写真:岡 泰行

忍城の歴史と見どころ

忍城(おしじょう)は成田顕泰によって築城され、石田三成による忍城水攻めにも耐え「忍の浮城」と称された。阿部忠秋によって大改築され、御三階櫓が建ち刷新されたが、明治維新後に取り壊された。現在は市が御三階櫓などを再建し、水城公園として整備されている。その痕跡と見どころを紹介する。

忍城の歴史

忍城は現在の埼玉県行田市にあり、北は栃木県との境となっている利根川、南は荒川に挟まれた低湿地帯にある。この2つの河川や支流によって作られた自然堤防や、伏流水が湧き出て集まった沼地に残る島や高地を利用して、忍城は築城された。この立地から、守りにくく攻めにくい天然の要害となっており、関東屈指の名城である。また、備中高松城(岡山県)、紀伊太田城(和歌山県)とともに、豊臣秀吉により水攻めされた城として知られている。

室町時代後期の連歌師である宗長は、永正6年(1509)10月頃に忍を訪れ、「東路のつと」にその様子を記している。

「武州成田下総守顕泰亭にして。
あしかものみきはは雁の常世かな
水郷なり。館のめぐり四方沼水幾重ともなく蘆の霜がれ。二十(三十イ)余町四方へかけて。水鳥おほく見えわたりたるさまなるべし。」
(「東路の津登」『群書類従』第18輯より)

成田顕泰は忍城の城主。これによれば、水郷といえる場所に忍城があったことがわかる。城のまわりは四方とも沼でかこまれ、20町(30町とも)余りもの広さに渡って霜枯の葦が水辺に生え、水鳥も多く見えるような場所だった。

忍城が築かれた年代には諸説あるが、近年では15世紀の後半に成田氏によって築かれたと考えられている。史料上に忍城の名前が見られる初見は、文明11年(1479)と比定される閏9月24日足利成氏書状で、この頃は古河公方足利成氏と関東管領上杉氏を中心とした戦乱が続いており、成田氏も足利成氏の下で動いていた。

このような状況で、新しい勢力である北条氏が相模国を平定し北関東へも勢力を広げていくと、成田氏は、天文15年(1546)足利氏・上杉氏対北条氏で戦う河越合戦の頃までには、北条に属したと考えられている。さらに永禄3年(1560)に越後の長尾景虎(上杉謙信)が関東へ進軍するとこれに従い、1年半ほど後には北条方に戻る。成田氏は情勢に応じて帰属を変えながら、独自の領域支配を形成していった。

小田原合戦と忍城の水攻め

天正17年(1589)11月に豊臣秀吉が北条討伐を宣言して関東へ出陣し、翌18年3月に駿河の山中城が最初に攻め落とされた。6月、秀吉は小田原城近くに布陣した本隊から、石田三成を指揮官として忍城へ大軍を派遣する。着陣した三成は、秀吉と書簡をやりとりし指示を受けながら、水攻めの準備をすすめた。それは城の周りに約28キロもの堤を築き、利根川と荒川の水を引き入れるという壮大な作戦だったが、これを受けた忍城は周囲よりも少し高い地形にあったため、水に沈まず浮いたように見え「浮き城」と呼ばれたという。さらには、大雨で堤が切れ、三成の陣が冠水し被害が出たともいわれている。

三成本陣跡
丸墓山古墳を利用した石田三成の本陣跡。

石田堤と堀切橋
石田堤史跡公園付近にある堀切橋。堀切という名は、このあたりで石田堤が決壊したことが由来とされている。右手の茂みが石田堤でL字型に曲がり橋に沿って堤が設けられていた。

このような水攻めを受けた忍城だったが降伏には至らず、7月1日に北条氏直が降伏の意を示し5日に開城をした際にも、忍城は籠城していた。しかし開城の交渉が進められ、7月14日に忍城は秀吉方に引き渡された。

