原城 ― 島原・天草一揆、信仰と飢餓の果てに

寛永15年(1638)、島原・天草一揆の最終局面で、幕府軍は原城を海陸から包囲した。補給を断ち、三か月に及ぶ兵糧攻めが行われた。当時の記録には、籠城側が飢えと病に苦しみ、餓死者が続出したことが伝わる。総攻撃によって城は陥落し、籠城者はほぼ全滅した。信仰の拠点が包囲と飢餓の中で崩れたこの戦いは、江戸期最大の兵糧攻めとして知られる。

月山富田城 ― 毛利元就の包囲に屈した尼子晴久、出雲の要害終焉

天文12年(1543)、毛利元就が尼子晴久の拠る月山富田城を包囲した。周囲の支城を落とし、補給線を断つことで兵糧攻めに転じたと伝わる。記録によれば、城内では飢えと病が広がり、士気が急速に衰えた。やがて晴久は退去し、出雲における尼子氏の勢力は大きく後退した。戦国初期における包囲戦術の転換点となった攻囲戦であった。

鳥取城 ― 秀吉の「飢え殺し」で因幡を制した戦国最凶の籠城

天正9年(1581)、羽柴秀吉は鳥取城を包囲し、周囲の米を買い占めて兵糧を断った。さらに難民を城へ誘い込み、内部の食糧を急速に消費させた。複数の同時代記録に、籠城兵が飢えの極限に追い詰められた様子が記されている。約四か月後、守将吉川経家は降伏して自刃した。後世「鳥取の飢え殺し」と呼ばれるこの攻囲は、戦国期でも最も苛烈な兵糧攻めの一つである。

備中高松城 ― 水攻めと兵糧断ちが融合した秀吉の戦略城攻め

天正10年(1582)、羽柴秀吉は毛利方の清水宗治が籠る備中高松城を攻めた。湿地を利用して堤防を築き、水攻めを行うと同時に兵糧の補給を断った。城は完全に孤立し、飢餓が深刻化したことが記録からうかがえる。やがて宗治は和議に応じ、切腹して開城した。兵糧攻めと水攻めを併用した戦法は、秀吉の柔軟な戦略を示す代表的な戦例となった。

三木城 ― 別所長治の覚悟、「三木の干殺し」に散る

天正6年(1578)、別所長治が籠る三木城を羽柴秀吉が包囲した。周囲に付城を築き補給路を断ち、二年に及ぶ兵糧攻めが続いた。飢餓と病が広がり、草木までも食したと伝わる。天正8年、長治は領民と家臣の助命を条件に開城し、自刃した。後に「三木の干殺し」と呼ばれたこの包囲戦は、秀吉の包囲戦術が完成へ向かう節目となった。

有岡城 ― 荒木村重の籠城、長期包囲で崩れた誇り

天正7年(1579)、荒木村重が織田信長に叛き有岡城に籠った。信長は羽柴秀吉らを動員して包囲し、周辺の支城を制圧して兵糧を遮断した。長期化する籠城の中で飢えと病が蔓延し、降伏者が相次いだと伝わる。村重は脱出したが、残された妻子や家臣は処刑された。兵糧攻めの帰結として城が崩壊した典型例に数えられる。

上月城 ― 援軍尽き、飢えに果てた尼子再興の夢

天正6年(1578)、尼子勝久が拠る上月城が毛利軍に包囲された。羽柴秀吉の援軍は届かず、城は孤立無援となった。記録によれば、城内では食糧が尽き、飢餓による死者が続出した。勝久は自刃し、尼子再興の試みは潰えた。長期包囲がもたらす持久戦の厳しさを示す戦例といえる。

長島城砦群 ― 信長が伊勢を焼き尽くした干殺しの包囲戦

天正2年(1574)、織田信長は伊勢長島の一向一揆勢を陸海から包囲した。海上封鎖で補給を断ち、数か月に及ぶ籠城の末に飢餓が深刻化した。最終的には火攻めで砦群が壊滅し、多数の死者を出したと伝わる。兵站遮断を徹底した攻囲は、のちの秀吉による包囲戦にも通じる戦術的原型となった。

高天神城 ― 家康が糧道を断ち、遠江制圧を決した包囲戦

天正9年(1581)、徳川家康が遠江の高天神城を攻囲した。補給を絶ち、周辺の支城を制圧して城を孤立させる戦略がとられた。半年に及ぶ籠城の末、城内では飢えと病が広がり、開城後に多くの将兵が討たれたと伝わる。糧道遮断による兵糧攻めの典型例として知られる。

小田原城 ― 北条氏滅亡を導いた天下総攻囲戦

天正18年(1590)、豊臣秀吉は北条氏直の拠る小田原城を三か月にわたり包囲した。周囲の支城を制圧し、補給を遮断して城を孤立させた。当時の記録には、長期包囲の中で飢えや病が広がったことが記されている。兵糧攻めの語は用いられないが、実質的には同様の戦術が展開された包囲戦といえる。