備中高松城の歴史・見どころ

備中高松城の歴史

備中高松城は、備前・備中の国境に近い足守川流域の低湿地に築かれた平城で、築城時期は16世紀前半頃と考えられている。築城したのは、備中半国の旗頭として勢力を持っていた石川氏とされる。高松城は、西国における東西交通の中間点に位置し、旧山陽道や伯耆と備中を結ぶ大山道にも近い交通の要衝だった。この立地は軍事上も重要で、のちに織田氏と毛利氏が覇権を争う最前線となった。

石川氏には実子がなく、養子として迎えた後継者も早世したため、家督継承をめぐる争いが起こった。永禄8年(1565)、家臣の長谷川氏が高松城へ兵を進めたが、城内で清水宗治によって討たれ、宗治が高松城主となる。こうして宗治は備中半国の旗頭となり、毛利氏に従属して小早川隆景の配下として各地を転戦した。天正6年(1578)の上月城攻めにも従軍し、その後は備中北部まで勢力を広げ、備中一国は毛利氏の支配下へ組み込まれていった。

天正10年(1582)、織田信長は羽柴秀吉に中国攻めを命じ、備中高松城は毛利氏の防衛線「境目七城」の一つとして重要な役割を担った。秀吉は開戦に先立ち、蜂須賀正勝と黒田孝高を使者として送り、備中・備後二国を与えることを条件に宗治へ寝返りを勧めたが、宗治はこれを拒み、毛利氏への忠義を貫いた。

その後、秀吉軍は周辺の支城を次々に攻略し、高松城を完全に包囲する。当初は力攻めを試みたものの落城には至らず、多くの損害を出したため、秀吉は兵の消耗を避ける策として大規模な水攻めを実施した。足守川を堰き止める堤防を築き、さらに龍王山北東麓から鳴谷川の水を導く工事も進められた。梅雨による増水も重なり、高松城は周囲を水に囲まれた孤城となった。毛利輝元・小早川隆景・吉川元春らは後詰めとして周辺に布陣したものの、戦況を覆すには至らなかった。

戦いが続くなか、天正10年(1582)6月2日に本能寺の変が起こり、織田信長が討たれる。これを知った秀吉は、一刻も早く講和を成立させる必要に迫られた。安国寺恵瓊を通じて毛利方との交渉が進められ、最終的に宗治の自刃を条件として和睦が成立する。6月4日、宗治は城兵の助命と引き換えに船上で切腹し、「浮世をば 今こそ渡れ 武士の 名を高松の 苔に残して」と辞世を詠んだ。この最期は敵味方を問わず称えられ、忠義の武将として後世まで語り継がれている。

宗治の自刃によって高松城は開城し、その2日後、秀吉は主君・織田信長の仇である明智光秀を討つため、「中国大返し」と呼ばれる大軍の進軍を開始した。この迅速な行軍によって山崎の戦いに勝利し、秀吉は天下統一へ向けた大きな一歩を踏み出すこととなる。備中高松城の戦いは、日本史の転換点となった戦いとして広く知られている。

開城後、高松城には秀吉方の杉原七郎左衛門が城番として置かれ、その後は宇喜多氏の家臣花房正成が城主となって城を大きく改修した。さらに慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い後には、徳川家旗本となった花房職之が入部し、陣屋として利用するための改修も行われた。現在の城跡には、戦国末期から近世初頭にかけて繰り返された改修の痕跡も残されている。

備中高松城の特徴と構造

備中高松城は、足守川左岸の低湿地に南東へ細長く延びる微高地を利用して築かれた平城で、城域は約400m四方に及ぶ。現在の本丸は周囲より比高約2mの土壇となっており、西国の東西交通を結ぶ旧山陽道や、伯耆と備中を結ぶ大山道にも近い交通・軍事の要衝に位置していた。また、備前との国境に近いことから、「境目七城」の一つとして毛利氏の防衛線を支える重要な役割も担っていた。

縄張りは、「伝高松古城之図」によると、北西側に土壇を備えた本丸、中央に二の丸、南東に三の丸を配置し、その北東側には堀または低湿地を挟んで家中屋敷が設けられていたと推定されている。本丸跡からは戦国時代の瓦が出土しており、瓦葺き建築が存在していたことも確認されている。また、昭和50年(1975)と平成9年(1997)の発掘調査では、曲輪や堀の一部、郭の斜面崩壊を防ぐための捨石が確認されたほか、瓦、陶磁器、木製食器、石仏なども出土し、城郭の構造や城内での生活の様子が明らかとなった。