江戸時代の忍城

小田原合戦後、天正18年8月に徳川家康が関東に移ると、忍城は家康の4男である松平忠吉に与えられ、城預かりとして松平家忠が入城した。家忠は、水攻めで荒れた城や城下を修復する。慶長5年(1600)に忠吉が尾張に移ると、忍領は徳川氏の蔵入地や旗本領となり、城には城番が入った。やがて、寛永10年(1633)に「知恵伊豆」の異名で知られる松平信綱が藩主として城に入り、次いで阿部忠秋が5万石で藩主になると、城や城下町の大規模な拡張・整備が進められる。信綱と忠秋は徳川家光の小姓から出世し老中に上り詰めたため、忍城は武蔵河越や下総佐倉と並ぶ「老中の城」として幕府を支える重要拠点と位置づけられた。以後、阿部氏の統治が続き、忠秋の孫で5代将軍綱吉の老中となった正武の代、元禄15年(1702)に忍城の御三階櫓が完成し、この頃に城と城下が完成した。

文政6年(1823)に阿部氏が陸奥白河へ移ると、代わって奥平松平氏の松平忠堯が藩主となり、以後松平氏の統治が続き、明治維新を迎える。廃藩置県後は廃城となり、明治6年(1873)に一部の土塁を残して城は取り壊された。

忍城の構造と特徴

本丸土塁

忍城本丸土塁
本丸西側を囲む土塁。土塁や土塀が復元されているが、旧状を残している箇所もある。

忍城櫓の石垣石

忍城櫓の石垣石
城内の櫓にあった石垣。元禄15年(1702)に三階櫓と二階櫓が建てられていたが、明治6年(1873)に解体された。

伝進修館表門

伝進修館表門
藩校「進修館」の表門と伝えられる。現存する行田市唯一の武家屋敷の表門。

時の鐘

忍城の時の鐘
元は伊勢桑名にあったもので、文政6年(1823)に松平氏が忍へ移封されるときに忍へ移された。鐘楼は諏訪曲輪の土塁上に移築され、鐘は取り外され博物館で展示されている。

忍諏訪神社北側の土塁と堀跡

忍諏訪神社北側の土塁と堀跡
明治6年(1873)の廃城後、遺構は諏訪曲輪の空堀と土塁、大手湖沼の一部のみだったが、昭和63年(1988)に御三階櫓が復興されるなど、公園整備により、本丸周辺の堀や土塁も復元された。往時の曲輪群は姿を消しているが、街の中にある石碑を訪ね歩くと城域を体感することができる。その他、總願寺(埼玉県加須市不動岡)に移築城門、北谷門が残っている。

※石田三成と水攻め関連遺構は、「歴史スポット」の項目を参照されたし。

忍城の城下町、行田市

江戸時代中期には忍の名産品として知られていたのが「足袋」。近代にはミシンが使われるようになったことで生産が増大し、最盛期である昭和13年(1938)には年間約8,500万足、全国シェアの約8割を占めた。市内には現在でも「足袋蔵」と呼ばれる近代化遺産も多い。平成29年(2017)に「和装文化の足元を支え続ける足袋蔵のまち行田」のストーリーが、文化庁の日本遺産に認定される。2017年10月にTBSで放映されたドラマ『陸王』でも行田の足袋が有名になった。
また、2007年の小説および2012年の映画『のぼうの城』で、忍城と石田三成の水攻めの物語が描かれている。

(文=haya 写真=岡 泰行)

行田市郷土博物館

本丸跡に建つ行田市郷土博物館へ。忍城の展示と解説がある。忍城御三階櫓もその一部となっている。また、町中の散策も良い。各曲輪跡を示す石碑が膨大に町中に点在しているので、歩いてその規模を実感できる。

石田三成の忍城水攻めの映画『のぼうの城』

映画『のぼうの城』本能寺の変から8年、1590年。戦国末期。天下統一を目前に控えた豊臣秀吉は、関東の雄・北条家に大軍を投じた。そのなかで最後まで落ちなかった支城、忍城を壮大な映像で描く。

忍城の撮影方法

忍城御三階櫓は広角レンズがあると良い

忍城御三階櫓を水堀ごしに狙おうとすると、最低でも24mm(35m換算)ほどの広角レンズが必要になるぞ。また、歴史ストーリーを考えると、三成の陣地だった丸山古墳から忍城を望遠で望みたいが、残念ながら城はよく見えず、おまけにあまり絵にならない。

