写真・記録:岡 泰行/城郭カメラマン
甲府城の歴史と見どころ
甲府城は、天正11年(1583)、徳川家康の命を受けた平岩親吉が築城に着手した。場所は甲斐国府の中心、一条小山とよばれる天然の孤丘上で、南に甲府盆地を望み、北に要害山を控える要地だ。
天正10年(1582)に武田氏が滅び、甲斐は諸勢力の抗争に揺れたが、家康の支配が定まると、新たな府城として築城が始まった。 家康の関東移封後は、豊臣秀勝がその事業を引き継ぎ、さらに加藤光泰、浅野長政・幸長へと受け継がれていく。文禄3年(1594)ごろには本丸・二の丸を中心とする主要部がほぼ完成し、石垣や堀をもつ本格的な近世城郭の姿を示した。
慶長5年(1600)以降、徳川氏の領有となり、平岩親吉が再び修理を担当。その後、一時、直轄地となった。のちに綱重・綱豊(のちの六代将軍家宣)の支配地を経て、宝永元年(1704)には柳沢吉保が入城し、屋形曲輪を新設するなど城と城下の改修を行った。
しかし享保9年(1724)に吉保の子・吉里が大和郡山城(郡山藩)に移封され、甲府は幕府の天領となり勤番支配が置かれた。その後の享保12年(1727)、郭内からの出火により本丸以下を焼失した。
明治6年(1873)の廃城令で建物は解体され、用地の一部は官庁や鉄道敷地に転用された。明治37年(1904)には舞鶴公園として一般に開放され、現在は石垣や天守台、復元された櫓や門が往時を偲ばせている。
明治37年(1904)に舞鶴公園として一般公開され、昭和39年(1964)には都市公園に指定。平成以降は史料と発掘成果をもとに整備が進められ、鍛冶曲輪門は平成8年(1996)、内松陰門は平成11年(1999)、稲荷櫓は平成16年(2004)、鉄門は平成25年(2013)に復元された。山手御門一帯も発掘調査を経て平成19年(2007)に整備され、近世甲府の中枢としての姿を今に伝えている。
甲府城は内堀の一部が、2022年から4年をかけ発掘調査の上、当時の景観に復元される。甲府城の石垣が切り出された「愛宕山石切場跡」も合わせて整備される。
甲府城の特徴と構造
甲府城は、相川扇状地の縁に突き出した一条小山の地形を巧みに生かして築かれた梯郭式の平山城である。中心の内城は、本丸・二の丸・東・西・南の各曲輪で構成され、本丸東端には天守台が築かれた。堅牢な石垣と枡形虎口によって守りを固め、郭ごとに高低差を設けて立体的に構成されている。なお、天守台は築かれたものの、実際に天守が建てられることはなかった。
二の丸は山の井曲輪とも呼ばれ、南に鍛冶曲輪、東に稲荷曲輪、西に清水曲輪を配した。これらを囲む内郭には武家屋敷が並び、さらに外郭には町人町が広がった。南区の新府中は碁盤割の町割をもち、北区の上府中は旧来の町並みを継承する。石垣の精緻さと城下の整然たる街区に、甲府が近世都市として整えられていった息づかいが感じられる。

平成25年(2013)に復元された本丸の正門「鉄門」。天守台石垣と並び、甲府城の象徴的存在。

平成16年(2004)に復元された「稲荷櫓」は稲荷曲輪の東北隅の一角を守る櫓。絵図や古写真、発掘調査から当時の櫓建築を忠実に復元。内部は展示施設として公開されている。

平成19年(2007)に復元された甲府城3つの出入口のひとつ山手渡櫓門。木造の櫓門を発掘調査に基づき再現している。
参考文献:
- 『日本城郭大系9』(新人物往来社)
- 『甲府城跡保存活用計画関連資料』(山梨県教育委員会)
- 「甲府城」甲府市Webサイト
甲府城の撮影スポット
広角レンズを使用して再建された櫓や城門、天守台をしっかり撮影しておきたい。順光撮影を想定すると、稲荷櫓は朝、鉄門は午前午後、内松陰門は夕方に抑えたい。
甲府城の写真集
城郭カメラマンが撮影した「お城めぐりFAN LIBRARY」には、甲府城の魅力を映す写真が並ぶ。事前に目にしておけば現地での発見が鮮やかになり、旅の余韻もいっそう深まる。甲府城の周辺史跡を訪ねて
山梨県防災新館の地下石垣
平成22年(2010)「山梨県防災新館」建設地から出土した甲府城内堀の石垣が、地下1階「石垣展示室」で保存展示されているので、必ず見ておきたい。内掘に面した石垣で約13mの長さだ。この石垣はビル1階からものぞき込める窓があり見下ろすことができる。
移築城門
甲府城の冠木門が慶長院に山門として移築されている(山梨県甲府市朝日3丁目)。
近郊の城
この地に来たということは、武田信玄を意識してのことかと思われる。そうなると、躑躅ヶ崎館(武田氏館)、新府城、ならびに、武田信玄の墓、武田勝頼の墓も合わせて足を運んでおきたい。詳しくは躑躅ヶ崎館のページで解説している。
甲府城の周辺おすすめ名物料理
甲府城の城下を歩けば、武田信玄ゆかりの地らしい素朴な郷土の味に出会える。なかでも名物は「ほうとう」。平打ちの太麺にかぼちゃや里芋、季節の野菜をたっぷり煮込んだ味噌仕立ての料理で、甲府の寒暖差ある気候に育まれた滋味が広がる。城跡周辺には老舗のほうとう専門店が点在し、門前町の風情とともに温かい一椀を楽しめる。ほかにも鳥もつ煮や信玄餅など、城下町らしい味わいが旅人を迎えてくれる。
甲府城観光のおすすめホテル
甲府駅から徒歩すぐ、甲府城の西隣に「サンパークホテル内藤」があったが、小さな窓は全開せず甲府城の撮影は困難だった。その後、2020年に「城のホテル甲府」がオープンした。
「城のホテル甲府」は、シングルは駅側でお城側はダブルルームかツインルームとなる(客室は12階が最上階)。展望露天風呂はお城側にあり、甲府城を眼下に見下ろし、天気が良ければ富士山が見られる。

