忍城
写真:岡 泰行
忍城の開城時間
忍城御三階櫓
御三階櫓は復興櫓で行田市郷土博物館となっている。開館はAM9:00~PM5:00(入館はPM4:30まで)。休館日は月曜日(ただし祝祭日のときは開館)、祝祭日の翌日(ただし土曜日、日曜日は開館)、毎月第4金曜日。
忍城のアクセス・駐車場
鉄道利用
JR高崎線、吹上駅下車、バス行田車庫行き朝日バス(前谷経由)「忍城」降車、徒歩すぐ。または、秩父鉄道線、行田市駅下車、徒歩15分。
マイカー利用
東北自動車道、加須ICから、約30分(17.2km)。または、関越自動車道、花園ICから、約32分(24km)。無料駐車場有り。
忍城の文献資料
行田市郷土博物館
本丸跡に建つ行田市郷土博物館へ。忍城の展示と解説がある。忍城御三階櫓もその一部となっている。また、町中の散策も良い。各曲輪跡を示す石碑が膨大に町中に点在しているので、歩いてその規模を実感できる。
忍城の立地と歴史、今に残る城の遺構とは
小田原合戦時、石田三成の水攻めで知名度が高い忍城。関東屈指の名城といわれ、水郷地帯に築かれた忍城の歴史と今も残る遺構を紐解く。
石田三成の忍城水攻めの映画『のぼうの城』
本能寺の変から8年、1590年。戦国末期。天下統一を目前に控えた豊臣秀吉は、関東の雄・北条家に大軍を投じた。そのなかで最後まで落ちなかった支城、忍城を壮大な映像で描く。
忍城の撮影スポット
忍城御三階櫓は広角レンズがあると良い
忍城御三階櫓を水堀ごしに狙おうとすると、最低でも24mm(35m換算)ほどの広角レンズが必要になるぞ。また、歴史ストーリーを考えると、三成の陣地だった丸山古墳から忍城を望遠で望みたいが、残念ながら城はよく見えず、おまけにあまり絵にならない。
忍城のグルメ
ご当地B級グルメ「フライ」「ゼリーフライ」
行田のご当地グルメとして「フライ」「ゼリーフライ」が知られている。とはいえ、「フライ」は一般的にイメージされる揚げものではなく焼いたもの。ゼリーフライは揚げているが、菓子のゼリーを揚げているのではない。昔から足袋作りの女工さんも食べていたといわれるお値段も手頃なご当地グルメ、現地へ行ったときにはぜひ一度味わってみたい(文:haya)。
忍城近郊のホテル・旅館
行田市駅前の「ホテルサンマリノ」、水城公園付近の「行田天然温泉ハナホテル行田」だけかも。
忍城の歴史観光スポット
歴史ストーリー上、訪れておきたい石田三成と水攻め関連の史跡を見ておこう。
三成本陣跡(行田市・丸墓山古墳)
複数の大型古墳が集まるさきたま古墳群であり、古墳公園の中にある「丸墓山古墳」が「三成本陣跡」である。直径105mの大きさで、円墳としては日本最大といわれる。高さは約19mで、さきたま古墳群の中で最も高く、周囲を一望できる。頂上から三成の視点で忍城方面を眺め、思いを馳せるのもいいだろう。なお、古墳から南の駐車場付近へ続く道は「石田堤」の一部。
石田堤史跡公園(鴻巣市)
忍城から南東へ約4km、鴻巣市に「石田堤史跡公園」がある。石田堤は、石田三成が忍城を水攻めするために築いた堤の跡。総延長14kmもの堤を5日間で築き、利根川と荒川の水を流し入れたといわれている。現在の行田市と鴻巣市に一部が残っている。石田堤史跡公園には土塁の断層が見られるところがあり、版築の様子が分かる。
石田堤歴史の広場(行田市)
石田堤史跡公園から北へ約200mのところにあり、平成27年(2015)にオープンした。当時の石田堤の深さまで掘り下げた再現箇所がある。余談だが、石田堤史跡公園と石田堤歴史の広場の間にある忍川にかかる「堀切橋」は、野外アート風のデザインが評価され土木学会推奨の土木遺産に認定されている。
(haya 18.10.10)
さきたま風土記の丘公園
城戦国から少し離れますが、稲荷山古墳等、古墳群が「さきたま風土記の丘公園」として整備されています。公園内の埼玉県立さきたま資料館には、「ワカタケル」の文字が刻まれた鉄剣など、稲荷山古墳から出土した遺物が、現在一括して国宝に指定され常設展示。さきたま古墳群には先方後円墳8基と円墳1基があります。将軍塚古墳には併設の展示館があり、内部の石室を復元し公開しています。円墳の丸墓山古墳は日本最大の円墳で、忍城の水攻めの際に石田三成が陣を張りました。現在、忍城の御三階櫓は、丸墓山頂上からなんとか肉眼で確認できます。また、市内には八幡山古墳、地蔵塚古墳、小見真観寺古墳があります。