忍城の写真集

城郭カメラマン撮影の写真で探る忍城の魅力と見どころ「お城めぐりFAN LIBRARY」はこちらから。

忍城の関連史跡

歴史ストーリー上、訪れておきたい石田三成と水攻め関連の史跡を見ておこう。

三成本陣跡(行田市・丸墓山古墳)

三成本陣跡複数の大型古墳が集まるさきたま古墳群であり、古墳公園の中にある「丸墓山古墳」が「三成本陣跡」である。直径105mの大きさで、円墳としては日本最大といわれる。高さは約19mで、さきたま古墳群の中で最も高く、周囲を一望できる。頂上から三成の視点で忍城方面を眺め、思いを馳せるのもいいだろう。なお、古墳から南の駐車場付近へ続く道は「石田堤」の一部。

石田堤史跡公園(鴻巣市)

石田堤史跡公園忍城から南東へ約4km、鴻巣市に「石田堤史跡公園」がある。石田堤は、石田三成が忍城を水攻めするために築いた堤の跡。総延長14kmもの堤を5日間で築き、利根川と荒川の水を流し入れたといわれている。現在の行田市と鴻巣市に一部が残っている。石田堤史跡公園には土塁の断層が見られるところがあり、版築の様子が分かる。

石田堤歴史の広場(行田市)

石田堤歴史の広場石田堤史跡公園から北へ約200mのところにあり、平成27年(2015)にオープンした。当時の石田堤の深さまで掘り下げた再現箇所がある。余談だが、石田堤史跡公園と石田堤歴史の広場の間にある忍川にかかる「堀切橋」は、野外アート風のデザインが評価され土木学会推奨の土木遺産に認定されている。
(haya 18.10.10)

さきたま風土記の丘公園

城戦国から少し離れますが、稲荷山古墳等、古墳群が「さきたま風土記の丘公園」として整備されています。公園内の埼玉県立さきたま資料館には、「ワカタケル」の文字が刻まれた鉄剣など、稲荷山古墳から出土した遺物が、現在一括して国宝に指定され常設展示。さきたま古墳群には先方後円墳8基と円墳1基があります。将軍塚古墳には併設の展示館があり、内部の石室を復元し公開しています。円墳の丸墓山古墳は日本最大の円墳で、忍城の水攻めの際に石田三成が陣を張りました。現在、忍城の御三階櫓は、丸墓山頂上からなんとか肉眼で確認できます。また、市内には八幡山古墳、地蔵塚古墳、小見真観寺古墳があります。
(ハラダマユミ 04.8.12)

忍城のおすすめ旅グルメ

ご当地B級グルメ「フライ」「ゼリーフライ」

行田のご当地グルメとして「フライ」「ゼリーフライ」が知られている。とはいえ、「フライ」は一般的にイメージされる揚げものではなく焼いたもの。ゼリーフライは揚げているが、菓子のゼリーを揚げているのではない。昔から足袋作りの女工さんも食べていたといわれるお値段も手頃なご当地グルメ、現地へ行ったときにはぜひ一度味わってみたい(文:haya)。

忍城の史跡めぐりにこだわる最適なホテル

行田市駅前の「ホテルサンマリノ」、水城公園付近の「行田天然温泉ハナホテル行田」だけかも。

忍城のアクセス・所在地

所在地

住所:埼玉県行田市本丸17-23 [MAP] 県別一覧[埼玉県]

電話:048-554-5911(行田市郷土博物館)

開館情報

忍城御三階櫓は復興櫓で行田市郷土博物館となっている。開館はAM9:00~PM5:00(入館はPM4:30まで)。休館日は月曜日(ただし祝祭日のときは開館)、祝祭日の翌日(ただし土曜日、日曜日は開館)、毎月第4金曜日。

アクセス

鉄道利用

JR高崎線、吹上駅下車、バス行田車庫行き朝日バス(前谷経由)「忍城」降車、徒歩すぐ。または、秩父鉄道線、行田市駅下車、徒歩15分。

マイカー利用

東北自動車道、加須ICから、約30分(17.2km)。または、関越自動車道、花園ICから、約32分(24km)。無料駐車場有り。

城ファンの気になるところ (19)

