大阪城残念石のリスト

西宮市・尼崎市の残念石

最も残念石が点在していると思われる兵庫県西宮市と芦屋市。これらの残念石(残石)は、徳川大坂城の東六甲採石場(石丁場)から、採石されたものです。西宮市から神戸市にかけて東西約7kmに広がる六甲山南側の斜面から石を採掘し、海岸まで陸路2〜3kmを運搬、船に積み十数km先の大坂まで運んでいました。

東六甲採石場は6つのエリアに分類されています。東から、「甲山刻印群」「北山刻印群」「越木岩刻印群」「岩ケ平刻印群」「奥山刻印群」「城山刻印群」の6群で、このうち、西宮市は甲山、北山、越木岩の3つの刻印群を有します。

阪神という土地は、六甲山から、なだらかな斜面で海岸に至ります。実際に足を運んで思うことは、ここ西宮市で六甲山から海岸までどこを通り石を運んだのかという疑問です。

地図を見て気づくことは、「甲山刻印群」では甲山付近から東を流れる仁川を経由して石を降ろすコースが考えられますが、仁川渓谷の沢登りの経験上、その激しさと距離から極めて可能性が低く、六甲山南側の西宮市のどこかを通って海まで石を降ろしたことになります。ですが芦屋市のようにこの川の谷地形を利用したとか、その経路が明らかになっていません。

西宮市の学芸員さんに石引道を伺うと、石丁場付近から直線で海に落ちる「建石筋」という名の道路があり、それが石を運ぶ道だったのではとしています。考古学的な裏付けはありませんが、地理的には申し分のない道です。現在も大阪から車で海沿いを走り西宮市の刻印群に向かおうとすると、面白いことにナビが「建石」交差点で右折し「建石筋」の北上を誘導します。今もそこに行く最短距離として、ナビが算出しているのです。

西宮市の残念石の資料

筆者が育った場所は、兵庫県宝塚市の仁川(にがわ)で、川を渡れば西宮市という立地です。ここに来て幼少期から慣れ親しんだ土地で残念石探しをすることになるのですが、手にできる資料は殆どありません。

西宮市が公式に発行する残念石が掲載された媒体は『西宮歴史散歩 案内マップ』(西宮市立郷土資料館)のみで、西宮市文化財課が作成しています。ほかに、毎年1月〜3月に毎月行われる案内ツアーがあります(うち1回は甲山森林公園の東六甲石丁場跡)。案内マップには、残念石約20ヶ所がプロットされており、関連するマップ上の表記は「丁場跡」「刻印石」「調整石」の3種です。

記載内容は、市とボランティアの情報交換でアップデートを重ねている模様で、2016年に改版を受けていますが、それ以降のアップデートはまだされていません(2023年現在)。案内マップには一部すでに無いものも記載されていました。本ページでは、案内マップで確認できたものをベースに、地元人から聞いたものも加え、2023年現在で確認できた残念石(残石)を六甲山から海に向かって南下するかたちで紹介します。

なお、残石石の調査で、西宮市の学芸員さんに大変お世話になりました。記して御礼申し上げます。

甲山刻印群(甲山森林公園ほか)

甲山刻印群の石丁場に残る谷筋に集められた石材
徳川大坂城東六甲採石場のひとつ「甲山刻印群」に分類されるE地区・G地区の石丁場跡。多数の矢穴石や刻印があり、石を切り出し成形する過程が残っている。詳しくは甲山刻印群のページで紹介している。

甲山刻印群A地区
甲山刻印群A地区。甲山の南方「目神山(めがみやま)」近辺に、甲山八十八ヶ所巡りの地蔵が立ち並んでいる。その頂上付近に矢穴列痕が残る磐座がある(写真上部の面は切り取られた跡・背後の山は甲山)。この周囲にも矢穴列痕が残る石がある。甲山刻印群で掲載しているが、軽登山道沿いの石仏には、一部で矢穴やその痕跡が見られた。また、南の斜面には、鍋島家刻印と矢穴列痕が刻まれた残石が確認できる。

亀石

通称「亀石」(西宮市甲陽園目神山町)。目神山の麓を流れる御手洗川(みたらしがわ)の南岸にある。矢穴列が6列ほどある巨石で北側には小さな川が流れており、付近にはコッパ(整形済みの余り石)が多少だが見られ石丁場跡であることが分かる。ドアツードアな石丁場跡。