高松城最大の特徴は、周囲の沼や湿地を巧みに利用した防御構造と、水攻めの舞台となったことである。現在も「東沼」「北沼」「大池」「西沼」「大沼」「沼田」などの地名が残り、城が自然の要害だったことを伝えている。また、天正10年(1582)の水攻めでは、秀吉は城の南側に全長約3km、基底幅約22m、上幅約10m、高さ約7mに及ぶ堤防を、わずか12日間で築いたと伝えられている。この堤防によって足守川の水を引き込み、高松城は湖に浮かぶ孤城となった。もっとも、近年では約3kmにわたる堤防を連続して築いたのではなく、地形を利用しながら要所に約300〜400m、高さ約2〜3mの堤防を設けたとする研究も示されている。

備中高松城・本丸跡と二の丸跡
本丸跡と二の丸跡、手前は堀跡。
本丸跡に建つ清水宗治の首塚
本丸跡に残る清水宗治の首塚。
清水宗治の胴塚
北西の住宅街に残る清水宗治の胴塚。

現地を訪れると、平地の中央に残るわずかな兵陵が本丸跡といった風情で高松城址公園となっている。公園内は二の丸、三の丸があるが各曲輪の外郭が明瞭に解るわかるではない。本丸跡には清水宗治の首塚、北西すぐの住宅街の中に胴塚が残る。水攻めの際に造られた堤防は、高松城の東南にその一部が残り「蛙ケ鼻築堤跡」という。また城址に西に足守川沿いに、高松城水攻め水取り入れ口遺跡(石柱のみ)があり、堤防の規模が体感できる。秀吉本陣は東側の山にあるが40年前は城址の眺望が良かったが、近年は木々が生い茂り高松城が見えにくくなっている。

備中高松城・蛙ケ鼻築堤跡
秀吉が水攻めの際に築いた「蛙ケ鼻築堤跡」。現在は国史跡「蛙ケ鼻築堤跡」として保存されている。
足守川
秀吉は足守川の水を利用して水攻めを行った。足守川には「高松城水攻め水取入れ口遺跡」という石碑が建つ。

備中高松城の整備状況

備中高松城跡は国史跡に指定され、本丸跡を中心に高松城址公園として整備されている。園内には清水宗治の首塚や胴塚、自刃の地など水攻めゆかりの史跡が点在し、高松城址公園資料館では古図や発掘調査の成果、水攻めの経過などを展示している。

また、備中高松城跡の南西約900mに残る蛙ヶ鼻の築堤跡は「高松城水攻め史跡公園」として保存・公開されているほか、足守川を堰き止めた副堤跡や、鳴谷川から導水を試みた高松城水攻め鳴谷川遺跡(県史跡)も良好な状態で保存されている。近年の調査成果により、築堤の構造や導水工事の実態が明らかとなり、現地の案内板や公園整備にも反映されている。城跡だけでなく、水攻めという歴史的戦術を現地で体感しながら学べる史跡として、保存と活用が進められている。

参考文献:

  • 『日本城郭大系13』(新人物往来社)
  • Webサイト「備中高松城跡」(岡山県古代吉備文化財センター)

備中高松城の撮影スポット・絶景ポイント

四百年の時を越えて咲く蓮

宗治蓮備中高松城には、歴史ロマンを感じさせる、もうひとつの物語がある。発掘調査後、本丸の堀跡から約400年ぶりに蓮が開花したのである。戦国時代、高松城を囲む沼地には蓮が群生していたと伝えられ、公園整備後には城跡を取り囲むように花を咲かせるようになった。水に守られ、水に散った城主・清水宗治も、同じ蓮の花を眺めていたのかもしれない。蓮の見頃は毎年梅雨明け頃で、宗治祭の開催時期とも重なる。城跡を囲むように咲く景観は見応えがあり、岡山後楽園を上回る本数ともいわれる。現地のカメラマンによれば、光がやわらかく気温も低い早朝7時頃が撮影に適しているという。

備中高松城の撮影ポイント

石井谷公民館から望む備中高松城址全景備中高松城跡は、午前中が順光となる撮影スポットが多い。城址全景を撮るなら、城跡から東へ約200mにある石井谷公民館付近がおすすめ。やや高い位置から城跡を見渡すことができ、水攻めによって湖に浮かぶような高松城の姿を想像しやすい。また、秀吉が本陣を構えたとされる石井山の陣跡も展望地として知られるが、近年は樹木の成長により眺望は以前ほど開けていない。