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    浮き城「忍城」の名残は本丸土塁と諏訪曲輪の一部のみ。鐘楼は改修されて残存。鐘は新鋳のもの。現品は博物館に展示。三階櫓(本当は三の丸に建っていた)は本丸跡に復興。城沼はほとんど埋められて市役所、産業会館、学校になっている。一部が水城公園として残っている。本丸は野球場になっていたが博物館として整備された。全曲輪、城下の復元ジオラマは圧巻。

    ( 石川造酒正)

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    丸山古墳から天守を狙うと良し。丸山古墳は三成の陣地。

    ( 石川造酒正)

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    博物館に展示と解説あり。館内でパンフレットを販売。学芸員のお兄さんが親切で、縄張図をいただいた。

    ( 石川造酒正)

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    戦国時代に石田三成の水攻めに落ちなかった水城として知られています。江戸時代には桑名藩から城主を迎え、徳川の親藩として栄えました。近くの道も整備されていて、江戸時代にトリップした気分が味わえるかも!?

    ( 吉本こずえ)

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    忍城は天守閣(昭和63年に復興)と鐘楼が復元されています。三階建てのこじんまりとした天守です。天守へ入る方法は郷土博物館から渡り廊下を通って入るという事を知っておかないと、他の城の感覚で行ってしまうと、「あれ?」と思います。でも関東地区で天守閣が復元されている城は少ないので是非行って見て下さい。

    ( たんじる)

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    埼玉県熊谷市を本拠地とする成田氏が築いた城で、文明11年(1479)の古河公方足利成氏の書状に「忍城」とでてくるそうで、この時代には既に築城されていたと考えられています。成田氏は北条氏に属していたため、豊臣秀吉の小田原征伐の時には北条方につき、石田光成が水攻めをしました。約1週間で延長28kmにもおよぶ堤を築き、利根川と荒川の水を引き入れました。しかし、いくら水を入れても落ちないのは「城が浮いているからだ」と言われるようになり、別名「浮き城」という名前がつきました。その時の堤も今も一部残っているそうで、「石田堤」と呼ばれております。結局小田原落城後もこの城は落とせず、開城(降伏)してもらったそうです。このあと行田10万石として徳川家康の4男、松平忠吉が入場します。以降徳川の親藩や譜代の大名に引き継がれ、明治維新の時、取り壊されます。昭和63年(1988)に再建されました。

    ( 小林幸雄)

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    本丸跡に博物館がある。復興三重櫓があるが、本来三の丸にあったもの。博物館から国道を挟んで北側に東照宮があり、その裏に土塁と水堀の跡がある。また南東部にある水城(すいじょう)公園はかつて堀の役目をしていた沼地を利用した公園。

    ( ヒラリン)

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    15世紀末に、地元の忍(おし)氏を滅ぼした成田氏により築城。以後約1世紀に渡って成田氏が城主となる。1590年の秀吉の小田原攻めに際し、石田三成らに攻められるが、小田原開城まで持ちこたえ、名城と謳われた。江戸期は阿部・松平(奥平)など譜代大名が入る。明治維新で大部分を破却。

    ( ヒラリン)

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    後北条征伐での石田三成の有名な水攻めは、秀吉の備中高松城の水攻めに倣ったもので、その際作られた土塁は、現在も一部が残っています(当時の築堤全長は七里で約28キロ。期間はたった一週間)。説明の書かれた立て看板もあり、当時、城をぐるりと囲んだ図が描かれています。また、水攻めの際の戦いの様子も図でわかりやすく説明されています。ただ、現在その場所は一般の方の敷地に隣接しているので、見学の際はご迷惑にならないようにすべきでしょう。

    忍城には武芸に秀でた甲斐姫という美しい女性がいたというのは有名ですが、隣接の資料館には、甲斐姫の資料は特に見当たりません。学芸員さんのお話では、彼女は伝説的な人物だということです。ただ、父で城主の成田氏長が小田原城入りした留守中、石田三成によって攻められた際、甲斐姫が忍城で中心となって戦った話は、歴史ファンの知るところです。『成田記』等の資料によりますと、甲斐姫は自ら鎧を着て黒駒に騎乗し、城を守るために奮迅したそうです。その後、甲斐姫は秀吉に見初められて、側室となっています。一般の城跡関連の書籍に、水攻めの復元絵図が載っているものがありますが、中には天守閣が描かれているものもあります。ですが、水攻めの当時に天守閣は存在していないとのことです。城内の鐘楼の鐘(復元)は、大晦日に除夜の鐘を撞きます(江戸時代の本物の鐘は資料館に保存展示されています)。

