写真:岡 泰行

広島城の歴史と見どころ

豊臣政権五大老のひとり、毛利輝元が築城した広島城。今に残る遺構は、関ヶ原の戦い後に福島正則が入封し、ほとんどが正則時代に完成した。その構造とともにさらに詳しく解説する。

広島城の特徴と構造

太田川河口に築かれた広島城。総面積は約90万平方メートルと、広大なものだった。現在は本丸と二の丸、それを取り囲む内堀が残るのみだが、当時は3重の堀に囲まれた堅固な城だった。

本丸は上段と下段に分かれていて、上段の北西隅に5層5階の天守があった。天守は大入母屋造の屋根を持つ望楼型で、当時は東側と南側ふたつの小天守(いずれも3層)を従え、多聞櫓(廊下)で接続されていた。聚楽第や秀吉時代の大坂城を参考にしたといわれているが、聚楽第に関しては図面が残されていないので不明である。それ以外に、88の櫓があったとされる。

本丸上段の広さは約5,000坪で、藩主の住まいや政務を執った本丸御殿が置かれていた。東側、南側は現在、土塁となっているが、福島正則の時代にはここにも石垣があった。城の無断改修を幕府に指摘された際、正則はこの部分の石垣を取り崩してやり過ごそうとしたが、「改修部分全ての取り壊し」という条件を満たしていなかったため、改易へと追い込まれることとなる。
広島城本丸石垣の復旧工事跡
福島正則が改易の理由となった本丸石垣の復旧工事跡

本丸の南には角馬出しの機能を持つ二の丸があり、本丸と二の丸を囲む内堀の外には三の丸が置かれた。なお、毛利時代の絵図や発掘調査により、輝元の広島城は、本丸の出入り口や二の丸(馬出し)の有無など、後の姿とは異なるのではないかという説もある。

一方、城内の石垣は、毛利時代、福島時代の違いも見て取れる。例えば、天守台や二の丸から北西方向にある本丸の横矢掛り(堀に突き出た)部分には、隅石が算木積みではない古い手法で積まれている。石垣好きならチェックしておきたい。

二の丸表御門と御門橋

広島城二の丸平櫓・多聞櫓・太鼓櫓1989(平成元)年から、二の丸表御門と御門橋の木造復元も進められた(完成は91年)。これは、発掘調査や戦前に撮られた古写真、残された図面などが元になっている。その後、平櫓、多聞櫓、太鼓櫓、西側塀も復元されている。内部は広島城に関する展示がある。

本丸中御門跡

二の丸から土橋を通り本丸の入り口にあったのが、本丸中御門跡である。堀に対し直角に構えられた、いわゆる桝形的な構造になっていた。原爆投下による火災により、焼けてひび割れた石垣が今も残っている。また、城内最大の「鏡石」も注目ポイントだ。

  • 原爆投下による火災により、焼けてひび割れた石垣

    焼けてひび割れた石垣

  • 広島城本丸中御門跡の鏡石

    本丸中御門跡の鏡石

被爆樹木

広島城の被爆樹木ユーカリ広島城内には、明治以降もマツやスギを中心とした多くの樹木が植えられていた。しかしその多くは、原爆投下による爆風や火災で大きな被害を受けている。中には、大本営跡の正面付近(爆心地から約910m)にあったクロガネモチ、二の丸から本丸中御門に続く土橋の傍らにあったマルバヤナギ(爆心地から約770m)、二の丸内にあったユーカリ(爆心地から約740m)など、被害を逃れて復活したものもある。これが、戦後復興の象徴のひとつとなっている「被爆樹木」である。大本営跡など第2次世界大戦時の史跡については本ページ「歴史スポット」の項を参照されたし。

公式サイトでPDF資料GET

公益財団法人広島市文化財団 広島城のWebサイトで、『広島城リーフレット』と広島城の広報紙『しろうや!広島城』がPDF公開されているぞ。

広島城の撮影方法

天守と二の丸表御門は午後が狙い目

内堀越しに見る広島城天守内堀越しに、天守や櫓、門などの建物と石垣を狙う。時間があれば、堀のまわりを一周してみると良い。二の丸表御門と水掘り越しに狙う天守は午後の撮影が向いているぞ。季節によっては付近のビルの影が天守に落ちるので、夕暮れなど時間が遅ければ良いという訳ではない。

近世城郭は付近のビルから見おろす

リーガロイヤルホテル広島から見おろす広島城近世城郭は付近の高層ビルから見おろすとその規模がよく分かる。「リーガロイヤルホテル広島」からの眺望は群を抜いている。宿泊する機会があれば、どうぞ。