備中高松城の写真集

城郭カメラマンが撮影した「お城めぐりFAN LIBRARY」には、備中高松城の魅力を映す写真が並ぶ。事前に目にしておけば現地での発見が鮮やかになり、旅の余韻もいっそう深まる。

備中高松城周辺の観光スポット・史跡めぐり

蛙ヶ鼻築提跡蛙ヶ鼻築提跡秀吉が築いた水攻めのときの築堤跡「蛙ヶ鼻(かわずがはな)築提跡」はその歴史ストーリーを思えば見逃せない。また、蛙ヶ鼻築提跡の背後の山「石井山」には、秀吉が水攻めの際の陣を置いた場所や「太閤岩」と伝わる岩(太閤岩からは城址が見えない)や、清水宗治の首実検をした「首塚跡」も山中に。登山口は上記マップでチェック。なお、首はその後、本丸跡に移されたので首塚は本丸跡にもある。城の近辺には清水宗治の胴を葬った胴塚、また、宗治自刃跡の五輪の塔の供養塔も見ておこう。

足守陣屋または、秀吉の正室、寧々の兄である木下家定が築いた足守陣屋。陣屋跡は堀が残る程度だが、家老級の侍屋敷や大名庭園、風情のある町並みが堪能できる。近年、城下町が整備されている。

お城ファンは備中七城を。信長軍を迎え撃った、小早川隆景が配した防御ラインの高松城を含む備中七城。北から、宮路山城、冠山城、鴨庄城、庭瀬城、日幡城、松島城を探索しても面白い。いずれも平城、もしくは平山城。冠山城は山頂に墓が残り、撫川城は石垣や水堀を残す(場所は上記マップ参照)。詳細は「清水宗治サイト」が詳しいぞ。

一般観光スポットとして忘れてはならないのが、日本三大稲荷のひとつ最上稲荷(さいじょういなり)。現地を訪れるとひときわ大きな鳥居があるが、この最上稲荷のもので鳥居は日本最大級なのだとか。

水攻めされた城

備中高松城は水攻めの城、秀吉の中国大返しの起点として知名度が高い。清水宗治が守る高松城を水攻めしたのは織田信長配下の羽柴秀吉で、その堤防は、主に県道245線で蛙ヶ鼻築提跡に結ばれていた。余談ながら水攻めで有名な城は、岡山県の備中高松城、和歌山県の太田城、埼玉県の忍城の3城あり、日本三大水攻めなどと呼ばれている。

備中高松城周辺グルメ・名物料理

本丸北側すぐにある「清鏡庵(せいきょうあん)」で和菓子「水攻饅頭」を。夏は「水大福」が涼しげでおいしい。気軽にひとつから買えるぞ。清鏡庵は地元の人が通う老舗。

備中高松城アクセス・駐車場・営業時間

所在地

住所:岡山県岡山市北区高松 [地図を見る]

県別一覧:[岡山県の城]

電話:086-287-5554備中高松城址資料館

開館時間

高松城址公園は散策自由。備中高松城址資料館は10時〜15時、入場無料、月曜・年末年始休館。

アクセス

鉄道利用

JR吉備線「備中高松駅」下車、徒歩5分。改札口を出てすぐ右へ線路沿いを進み、踏切を渡り北へ約800m。蛙ヶ鼻(かわずがはな)築提跡は徒歩約10分。詳しくは上記Googleマップ参照のこと。鉄道利用で合わせて足守陣屋や鬼ノ城もめぐりたい人は、備中高松城駅前のタクシー(稲荷観光交通 TEL:086-287-3030)を利用すると良い。

マイカー利用

山陽自動車道、岡山ICから約10分。蛙ヶ鼻築提跡駐車場3台、高松城址公園南側の駐車場約25台、西側の駐車場約12台。いずれも無料。

地図

備中高松城周辺ホテル・宿泊情報

JR吉備線、総社駅付近にビジネスホテルがある。車利用なら備中高松城の北東にある粟井温泉「あしもり荘」など。

備中高松城をより深く学ぶ展示・資料館・学習スポット

備中高松城址資料館

備中高松城址資料館備中高松城址資料館(新資料館)が、2023年6月4日、リニューアルオープンした。新たに建築された新資料館は、10時〜15時、月曜休館。旧資料館は閉館とり、清水宗治の備前焼や史料は新資料館に受け継がれた。

備中高松城の関連書籍

書籍「高松城水攻の検証」237ページで2,100円。資料館、または城跡すぐ横の「清鏡庵(せいきょうあん)」でGETできる。