亀石
亀石
亀石を上から見た図。写真手間に伸びる左右の矢穴列両方にヤバトリの跡がある。V字にまず掘ってそのV字の谷間に、いよいよ矢穴を堀りかけで作業が止まっている(V字に掘る作業は石の荒い面を削り取る作業)。また、中央には「○が3つ(星3つ)」の刻印らしきものがうっすら見られる。平戸藩松浦隆信のものと思われる。この刻印は本ページ末尾でも登場する。亀石にはもう一種、京極家の刻印もあり、手前の四角形ではないかと思われるが、まだはっきりとは見えてこない。

亀石の裏手にある松浦家刻印
亀石の裏手にある石には、松浦家を示す「○が3つ(星3つ)」の刻印石がある。

北山刻印群(北山公園ほか)

堀尾家の分銅紋の刻印石(北山公園)
西宮市北山町、北山公園の北山緑化植物園入口には、堀尾家の分銅紋の刻印石がある。徳川大坂城東六甲採石場のひとつ「北山刻印群」に分類される石丁場跡だ。このあたりの川は、ちょうど北山公園の山の東と西、南に流れる流路と、山をぐるりと囲む川があり、採石・運搬するのに好都合な山だったのではと思われる。余談ながら植物園には図書コーナーもあるが植物に関する所蔵で石丁場に関するものはない。

北山刻印群の矢穴列がある巨岩(北山公園)
北山刻印群の矢穴列がある巨岩(北山公園)
先の北山緑化植物園入口から園内に入り、さらに奥に道を進むと、矢穴列が4列ほどある巨石がある。

越木岩刻印群(越木岩神社)

越木岩神社の刻印石
越木岩神社の残念石(残石)。右手の残石には池田長幸(備中松山城主)の刻印があり、左側の立ててある残石には、鍋島勝茂(肥前佐賀城主)の刻印が見られる。また、越木岩神社のご神体は周囲約40m高さ約12mの巨石で、こちらにも池田家家紋があり、また、境内の至るところで矢穴列が確認できる。

西宮市街地の残念石

苦楽園二番町公園

苦楽園二番町公園の残石
住宅街の中の苦楽園二番町公園。備中松山藩の池田家、松江の堀江家、丹波福知山の有馬家の採掘場跡らしい。住宅街にしては珍しく、石は発見当時のまま動いておらず原位置を保っている。

苦楽園四番町公園

苦楽園四番町公園の残石
苦楽園から南下する。間近から広角で撮影しているため大きく見えるが、実は腰高ほどの丸石(苦楽園四番町公園)。分銅紋の刻印石とされるが、まったく刻印が見えてこず「東面の木々をかき分けて見てください」と学芸員さんから聞き三度訪れるが、正確に確認できない(右側の円がそれっぽいが)。余談ながら、苦楽園四番町公園一帯はもともとひとりのお金持ちが住んでいた広大な土地でこれを手放した後、宅地開発がなされ28件の家が建ち並ぶ。その中央に小さな公園を造ったらしい。ということは庭石だったのか。ここから芦屋市との市境付近を南下していく。

苦楽園四番町1

苦楽園四番町の残石
矢穴列痕が残る石(苦楽園四番町1)。矢穴サイズは多少大き目で長さ18cm、深さ12cmある。

苦楽園五番町みどり公園

苦楽園五番町みどり公園の残石
苦楽園五番町みどり公園で3つの石が見えるがどれかが刻印石らしいが判読できない。このあたりは、住宅外の中に小さな公園が点在するといった街並みで、宅地開発で出土した石を公園に移設していることが多いらしい。そのため、もともとあった場所にある石というのは個人宅に残されているケースがある程度で、基本的にはかなり少ない。

西田公園

西田公園の残石
山手から平地に降りてきた。西田公園に見られる矢穴列痕がある割石。

一本松地蔵尊

一本松地蔵尊の石碑(刻印石)
西宮市常磐町の細い道路沿いに佇む一本松地蔵尊の石碑は、石碑正面上部に分銅紋の刻印、裏面に矢穴列痕が1列がある。

一本松地蔵尊の石碑(刻印石)
石碑上部の分銅紋の刻印。

夙川延命地蔵尊

夙川延命地蔵尊
夙川の川沿いの供養塔「夙川延命地蔵尊」。台座に矢穴列痕が見られる。夙川の川沿いに落ちていた地蔵を拾い集めて埋め、その上にこの供養塔を建てて祀った。