リーズナブルな昼食で広島城を本丸と二の丸を眺めるなら、リーガロイヤル手間のパセーラ8階の花あかりというレストランがおすすめです。リーガロイヤルに高さはかないませんが、それでも店の窓側の席からは、本丸に天守、復元された二の丸の櫓群が撮影できます。二の丸は少しベランダの手すりが邪魔ですが。昨日この場所をみつけました(風に立つライオン 20.02.24)。

広島城の写真集

城郭カメラマン撮影の写真で探る広島城の魅力と見どころ「お城めぐりFAN LIBRARY」はこちらから。

広島城の関連史跡

いずれも詳しい場所は上記Googleマップ参照を。

広島城の暗渠跡

広島城の暗渠跡内堀と中堀を結ぶ暗渠遺構。昭和57年に地下道建設中に発見され、地下道からその断面を見ることができる。堀の水位を一定に保つ役割があったと言われている。

石垣モニュメント

中堀石垣の石材で築かれた石垣モニュメント写真は、中堀石垣の石材で築かれた石垣モニュメント。広島県立総合体育館の北側にある。1991(平成3)年の建築工事の際、発掘された中堀跡の石垣が使われている(詳しい場所は上記Googleマップ参照)。このほか、広島城周辺の数か所に、石垣の石材を使ったモニュメントが残されている。

第2次世界大戦時の史跡

広島大本営跡

広島大本営跡日清戦争から第2次世界大戦集結まで置かれた、旧日本軍の最高統帥機関が大本営である。1894(明治27)年、日清戦争が勃発すると、広島市は山陽鉄道の終点であったことや、市内の宇品港(現・広島港)が兵士や軍事物資を戦場へ運んでいたことから兵站基地となった。このため、皇居にあった大本営が広島城本丸の第5師団司令部に移され、同年9月には明治天皇も広島に入った。

広島大本営は翌年4月の下関条約締結によって戦争が終結した後、京都に移っている。この間、第7回帝国議会(94年10月召集)も広島で開会されるなど、首都機能自体が事実上広島に移転したことになる。

大本営のあった建物は木造の2階建て洋館で、1926(大正15)年には国の史跡に指定されたが、原爆投下により基礎の一部を除いて倒壊した。

中国軍管区司令部の防空作戦室跡

中国軍管区司令部の防空作戦室跡本丸下段、護国神社前に慰霊碑があり、そのすぐ隣りに、中国軍管区司令部の防空作戦室跡がある。中国5県上空を飛ぶ航空機情報を一元に集め、守備隊への連絡や防空情報(空襲・警戒の各警報)を発令するのが主な任務であった。軍人のほかに比治山高等女学校の学生やOGの軍属も交代で配属されている。1945(昭和20)年8月6日朝、米軍機の侵入報告を受け、各地に発する警報のスイッチを押している最中に原爆が投下され、作戦室も被害を受けた。生き残った学生たちは広島市外の部隊などに連絡を入れたが、これが原爆投下の第一報だとされる。現在、建物への立ち入りは禁止されている。

原爆ドーム

原爆ドーム広島に投下された原子爆弾の被害を伝える象徴のひとつ。元は1915(大正4)年に建てられた広島県物産陳列館(後、広島県産業奨励館に改称)であった。建物はチェコの建築家、ヤン・レツル(レッツェル)が設計したネオ・バロック風の様式で、3階建て。ドーム部分の高さは約25mだったという。1996(平成8)年、世界遺産に登録された。

近隣の主要な城

府中出張城(安芸郡府中町)、宮尾城(廿日市市宮島町)、福山城(福山市)、吉田郡山城(安芸高田市吉田町)、小倉山城(山県郡北広島町)、岩国城(山口県岩国市)、萩城(山口県萩市)、津和野城(島根県鹿足郡津和野町)などあります。

広島城のおすすめ旅グルメ

広島風お好み焼き

広島風お好み焼き大正時代ごろ、小麦粉を水に溶いてネギなどを加え鉄板で焼き、ウスターソースをかけて食した「一銭洋食」をルーツに持ち、戦後の復興期に闇市や屋台などを通して広まったというお好み焼き。広島では、生地を薄く延ばしてモヤシやキャベツ、豚肉、焼きそば麺などの具材の上に載せ、蒸し焼きにするのが一般的である。

お好み焼きみっちゃん総本店

広島風お好み焼きの元祖のひとつといわれる「老舗」。広島城に近い、八丁堀本店のほか、広島駅の商業施設「ekie広島駅」やそごう広島店などにもお店がある。冷凍お好み焼きオリジナルソースなどのオンライン通販も手がけている(広島県広島市中区八丁堀6-7チュリス八丁堀1階(八丁堀本店))。

お好み村

戦後、広島市中心部の新天地広場に集まっていたお好み焼きの屋台のうち、広場が公園化するのに伴う立ち退きをきっかけに、プレハブ2階建ての店舗に集まって開いたもの。現在は4階建てのビルに、20数店舗が集まって営業している(広島県広島市中区新天地5-13)。