「城のホテル」展望デッキからの甲府城の眺望
お城側の客室からも甲府城が見下ろせるのだが、天守台まで綺麗に見渡そうとすれば目では確認できるが、その角度から写真撮影は困難なレベル。窓ガラスには強化網も入っていてほぼ撮れない。だが同ホテル13階には、城が見られるヒストリアラウンジ湯殿がある(露天風呂での一般の撮影は許されていない)。また、ヒストリアラウンジ湯殿の奥には展望デッキがあり、そこからは甲府城の天守台を見おろすことができ撮影が許されている。
また、「東横イン甲府駅南口1」の上階西よりの部屋からも眺望が良い。ただ、目の前右手にビルがあり、部屋によってはギリ、天守台の右端が見切れる可能性がある。また、高さ的にはよく似たものなので、見おろすというよりかは、横から見る的な絵となる。
甲府城の観光情報・アクセス
所在地
住所:山梨県甲府市丸の内1丁目 [MAP] 県別一覧[山梨県]
電話:055-227-6179(舞鶴城公園管理事務所)
- 公式サイト:「甲府城」(甲府市)
開館情報
舞鶴城公園は散策自由。山手御門9:00〜17:00・稲荷櫓9:00〜16:30、月曜休館(月曜日が祝日の場合は翌日)、年末年始(12月29日~1月3日)。
アクセス
鉄道利用
JR中央本線・身延線「甲府駅」南口より徒歩約5分。
マイカー利用
中央自動車道、甲府昭和IC、または、甲府南ICから約15分。公園周辺に市営・県営の有料駐車場有り。
岡 泰行 | 城郭カメラマン [プロフィール]
1996年よりWebサイト「お城めぐりFAN」を運営し、日本各地の城郭を訪ね歩いて取材・撮影を続けている。四半世紀にわたる現地経験をもとに、城のたたずまいと風土を記録してきた。撮影を通して美意識を見つめ、遺構や城下町の風景に宿る歴史の息づかいを伝えている。その作品は、書籍・テレビ・新聞など多くのメディアで紹介され、多くの人に城の美しさと文化を伝えている。
甲府城:城ファンたちの記憶
実際に甲府城を訪れた城ファンの皆さまが綴る、印象に残った景色、人との出会い、歴史メモ、旅のハプニングなど、心に残る旅の記憶を共有しています(全8件)。




甲府城は甲斐府中城ともいう。府中とは国の中心という意味。余談ながら新府は、新しい国を意味しているかと思われる。
( shirofan)
甲府城の追手門の礎石が、2015年9月、県庁敷地内から見つかった。明治9年頃に解体されて後、その場所や規模が明確でなかった。埋め戻して保存する予定とのこと。
( shirofan)
2013年1月鉄門(クロガネモン)が復元されました。ご覧になってください。
( 甲府城御案内仕隊員)
「武田氏滅亡−徳川氏築上着手−加藤光泰−浅野長政・幸長父子により、1600(慶長5)年までには、ほぼ完成をみたようです」については、家康の甲府城普請の古文書がありこの様な見解を取られておられる方もおりますが、家康古文書の内容はよく吟味する必要があるとの見方もあります。羽柴秀勝が出した古文書で実際に普請が進められた事をうかがえる物があり、一般的にはこれが築城開始とみなされています。
( 甲府城御案内仕隊員)
大阪城に御金蔵がありますが、実は甲府城にもあったらしいです。御金蔵があった城は江戸・駿府・甲府・大坂の幕府直轄地のみの珍しい施設です。
( 若旦那)
2004年に稲荷櫓、2007年に山手御門・山手門が復元されました。
( 左近)
武田氏滅亡−徳川氏築上着手−加藤光泰−浅野長政・幸長父子により、1600(慶長5)年までには、ほぼ完成をみたようです。1706(宝永3)年柳沢吉保が造営−27年大火。
( nisi)
ここ10年でようやく本腰を入れた調査が行われ、その結果幾つもの新しい発見、発掘品がでてきました。その中でも白眉なのは、金箔瓦の出土−大きさから比較すると松本城以上とか…地方紙には大阪城クラスなんてことも…しかしこれは、この瓦が天主閣のものならばの話なのです。なにせ甲府城に天守閣があったかがいまもってわからず、県でも、情報を欲しがっているのが現状です。今も大規模工事中ですが、大そとの石垣を組み直し白壁も修復して、見違えました。
( nisi)