許されるも時すでに遅く、家臣の促しにより答志島で切腹した。答志島を訪れると嘉隆の胴塚と首塚があり、首塚は海を望む場所に建立されている。その後、守隆は5万5千石の大名の鳥羽藩初代藩主となるが、寛永10年(1633)に守隆の三男である隆李と、五男久隆との家督争いが起こり、隆秀は2万石で丹波綾部城へ移封となり、九鬼久隆は3万6千石で摂津三田城へ移封となり、水軍は陸へ上がることとなった。同年、内藤忠重が3万5千石で入り、鳥羽城を二の丸、三の丸を増築し石垣の城へと改築、三層の天守を設け近世城郭へとアップデートさせた。その後、土井氏、松平氏、板倉氏、松平氏と城主が替わり、稲垣氏の代で明治を迎えた。廃藩置県時には鳥羽城には水門が4カ所あり、城門が相橋口門、横町口門、藤口門の3門を設け櫓は13棟あった。

参考文献:『日本城郭体系10』(新人物往来社)

鳥羽城の特徴と構造

鳥羽城の本丸跡に立つと眼下に鳥羽湾が広がる。穏やかな鳥羽湾はかつての九鬼水軍の舟入として機能したに違いない。本丸跡には天守台など見る影も無いが、小さな標識が建っており、天守跡と井戸跡があったことを示している。本丸跡は永く鳥羽小学校のグランドとして使用されていた。二の丸跡にはその校舎が残る。本丸跡(グランド)に見られる遊具は旧小学校のものだ。本丸の石垣はそのまま利用されたため鳥羽城の遺構として現在に残っている。小学校の旧校舎は、平成20年(2008)年まで使用され、平成21年(2009)、鳥羽小学校は堅神(たかかみ)へと移転した。余談ながら城山に残された旧校舎は、三重県初の鉄筋コンクリートの建築物で旧鳥羽小学校校舎として国の国登録有形文化財に指定されているそうだ。本丸跡は平成23年(2011)〜25年に発掘調査が行われ、天守台は明治期に削平されたことが明らかになり、合わせて本丸御殿の大井戸や排水溝などが確認された。

また同様に、鳥羽城の城山の西側に石垣で築かれた削平地が設けられているが、これは家老屋敷跡で平成15年(2003)まで鳥羽幼稚園があった。石垣南側の階段は、幼稚園が現役の頃はその半分で古い石階段が見られたが、全面コンクリートに変更されている。階段に面する石垣には材質の異なる石(鏡石と考えれる)してはめ込まれ、美しい石垣風景を醸し出している。

本丸跡

鳥羽城本丸跡本丸跡は鳥羽小学校のグランドとして使用されていたため、遺構として確認できるのは、広大な削平地に、天守跡と井戸跡のみで、天守台跡はその位置のみ案内がある程度だ。本丸跡からは鳥羽湾が一望できる。また九鬼嘉隆の胴塚と首塚がある答志島も北東に見られる。

本丸石垣

鳥羽城本丸西側石垣本丸西側は鳥羽城の中で最も良好に石垣が残る。本丸北東隅部にも石垣が見られる。現在、西側の帯曲輪は駐車場ととして活用されている。また、旧鳥羽小学校側から見られる石垣には暗渠が見られる。

家老屋敷跡

鳥羽城家老屋敷跡鳥羽城内の家老屋敷があった場所とされ、野面積の石垣が見られる。平成15年(2003)まで鳥羽幼稚園があった。旧幼稚園の建物裏にも石垣がある。石垣は階段に面したほうは見栄えよく鏡石らしきアクセントとなる石材を用いている。写真手前の階段は、幼稚園が現役の頃はその半分で古い石階段が見られたが今は全面コンクリートとなっている。

相橋

相橋武家屋敷から鳥羽城に上がるために武士が利用した橋で、城の陸側の玄関口。城側の護岸には石垣が見られる。この水堀は妙慶川で古来は志摩国と伊勢国の国境だった。

唐人門跡

唐人門跡唐人門跡(とうじんもんあと)は、妙慶川の河口付近、船着場として設置された江戸時代の船着場。要するに舟入堀で、明治10年(1877)に明治天皇が御宿泊所となった常安寺に向かうために上陸した所で、江戸末期から明治にかけては船行遊女らが沖の親船に乗り出した場所でもあった。現在、冠木門が復元されている。