牡蠣(カキ)

広島の牡蠣中国山地から太田川を経て広島湾に流れ込む、栄養豊富な植物プランクトンを含む水で育つ広島のカキ。1867(慶応3)年創業のカキ養殖業者が、1962(昭和37)年に開いたカキ専門の料理店が「かき船かなわ」。元安川左岸、原爆ドームの少し下流に係留された「かき船」でカキ尽くしの料理が食べられる。広島市内の「かき船」は、2店舗のみとなっている。広島駅や広島空港に支店があるほか、オンライン通販もある(広島県広島市中区大手町1丁目地先)。

汁なし担々麺

汁なし担々麺日本で担々麺というとスープに入ったものが多いが、元々の本場である中国四川省では、汁がないものが一般的である。それを日本風に再現したものが汁なし担々麺と呼ばれるようになった。発祥と言われているのが、広島市内にある「きさく」。現在では市内に20以上の店があり、広島のご当地グルメとして定着している。

「きさく」(広島県広島市中区舟入川口町5-13 佐々木ビル1階)、「中華そば くにまつ」(広島県広島市中区八丁堀8-10)、「汁なし担担麺専門キング軒大手町本店」(広島県広島市中区大手町3丁目3-14)などが有名店。

もみじ饅頭

にしき堂の生もみじ発祥の地である厳島(宮島)は、広島市に隣接する廿日市市にあるが、現在では広島市内でも製造されており、広島を代表するお土産品のひとつでもあることから、ここで取り上げたい。厳島の名所、紅葉谷のモミジの葉をモチーフ(伊藤博文の発言によるとする説もあり)にした焼き饅頭。現在では約20社が製造しており、定番のこしあんのほかに、つぶあん、チーズ、クリームなどさまざまな種類がある。写真は、にしき堂の生もみじ。贈答の定番として広く知られている。

広島城の史跡めぐりにこだわる最適なホテル

リーガロイヤルホテル広島

リーガロイヤルホテル広島広島県庁近く、広島城趾まで徒歩圏内。北側の部屋からは広島城公園が見えるが、確実に取れる確約はできない。33階のフレンチレストラン「シャンボール」やダイニングバー「リーガトップ」からは広島城公園を見下ろせるが、いずれも17:30からの営業だ(広島県広島市中区基町6-78)。

ヴァリエホテル広島

広島城公園に最も近いホテルで、宿泊費も比較的リーズナブルだ。部屋から天守が見えるのは、ごく一部のみ(広島県広島市中区上八丁堀7-25)。

広島城のアクセス・所在地

所在地

住所:広島県広島市中区基町21-1 [MAP] 県別一覧[広島県]

電話:082-221-7512(公益財団法人広島市文化財団 広島城)

開館時間

広島城天守閣

3〜11月 9:00〜18:00(入館は17:30まで)
12〜2月 9:00〜17:00(入館は16:30まで)
12月29〜31日休、ほか臨時休館あり。有料。

二の丸表御門・平櫓・多聞櫓・太鼓櫓

4〜9月 9:00〜17:30(入館は17:00まで)
10〜3月 9:00〜16:30(入館は16:00まで)
12月29〜31日休。無料。

その他のエリアは散策自由。

アクセス

鉄道利用

JR広島駅下車。バス、路面電車乗り場へ。

バス

広島駅南口前バス乗り場Bホーム7・8・9番のりばより、「合同庁舎前経由」のバスで約7分。バス停「合同庁舎前下車、徒歩8分。

路面電車

広島電鉄、電停「広島駅」から1・2・6番乗車14分。電停「紙屋町東」下車、徒歩15分。

マイカー利用

山陽自動車道、広島ICから20分。市営広島市中央駐車場(広島県広島市中区基町2)。天守まで徒歩7分。天守閣入館時にサービス券(30分無料)あり。

城ファンの気になるところ (13)

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    原爆で焼けただれた石垣が。二の丸表御門脇櫓と太鼓櫓が復元されています。また、付近の地下道には「暗きょ跡(排水路)」の石組みが顔を出して保存されてました。

    ( 光秀)

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    伝わる話では、原爆の衝撃派で天守は、一瞬浮き、一気に崩れ落ちたそうです。その後の資材は、生き残った人達が小屋を建てたり燃料にしたりと資材に使ったそうです。

    ( 光秀)

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    列車で出掛けるならば広島・宮島ミニ周遊券を購入していくと良い。

    ( Y.Akatsuka.)

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    夜に行ったらむちゃくちゃ恐かったです!城下の公園が暗くて、人がいなくて、でもどこかから人が出てきそうだし…。引き返すのも恐くて泣きそうになりながら一人で歩いてきました。でも好奇心が恐怖心に勝ってしまって結局、城まで行ってきました。ちなみにライトアップされた夜の広島城は、恐いくらい綺麗でした。

    ( まりこ姉さん)

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    非常に大きいです。城下は公園になっていて入城料は320円です。

    ( Y.Akatsuka.)