(ハラダマユミ 04.8.12)
忍城の口コミ 城ファンチェック (18)

2000.04.04 石川造酒正 さんより
浮き城「忍城」の名残は本丸土塁と諏訪曲輪の一部のみ。鐘楼は改修されて残存。鐘は新鋳のもの。現品は博物館に展示。三階櫓(本当は三の丸に建っていた)は本丸跡に復興。城沼はほとんど埋められて市役所、産業会館、学校になっている。一部が水城公園として残っている。本丸は野球場になっていたが博物館として整備された。全曲輪、城下の復元ジオラマは圧巻。
2000.04.04 石川造酒正 さんより
丸山古墳から天守を狙うと良し。丸山古墳は三成の陣地。
2000.04.04 石川造酒正 さんより
博物館に展示と解説あり。館内でパンフレットを販売。学芸員のお兄さんが親切で、縄張図をいただいた。
2001.04.17 吉本こずえ さんより
戦国時代に石田三成の水攻めに落ちなかった水城として知られています。江戸時代には桑名藩から城主を迎え、徳川の親藩として栄えました。近くの道も整備されていて、江戸時代にトリップした気分が味わえるかも!?
2001.09.02 たんじる さんより
忍城は天守閣(昭和63年に復興)と鐘楼が復元されています。三階建てのこじんまりとした天守です。天守へ入る方法は郷土博物館から渡り廊下を通って入るという事を知っておかないと、他の城の感覚で行ってしまうと、「あれ?」と思います。でも関東地区で天守閣が復元されている城は少ないので是非行って見て下さい。
2002.05.08 小林幸雄 さんより
埼玉県熊谷市を本拠地とする成田氏が築いた城で、文明11年(1479)の古河公方足利成氏の書状に「忍城」とでてくるそうで、この時代には既に築城されていたと考えられています。成田氏は北条氏に属していたため、豊臣秀吉の小田原征伐の時には北条方につき、石田光成が水攻めをしました。約1週間で延長28kmにもおよぶ堤を築き、利根川と荒川の水を引き入れました。しかし、いくら水を入れても落ちないのは「城が浮いているからだ」と言われるようになり、別名「浮き城」という名前がつきました。その時の堤も今も一部残っているそうで、「石田堤」と呼ばれております。結局小田原落城後もこの城は落とせず、開城(降伏)してもらったそうです。このあと行田10万石として徳川家康の4男、松平忠吉が入場します。以降徳川の親藩や譜代の大名に引き継がれ、明治維新の時、取り壊されます。昭和63年(1988)に再建されました。
2002.08.18 ヒラリン さんより
本丸跡に博物館がある。復興三重櫓があるが、本来三の丸にあったもの。博物館から国道を挟んで北側に東照宮があり、その裏に土塁と水堀の跡がある。また南東部にある水城(すいじょう)公園はかつて堀の役目をしていた沼地を利用した公園。
2002.08.18 ヒラリン さんより
15世紀末に、地元の忍(おし)氏を滅ぼした成田氏により築城。以後約1世紀に渡って成田氏が城主となる。1590年の秀吉の小田原攻めに際し、石田三成らに攻められるが、小田原開城まで持ちこたえ、名城と謳われた。江戸期は阿部・松平(奥平)など譜代大名が入る。明治維新で大部分を破却。
2004.08.12 ハラダマユミ さんより
後北条征伐での石田三成の有名な水攻めは、秀吉の備中高松城の水攻めに倣ったもので、その際作られた土塁は、現在も一部が残っています(当時の築堤全長は七里で約28キロ。期間はたった一週間)。説明の書かれた立て看板もあり、当時、城をぐるりと囲んだ図が描かれています。また、水攻めの際の戦いの様子も図でわかりやすく説明されています。ただ、現在その場所は一般の方の敷地に隣接しているので、見学の際はご迷惑にならないようにすべきでしょう。