三ノ丸広場

鳥羽城三ノ丸広場鳥羽城の東側は近鉄の線路と国道42号線となっているがそのあたりに二ノ丸御殿があった。現在見られる麓にある石垣は城の玄関口として整備されたもの。線路の対岸に大手門跡がある。

大手門跡

鳥羽城大手門跡鳥羽水族館の前にある大手門跡。絵図では枡形虎口となっており、海に向かって設けられていた。2間半×4間で番所も備えられていた。現在は案内板のみ設置されておりその遺構は確認できない。

参考文献:現地案内板・『三重県史跡九鬼水軍の海城 鳥羽城跡』(鳥羽市観光協会)

鳥羽城の関連史跡

九鬼嘉隆の首塚・答志島九鬼嘉隆の墓は、鳥羽城に面する鳥羽湾に浮かぶ離島「答志島」にある。関ヶ原の戦いで敗れ答志島の曹洞宗という寺で自刃した。現在、曹洞宗は石碑のみで、付近に、血洗い池と胴塚、鳥羽城を望む築上岬山上に首塚がある。答志島へは、鳥羽マリンターミナルから鳥羽市営定期船で約20分。答志島の西側には桃取城という小さな城跡もあるらしく土塁が残っているらしい。

城では、名古屋方面に少し移動すれば、津城、神戸城桑名城亀山城松阪城など日帰り圏内。1セットにするも良し。ちなみに三重県で現存する城郭建築は亀山城の櫓のみ。

鳥羽城のおすすめ旅グルメ

鳥羽の海女小屋伊勢湾に面するお城。やはり刺身がうまい。近鉄、JRの鳥羽駅から鳥羽城の間に、魚介料理を愉しめるグルメ処が密集している。中でも気軽に海の幸で昼食をという時は、海女小屋にいくと良い。ハマグリや伊勢エビなどを少量つまみ、昼からビールもおつなものだ。

鳥羽城の史跡めぐりにこだわる最適なホテル

この当たりは鳥羽の観光地。鳥羽水族館ともいきの国伊勢忍者キングダム(旧伊勢戦国時代村)、志摩スペイン村のパルケエスパーニャなどがあり、宿には苦労しない。リゾート地なので宿によってはお値段が高いかもしれない。名古屋または大阪からのお城めぐりのベースキャンプにも良いが、気軽なひとり旅は、このあたりだと松坂に宿をとる人が多い。

鳥羽城のアクセス・所在地

所在地

住所:三重県鳥羽市鳥羽3丁目1 [MAP] 県別一覧[三重県]

電話:0599-25-1271(鳥羽市教育委員会生涯学習課社会教育係)

アクセス

鉄道利用

JR鳥羽駅、または近鉄鳥羽駅下車、南へ徒歩10分(約900m)

マイカー利用

伊勢二見鳥羽ライン、松下JCTから、国道42号線を南下、家老屋敷跡下に10台程度の駐車場がある。

城ファンの気になるところ (4)

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    鳥羽水族館の目の前の山がそれ。現在は、石垣の一部が残るのみ。公園と小学校がある。

    ( 半兵衛)

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    城跡には明治6年(1873)創立の市立鳥羽小学校が建つ。その運動場と校舎部分が本丸と言われ、運動場あたりに天守櫓があった模様。錦(二色)城の別名がある。九鬼水軍の本拠地、九鬼嘉隆の水城だった鳥羽城は、魚を保護するため、海側を黒、山側が白の配色だったと言われ、この2色が、錦(二色)城の由来。

    ( 半兵衛)

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    学校の帰り、友達とよく登りました。階段が苔だらけで、傾いているのでちょっとビビるかも。城跡には、小学校と公園ができていて、鳥羽の離島が一望できます。

    ( ひろとし)

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    20年ぶりに鳥羽城を訪れました。昔は本丸に小学校があった時代からの再訪です。その痕跡は小学校グランドのある本丸跡まわりの石垣と、城山の西側にある幼稚園の石垣(家老屋敷)のみといった印象でしたが、今は小学校と幼稚園はなく、天守跡や井戸跡など本丸跡で調査がなされたもようで、その看板が建ってました。また、小学校側にも巨大な暗渠が石垣に見られました。城山の西側に降ります。西側麓にある横町口門跡に行ってみたのですが、その虎口は完全に消滅しており、虎口内で左折になる道路のみという状態でした。城山の北側に向かいます。武士が登城する際に利用した相橋には、その下に石垣も見られ、またそのすぐ付近には、唐人門跡と呼ばれる冠木門が復元されていました。鳥羽城は多少、整備された感が出てきたと思います。

    ( 磯野)

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