写真・監修:岡 泰行/城郭カメラマン
吉田郡山城の歴史と見どころ
吉田郡山城は、安芸国吉田盆地北方の丘陵に築かれた毛利氏の本拠だ。可愛川と多治比川に挟まれた吉田盆地北半に位置する。鎌倉時代、毛利時親が郡山東南の支尾根に直線状連郭式の「旧本城」を構えたのが起源で、その後、約260年にわたり毛利氏の居城として存続した。
戦国期に入ると、12代当主毛利元就が大永年間(1521〜1528)に、径約1kmにも及ぶ全山を城域とし、本丸・二の丸・三の丸を中心に270を超える郭を放射状に配置、外周には内外二重の堀もめぐらされ大規模な山城へと拡張した。天文9年(1540)の郡山合戦では、出雲の尼子晴久が3万の軍勢を率いて攻め寄せたが、元就は兵と領民合わせ8千を収容して籠城し、激戦の末に撃退している。この合戦は毛利氏の台頭を示す契機となった。
その後も城は整備され、輝元の代には石垣や瓦葺き建物が導入されるなど、近世城郭への移行を思わせる改修が行われた。しかし山間に位置する地勢の不利は解消されず、天正19年(1591)に本拠は広島城へ移された。
慶長5年(1600)の関ヶ原合戦後、毛利氏は防長二国(萩城)へ移封され、吉田郡山城は役目を終えた。元和元年(1615)の一国一城令で破却が進み、さらに寛永14年(1637)の島原の乱後には徹底破壊が命じられた。今日では多数の郭跡や石垣の断片が残るのみだが、戦国期における毛利氏の拡大と、中国地方支配の拠点としての実態を示す重要な遺構と評価できる。現在、城跡は国の史跡に指定されている。
参考文献:『日本城郭大系13』(新人物往来社)
吉田郡山城の学びに役立つ本と資料
「安芸高田市歴史民俗博物館」へどうぞ。また、吉田郡山城全域模型が、広島城の二の丸多聞櫓内にある。
吉田郡山城のアクセス・所在地
所在地
住所:広島県安芸高田市吉田町吉田 [MAP] 県別一覧[広島県]
電話:0826-42-0070(安芸高田市歴史民俗博物館)
電話:0826-42-0054(安芸高田市・城跡全般の管理等)
- 郡山城跡(安芸高田市)
アクセス
鉄道利用
広島バスセンターからバス約1時間30分、「安芸高田市役所前」降車、徒歩5分。
マイカー利用
中国自動車道、高田ICから約15分。歴史民俗博物館の北、城跡入口に無料駐車場有り。
1996年よりWebサイト「お城めぐりFAN」を運営し、日本の城郭をめぐる旅をライフワークとする。長年にわたる豊富な経験と、城郭写真家としての専門的な視点から、当サイトの記事を監修。その写真と知見は、数々の書籍やメディアでも高く評価されている。
吉田郡山城:城ファンたちの記憶
実際に吉田郡山城を訪れた城ファンの皆さまが綴る、印象に残った景色、人との出会い、歴史メモ、旅のハプニングなど、心に残る旅の記憶を共有しています(全3件)。

城は江の川と多冶比川に挟まれた吉田盆地の北に位置する郡山全山に及ぶ。毛利氏が吉田荘の地頭職として下向した建武3年「1336」に毛利時親が郡山南東の一支尾根に築城した。「本城」といい、以来、十二代目にあたる元就の相読間ではこの本城がその居城であった。のち天文二十年「一五五一」頃までには元就がを城を全山に拡大、隆元・輝元と相読され、天正十九年「一五九一」に広島城を築城して移るまでの毛利氏本拠城である。天文九年から十年「一五四〇から一五四一」尼子氏の大軍が郡山城を包囲した郡山合戦は毛利氏の勝利に終わるが、この時は本城を城域とした合戦と見られている。郡山合戦以降に毛利氏が国人領主から戦国大名へ成長していく過程の中で、郡山城軍事的施設であるとともに、政治中枢機能をはたす城として拡大・発展していったといえよう。城の遺構は、山頂部から放射状に延びる尾根とその支尾根や谷部に大小二七〇以上の郭が見られ、一部は堀切り等によって区画する。山頂部は本丸で、一段下がり二の丸、さらに三の丸に続く。三の丸は城内最大規模の郭で、虎口郭的なあり方を示している。また本丸から三の丸にかけての郭斜面が繊w@w告ホ垣であったと見られることや瓦葺き建物の存在が推定されることなど、天正年間以降の改修示す遺構を留めている。廃城は関ヶ原合戦後と見られ、寛永十四年「一六三七」島原の乱後に石垣、堀などが破却されたといわれる 。
( 篠田諒平)
吉田郡山城の見どころは、本丸などと各郭を結ぶ通路綱や元就ら歴代墓所。
( 篠田諒平)
ずいぶん前、『大河』でしょうもない毛利元就をやってたの頃に行った。元就の墓、三矢の訓えなど石碑がほとんどで、日が暮れていたので少し観て帰った。山頂まで行かなかった。鎌倉時代の築城。元就が拡張、山全体を城塞化しているらしい。100万石以上の大国の城下町としての発展が、見込めないこともあってか移転、廃城。しばらくは、石垣くらいは残っていたらしかったが、徳川幕府によってすべて撤去させられたとのこと。
( 長篠村田吾作の弟)