    ( ハラダマユミ)

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    忍城は、南に荒川、北に利根川と星川の流れる低湿な土地に造られました。これらの河川の乱流によって形成された、沼地や微高地を利用した、全国でも珍しい天然の水城です。戦国時代、行田周辺の武蔵武士の中から、現在の熊谷市上之を本拠地とする成田氏が台頭し、築城されました。文明11年(1479)の古河公方足利成氏の書状に「忍城」、「成田」とでてくることから、このころには築城されていたと考えられます。成田顕泰から以後親泰、長泰、氏長と四代にわたり、天正18年(1590)まで約百年のあいだ成田氏が忍城主でした。永正6年(1509)、忍城を訪れた連歌師の宗長は、城の四方は沼にかこまれていて、霜で枯れた葦が幾重にもかさなり、水鳥が多く見え、まことに水郷である、と日記に書いています。天正18年(1590)徳川家康が関東にはいると、家康の四男松平忠康(のちに忠吉)が十万石で忍城に入城します。以後江戸時代をつうじて、忍城には徳川の譜代や親藩の大名が城主として入りました。寛永16年(1639)に幕府の老中であった阿部忠秋が五万石で城主となると、忍城と城下町が整備され、孫の阿部正武のときに十万石となり、元禄15年(1702)には御三階櫓(ごさんかいやぐら)が完成し、名実ともに忍藩十万石の城としてのかたちが整いました。文政6年(1823)に阿部氏が福島県の白河へ移ると、忍城には三重県の桑名から松平忠尭・奥平松平氏)が入り、以後明治維新まで松平氏が城主でした。

    ( ハラダマユミ)

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    石田堤や数少ない遺構を見て歩くのは郷土博物館(再現天守閣)で無料で自転車を貸してくれますますので、それを利用すると隈なく見て歩けます。自転車で行った石田堤界隈から水攻めの状況を想像するとスケールの大きさに感動します。

    ( goodshot)

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    やはり有名な豊臣秀吉の小田原攻めの際の「忍城攻防戦」。石田三成を総大将に攻め込んできたが、守備隊がよく防ぎ、また三成の水攻めも間者や忍びも紛れさせて失敗。結局、小田原開城まで持ちこたえてしまった。

    ( NSカトー)

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    2009年7月に訪れました。来秋公開予定の映画「のぼうの城」の舞台ということで、官公庁を中心に当地全体が盛り上がっているようでした。

    ( NSカトー)

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    毎年11月(平成21年は11月8日)に「忍城時代まつり」が行われます。石田三成軍との「忍城攻防戦」の再現劇も行われます。

    ( NSカトー)

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    資料館と併設されていて、資料館では戦国時代までの行田地区、江戸時代以降にわかれて展示されていました。当地が足袋の特産地ということもあり、足袋の展示もみられました。

    ( NSカトー)

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    行田では「ゼリーフライ」が名物です。決してゼリーを揚げたのではなく、おからとイモのフライ。軟らかく美味です。多くの定食や食堂で提供しています。

    ( NSカトー)

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    石田堤(石田堤史跡公園)、水攻めの際の堤防跡が残ります。また、丸墓山古墳が三成本陣跡です。その他、加須市の不動ケ岡不動尊總願寺に黒門が移築現存しています。

    ( NSカトー)

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    日本三大水攻めの城は、和歌山県の太田城、岡山県の備中高松城、埼玉県の忍城の3城となる。

    ( shirofan)

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    秀吉の小田原征伐で、北条氏の居城難攻不落の城である小田原城が落ちた後も抵抗した。
    三成の水攻めでも浮いたように見えたため、『浮城』と呼ばれた。

    私の推し城

    ( カール君)

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