忍城には武芸に秀でた甲斐姫という美しい女性がいたというのは有名ですが、隣接の資料館には、甲斐姫の資料は特に見当たりません。学芸員さんのお話では、彼女は伝説的な人物だということです。ただ、父で城主の成田氏長が小田原城入りした留守中、石田三成によって攻められた際、甲斐姫が忍城で中心となって戦った話は、歴史ファンの知るところです。『成田記』等の資料によりますと、甲斐姫は自ら鎧を着て黒駒に騎乗し、城を守るために奮迅したそうです。その後、甲斐姫は秀吉に見初められて、側室となっています。一般の城跡関連の書籍に、水攻めの復元絵図が載っているものがありますが、中には天守閣が描かれているものもあります。ですが、水攻めの当時に天守閣は存在していないとのことです。城内の鐘楼の鐘(復元)は、大晦日に除夜の鐘を撞きます(江戸時代の本物の鐘は資料館に保存展示されています)。
2004.08.12 ハラダマユミ さんより
忍城は、南に荒川、北に利根川と星川の流れる低湿な土地に造られました。これらの河川の乱流によって形成された、沼地や微高地を利用した、全国でも珍しい天然の水城です。戦国時代、行田周辺の武蔵武士の中から、現在の熊谷市上之を本拠地とする成田氏が台頭し、築城されました。文明11年(1479)の古河公方足利成氏の書状に「忍城」、「成田」とでてくることから、このころには築城されていたと考えられます。成田顕泰から以後親泰、長泰、氏長と四代にわたり、天正18年(1590)まで約百年のあいだ成田氏が忍城主でした。永正6年(1509)、忍城を訪れた連歌師の宗長は、城の四方は沼にかこまれていて、霜で枯れた葦が幾重にもかさなり、水鳥が多く見え、まことに水郷である、と日記に書いています。天正18年(1590)徳川家康が関東にはいると、家康の四男松平忠康(のちに忠吉)が十万石で忍城に入城します。以後江戸時代をつうじて、忍城には徳川の譜代や親藩の大名が城主として入りました。寛永16年(1639)に幕府の老中であった阿部忠秋が五万石で城主となると、忍城と城下町が整備され、孫の阿部正武のときに十万石となり、元禄15年(1702)には御三階櫓(ごさんかいやぐら)が完成し、名実ともに忍藩十万石の城としてのかたちが整いました。文政6年(1823)に阿部氏が福島県の白河へ移ると、忍城には三重県の桑名から松平忠尭・奥平松平氏)が入り、以後明治維新まで松平氏が城主でした。
2006.12.20 goodshot さんより
石田堤や数少ない遺構を見て歩くのは郷土博物館(再現天守閣)で無料で自転車を貸してくれますますので、それを利用すると隈なく見て歩けます。自転車で行った石田堤界隈から水攻めの状況を想像するとスケールの大きさに感動します。
2009.09.02 NSカトー さんより
やはり有名な豊臣秀吉の小田原攻めの際の「忍城攻防戦」。石田三成を総大将に攻め込んできたが、守備隊がよく防ぎ、また三成の水攻めも間者や忍びも紛れさせて失敗。結局、小田原開城まで持ちこたえてしまった。
2009.09.02 NSカトー さんより
2009年7月に訪れました。来秋公開予定の映画「のぼうの城」の舞台ということで、官公庁を中心に当地全体が盛り上がっているようでした。
2009.09.02 NSカトー さんより
毎年11月(平成21年は11月8日)に「忍城時代まつり」が行われます。石田三成軍との「忍城攻防戦」の再現劇も行われます。
2009.09.02 NSカトー さんより
資料館と併設されていて、資料館では戦国時代までの行田地区、江戸時代以降にわかれて展示されていました。当地が足袋の特産地ということもあり、足袋の展示もみられました。
2009.09.02 NSカトー さんより
行田では「ゼリーフライ」が名物です。決してゼリーを揚げたのではなく、おからとイモのフライ。軟らかく美味です。多くの定食や食堂で提供しています。
2009.09.02 NSカトー さんより
石田堤(石田堤史跡公園)、水攻めの際の堤防跡が残ります。また、丸墓山古墳が三成本陣跡です。その他、加須市の不動ケ岡不動尊總願寺に黒門が移築現存しています。
2010.09.14 shirofan さんより
日本三大水攻めの城は、和歌山県の太田城、岡山県の備中高松城、埼玉県の忍城の3城となる。