写真・監修:岡 泰行/城郭カメラマン

多治比猿掛城の歴史と見どころ

毛利元就が少年の日々を過ごした山城が、吉田盆地の北西に残る多治比猿掛城(たじひさるかけじょう)だ。明応9年(1500)、父の毛利弘元が嫡男・興元に吉田郡山城を譲り、幼い松寿丸(のちの元就)を伴って多治比猿掛城に移った。以来、大永3年(1523)に元就が郡山城へ戻るまでの約20余年、青年期をここで過ごした。

城は多治比川の谷筋を望む烏帽子山から延びる丘陵に築かれ、西方の石見路を押さえる要衝であった。北には有力な高橋氏の領域が広がり、単なる隠居の場ではなく、境目を守る拠点としての性格が強かったと考えられる。

その後の詳細は定かではないが、遺構の規模からみて領内西方を統制する城として利用が続いた可能性がある。現在は吉田郡山城跡とともに「毛利氏城跡」として国の史跡に指定され、往時の姿を今に伝えている。

参考文献:

  • 『日本城郭大系13』(新人物往来社)
  • 『毛利氏城跡 多治比猿掛城跡 郡山城跡』(文化庁・文化遺産オンライン)
  • 『多治比猿掛城跡(吉田町)』(安芸高田市教育委員会)

多治比猿掛城の構造と特徴

多治比猿掛城は、烏帽子山から延びる尾根を利用した山城だ。尾根に二の丸と本丸が並び、背後を二重の空堀で守った。二の丸は長さ約50mの広い平坦地で、その北端に小高い郭を設けて本丸としたが、狭小であったため二の丸こそが実質的な中心であった。

二の丸から北へ伸びる大手道には小郭が並び、さらに下るとその先に広い「寺屋敷」が展開する。ここには天文5年(1536)に教善寺が建ち、大小の郭が不規則に配置された。さらに北の独立丘陵上には出丸が置かれ、輪郭式に郭を巡らせて独立した城のような姿を見せる。一方、南方の尾根には物見丸があり、空堀で区切られた独立性の高い郭として周囲の監視を担っていた。

本丸

本丸は二の丸北端にある直径約10mの小郭で、二の丸より約3m高い位置に築かれている。規模が小さく、見張り台的性格が強いため、実質的な主郭機能は二の丸が担っていた。

二の丸

二の丸は長さ約50m・幅約20mの広い平坦地で、城の中心を成す。東北・西北に控郭が張り出し、西側大手道沿いにも小郭がある。南端は空堀に面して土塁が巡り、背後の防御を固めていた。

出丸

出丸は比高約50mの独立丘陵に築かれ、主郭部とは尾根道で繋がる。一辺20mの本丸と長さ50mの二の丸、その周囲に三段の小郭を配した輪郭式構造で、当初はここが城の中心だった可能性がある。

物見丸

物見丸は主郭部の南約500mの尾根頂部に位置する。直径15mの郭と帯状の小郭を持ち、南北の空堀で区画された独立性の高い施設で、周辺を監視する役割を担った。

寺屋敷(教善寺)

寺屋敷は中腹に広がる郭で、天文5年(1536)に教善寺が建てられた。周辺には大小の郭が不規則に配置され、寺院用地として特異な性格を示している。

多治比猿掛城の周辺史跡を訪ねて

毛利弘元夫妻の墓

多治比猿掛城の山麓には、悦旻院の跡地があり、毛利弘元とその妻の墓が残されている。元就の父母を祀るこの墓所は、城を見守るように静かに佇んでいる。

伝杉の大方の墓

多治比川の対岸には元就を育てた「伝杉の大方の墓」も伝わる。母として若き日の元就を支えた杉大方の存在は、多治比猿掛城の歴史を語る上で欠かせないものとなっている。

尼子久幸の墓

多治比猿掛城の南に尼子久幸の墓がある。尼子経久の弟で、天文9年(1540)の郡山合戦で討たれた人物である。毛利の本拠地深くで刻まれた戦国の記憶と言っていい。

多治比猿掛城のアクセス・所在地

所在地

住所:広島県安芸高田市吉田町多治比 [MAP] 県別一覧[広島県]

電話:0826-47-4024(安芸高田市商工観光課)

アクセス

鉄道利用

広島バスセンターからバス約1時間20分「安芸高田市役所前」降車、タクシー8分。

マイカー利用

中国自動車道、高田ICから約10分(7.6km)城跡に無料駐車場有り。

【監修者プロフィール】 岡 泰行 | 城郭カメラマン [プロフィール]
1996年よりWebサイト「お城めぐりFAN」を運営し、日本の城郭をめぐる旅をライフワークとする。長年にわたる豊富な経験と、城郭写真家としての専門的な視点から、当サイトの記事を監修。その写真と知見は、数々の書籍やメディアでも高く評価されている。

多治比猿掛城:城ファンたちの記憶

実際に多治比猿掛城を訪れた城ファンの皆さまが綴る、印象に残った景色、人との出会い、歴史メモ、旅のハプニングなど、心に残る旅の記憶を共有しています(全3件)。

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    毛利は山城が多いので、どうしても山の傾斜がきになるものですが、ここは小さなお城だけに気軽に登れます。毛利元就好きには聖地そのものです。猿掛城をみて月山富田城を見ると、その偉大さに驚きますきちんとした石垣もあまり残っていませんが、本当にお勧めです。資料は吉田郡山城の資料館である程度手に入ると思います。尼子攻めのとき、隆元がわざと吉田郡山城に戻らず、輝元を猿掛城に呼び、訓をくだし、数日中に和智の饗応でなくなっているのは運命しかいいようがない。

    しの)

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    毛利元就の父、弘元が隠居したお城です。尼子、大内双方に組みするために吉田郡山城を毛利興元にまかせ息子である、元就を伴い、入城します。小さなお城で、元就の母の福原氏のお城よりも小さく、300貫取りであったそうです。

    しの)

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    毛利元就が成長のお城です。一緒に攻めるのに、まわりに桂城、福原城、吉田郡山城、とお城には困りません。道むかいに杉の大方のお墓があり、吉田郡山には神社で養母杉の大方を祭る神社があります。縄張りが吉田郡山城の旧本城と似ているのも面白いです。今は大河ドラマの影響で立て札がたっていて、手軽に登れます。

    しの)

城の情報

心に残る多治比猿掛城の思い出は?