大阪城の残念石とは

徳川期大坂城の石垣には約100万個の石が使われていると言う。その石材は、兵庫県西宮市や芦屋市に広がる六甲山、京都府の木津川や伏見城、東大阪、そして小豆島や前島など瀬戸内海の島々、遠くは九州から切り出され、主に水運を利用して大坂城に運ばれた。一説には、このうち、大坂城石垣の約6割を六甲山の花崗岩が占めると云う。

石材は、石丁場(いしちょうば・採石場)から大坂城の築城場所まで、陸路や海路、河川などを利用し、修羅など当時の運搬技術を用いて運ばれた。陸路や船に積むまでのルートは石引き道が整備されたと考えられている。これら各地でその石が残されている。例えば石丁場で調整石として整形されるもなんらかの理由で運び出されなかった石材、その運搬途中で落下などし捨て置かれた石材、運ばれてきたが未使用のまま保存された石材などが現代でも随所に見られ、それらの石が「残念石」や「残石」などと呼ばれている。

点在する残念石を探す

これら残念石は、石に残る「刻印」や「矢穴」のサイズや形を知っておくことで、当時の石かどうかを見分けることができる。これをキーに、採石場である石丁場に残る残石や京阪神の平野部に点在する残念石を追いかけ、エリアごとの一覧を手元でできるだけ作成してゆく。実際に現地自治体が把握している残念石やそれがすでに移動して無いもの、新たに認められたものなど、2023〜2024年現在のダイジェスト版を本ページで公開していきたい。写真は筆者が少しでも自身の目で刻印を確認し撮影できるよう、同じ場所を時間を変えて2〜3度訪れて記録撮影してゆく(それでも見えない刻印はあるのだが)。

残念石調査の期間は、主に2023年5月からスタートし大阪市内、東大阪、木津川、西宮市、芦屋市市街地の主要なところは同年7月に終え、2023年度末に小豆島の石丁場、岡山県の前島の石丁場、2021年度から2024年度には散発的に東六甲山の石丁場を訪れた。今後は遠方地に足を進めるためスピードは落ちるが、できだけ公開していきたいと思う。

残念石の調査にあたり、大阪市、木津川市、西宮市、芦屋市の学芸員さんより多大なご協力を頂戴致しました。記して御礼申し上げます。

(写真・文=岡 泰行)

残念石のリスト(エリア別)

2023年現在で確認できた大坂城の残念石(残石)や石丁場を、京阪神中心にエリア別に掲載しています。城郭カメラマンである筆者が自身の記録として撮影したものです。何かのご参考になりますれば幸いです。

刻印とは

大坂城と言えば石垣に用いられた「刻印(こくいん)」の話をよく耳にする。築城用の石材に刻まれた、文字や家紋など様々な記号のことだ。大坂城に使われている刻印は代表的なもので200種、それを軸に変形したものを入れると1,247種確認されている。その内容は、大名やその家臣名、組を示すものや地名や寸法、意図が不明なものまで様々な内容がある。記号は墨書きによるものと、ノミで石に刻まれたものとあり、前者は「墨書石」、後者は「刻印石」という。墨書石はその符号が消える可能性も高く、ゆえに現代では刻印石がより多く残っている。

石垣刻印は、文禄または慶長初期以降に大量に用いられるようになった。天下普請で築城する際、採石場や運搬途中、石置場や石垣構築の現場で混乱を避け、作業効率を高めることがその目的だ。石垣構築現場では、各大名の境界を示す線刻や根石からの高さを示す数字が刻まれた。多くは墨で書かれた刻印のラインを、なぞるように掘ったものと考えられている。

矢穴とは

採石場から切り出された石は、最適なサイズに加工され搬出される。この行程で石を効率的に割る作業が必要になる。この時用いられる技法が「矢穴(やあな)」を使い石を割る方法だ。石に等間隔に矢穴が掘られ、そこに「矢」と呼ばれるクサビを打ち込むことで石を割っていた。石材加工技法で徳川期大坂城築城時に多用されてゆく。

  • 徳川大坂城東六甲採石場(芦屋市教育委員会)
    矢穴の形の解説は芦屋市のWebページ末尾の「徳川大坂城東六甲採石場」(PDF)で見られる。

芦屋市教育委員会によると、矢穴には時代によって様々な形がある。この矢穴を型式整理したのが、東六甲山麓で活動していた藤川祐作氏と森岡秀人氏だ。主に古A、A~Dタイプに形によって分類され、それぞれ用いられた時代も特定されている。このうち徳川大坂城で用いられた矢穴は、元和〜寛永期で矢穴口の長さ約8〜12cmの「Aタイプ」と呼ばれるもので、それ以降はというと、矢穴は徐々に小さくなり、Bタイプ(江戸時代)、長さ6cm未満のCタイプ(江戸時代〜明治)、長さ3cm未満の丸形Dタイプ(近現代)と分類されている。こういった形で基本の型式が分類され、目的の石材の大きさや石質、作業者によって細かなサイズが規定されたと考えられている。

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