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    広島のお好み焼き屋さんといえば「みっちゃん」。大抵の人が知っている。タクシーに乗って「みっちゃんまで」といえば通じます(八丁堀電停から北へ進み、バイク屋の交差点を左折、右手のビル一階にある)。また、お好み焼き村のお好み焼きはうまい。広電市内線八丁堀駅南へ徒歩5分くらい。右手に少し入ったところにあります。分からないときは広島駅前交番で聞けば教えてくれます。僕はお世話になりました。

    ( Y.Akatsuka.)

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    太平洋戦争まで天守が現存していたが、広島の原子爆弾の投下によって崩壊した。城跡は、本丸に復興の天守が建ち、二の丸跡が残っており、そこに木造復元された表御門、櫓がある。二の丸は本丸部分からの馬出という目的が主な役割であることが分かる。

    広島城は天正時代になって新しく築城された城だ。1589(天正17)年、毛利元就の孫、毛利輝元のとき、それまでの毛利氏の本拠、吉田郡山城が山間であり新しい時代に対応できないと感じ、陸海の拠点であるこの地に10年の歳月をかけ築城した。ところが城が完成した翌年、1600(慶長5)年に関ヶ原の戦いで毛利氏は西軍の総大将として大坂城に入ったため、領土を削られ、萩に減封移封されることになる。あとに入封したのが、福島正則。だが正則も、1619(元和5)年になって、徳川幕府の許可なく城の修築を行ったことを理由に除封され、浅野氏が入封、明治まで続いた。

    太平洋戦争まで現存していたものは、福島時代に拡張されたものと言われ、天守、多聞櫓、平櫓、表御門、中御門、太鼓櫓などがそれ。天守は例えば姫路城のように建物が合体した形で5層、2つの3層小天守を伴っていた。またこれら現存していた広島城は、そのデザイン、曲輪などの配置を秀吉の聚楽第から模したものと言い伝えられ、また一説には、秀吉、黒田官兵衛の意見が盛り込まれた城であるとも言う。近年、発掘調査によって、金箔瓦、そして土中から別の石垣も出土している。吉田郡山城からも豊臣系の瓦などが出土しており、毛利氏は豊臣家の五大老として、その流れをくむ城をもっていたと言われている。

    ( 官兵衛)

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    広島城はお堀に囲まれています。堀には、水が張っていてそこに鯉がいます。それで、広島城は鯉城とよばれ、野球チームは広島カープなのです。広島城の足場(土台)は植物資材で作られています(詳しいことは忘れました、ごめんなさい)。お堀の水があるから広島城は頑丈なのだそうです。しかし、お堀の水が枯れると広島城の石垣は崩れ落ちるのだそうです。水を研究している広島にある大学の先生がおっしゃっていました。

    ( ゆみこ)

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    芸予地震の被害により2001年4月末現在、天守の屋根は修復中で鯱も無い状態です。登城をお考えの方は延期されたほうが良いかもしれません。

    ( M.NAWATA)

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    太田川の大きな三角州があってその名前が「広島」。そこに築城された。

    ( 城好き匿名希望)

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    リーガロイヤル33階は高級フランス料理店に変わりました。リーズナブルな昼食で広島城を本丸と二の丸を眺めるなら、リーガロイヤル手間のパセーラ8階の花あかりというレストランがおすすめです。リーガロイヤルに高さはかないませんが、それでも店の窓側の席からは、本丸に天守、復元された二の丸の櫓群が撮影できます。二の丸は少しベランダの手すりが邪魔ですが。昨日この場所をみつけました。

    ( 風に立つライオン)

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    平成13年(2001)3月の芸予地震で、広島城天守閣の鯱が落ちてしまったことがある。この頃、ちょうど広島城を訪れ、鯱が無いというのは、ずいぶんと寂しい天守の絵になったことを覚えている。今、見られるのは地震後に再建された鯱。広島城天守の前に立ったら、最上階の鯱を見てみよう。ズームレンズでもあれば見えるのだが、鯱の腹に「平成13年10月 作人 梶川亮治」と掘られている。これは鬼瓦を作る職人さんの名前だ。姫路城の天守台石垣の填められた文章といい、ズームでしか見えない文字って、情報が埋め込まれているようで、ちょっと面白い。

    ( shirofan)

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    令和4年9月10日から、城郭模型作家・島充氏の企画展が二の丸で開催される。広島城天守は、時空を超えた4つの姿が再現。なかでも、原爆で倒壊した広島城天守のジオラマは必見。

    ( 城好きの匿名希望)

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