大坂城包囲網の城(一覧)

慶長の世、豊臣政権の象徴として聳えた大坂城は、やがて徳川幕府にとって最大の脅威となった。豊臣秀吉の死後、徳川家康は豊臣秀頼と、豊臣恩顧の西国大名を牽制するため、大坂城包囲網を築き上げた。街道の封鎖と監視を目的に、天下普請によって新たな城が各地に築かれたのである。これらの城は特に大坂城の東側、すなわち東海道・大和路・伊賀・伊勢方面に多く見られ、畿内を囲む戦略的な布陣を形成した。やがてこの包囲網は、慶長19年(1614)の大坂冬の陣、翌年の夏の陣へと続く緊張の布石となる。本ページでは、家康の指揮のもとに築かれた包囲網の城を紹介し、大坂の陣へ至る歴史的構図をたどる。

大坂城包囲網と紹介されている城はいくつかあるが、そのうち西に位置する大半は城は、徳川家康の死後に築かれたものだ。大坂の陣の翌年、徳川家康は死去している。この時、大坂城の西、山陽道、南海道には徳川の譜代大名の城がない状態だった。二代徳川秀忠は、尼崎城明石城姫路城龍野城と築き、元和3年頃から播磨を採りはじめた。その後、広島城の福島正則を改易、福山城を築いた。また、大坂城の南にある岸和田城和歌山城に徳川系が入封する。大坂城を守る布陣が敷かれた。