海清寺南天棒碑

海清寺南天棒碑
海清寺南天棒碑。海清寺墓地にある石碑で中央の文字右下に赤穂藩池田家の刻印がある。また、側面には矢穴列痕が南北2列ある。

松原天満宮

松原天満宮の残石
松原天満宮には、その敷地の東南隅と西南隅に残石が置かれている。写真左は西南隅のもので上部に矢穴列痕1列、背面にも1列ある。写真右の東南隅の残石は矢穴が1つ確認できる。

浜脇小学校雄大碑

浜脇小学校雄大碑
浜脇小学校雄大碑。角石ではないかと思われるサイズ。

夙川の翠橋

夙川の翠橋のたもとにある残念石
夙川の翠橋のたもとにある残念石(写真右下)。矢穴列が残る。西宮市立郷土資料館のすぐ裏手。

甲子園浜海浜公園

甲子園浜海浜公園に移設された残石

今津砲台跡付近から海にかかる橋を渡る甲子園浜という人工島に移設された残石。矢穴列が走り、見事に割れている。上部に○が3つ(星3つ)の刻印が2つ列ぶ。刻印は平戸藩松浦隆信のもので、甲陽園から宅地開発時に公園に運ばれたものかと思われる。案内板は無い。余談ながらこの島の人工は0人。

尼崎市の残念石

尼崎の寺町の残念石

尼崎の寺町にある残念石
尼崎の寺町、如来院ある残念石を利用した供養碑。背面に矢穴列痕と、側面上部に稲葉家「菱に三」の刻印が見られる。ここにある経緯は分からない。尼崎市立地域研究史料館紀要『地域史研究』(2017・2021尼崎市史編修室)では、刻印から尼崎城ではなく徳川大坂城のものではとしている(尼崎城の残石についてはこちら)。

尼崎城本丸跡に残る境界石(非公開)

尼崎城本丸跡に建つ境界石
尼崎城本丸跡に建つ石丁場の境界石(非公開)。特別に見せていただいた。「これ上五丁四方 松平長門内 ○○○○○ 卯五月 十」と刻まれている。寛永4年(1627)、徳川大坂城築城期のもので、尼崎城跡にある経緯は分かっていない。

幕末に築造された砲台に、東六甲の石が使われなかった

今津砲台跡
海辺の残念石を追いかけるとこの今津砲台の前を通る。かつて、西宮市の海岸線には、幕末に西宮砲台と今津砲台が造られた。砲台は石造りで、西宮砲台は幕末に岡山の島々から、今津砲台は岡山県に加えて小豆島から運ばれた花崗岩で造られた。

不思議なことにこの時、新たに六甲の山々から石は切り出されていない。花崗岩が大量にある地域なのになぜ新たに切り出さないのか。これについて『御台場築造 ─西宮・今津の砲台─』(2022西宮市郷土資料館)では、その石質の良さと海路の運搬のしやすさから瀬戸内海の島々の花崗岩を使用したとしている。

写真奥にある今津の砂浜は今も健在だが、現在、この石碑の背後に今津港を津波から守る水門が建ち、風景が様変わりしつつある。また案内板の印刷が屋外使用年数を過ぎていて消えかかっていた。余談ながら、今津港の入り口に建つ今津灯台は、文化7年(1810)「大関」醸造元である今津の長部家五代目、長兵衛によって今津港に建てられた灯台で、その後、六代目文次郎が再建し、今も使われている現役の灯台だが、これでは海から灯が見えないので、今津砲台跡の石碑のある岸の方へ移設する計画が起ち上がっているらしい(2026年度完成予定)。

(文・写真=岡 泰行)

大阪城残念石Googleマップ「西宮市・尼崎市編」

参考文献:
『西宮歴史散歩 案内マップ』(2016西宮市立郷土資料館)
『西宮市内の地蔵の追加調査報告』(2015西宮市立郷土資料館)
尼崎市立地域研究史料館紀要『地域史研究』(2017・2021尼崎市史編修室)

備忘メモ:
西宮市立郷土資料館によると、西宮市で見つかった石丁場についての調査報告書は、『徳川大坂城東六甲採石場詳細分布調査報告書』(2018西宮市教育委員会)と『徳川大坂城東六甲採石場』(2008兵庫県教育委員会)の2種。

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