月山富田城の歴史・見どころ

月山富田城の歴史

月山富田城(がっさんとだじょう)は、戦国大名・尼子氏が本拠とし、山陰へ勢力を広げる拠点となった城として知られる。その起源については、平宗清・平景清・佐々木高綱・その弟義清などが富田に居館を構えたとする諸説があり、明確ではない。時期は長寛年間(1163~1165)から文治年間(1185~1190)初頭頃とされる。文治元年(1185)に佐々木義清が出雲守護となって以降、佐々木氏が富田に館を構えたとの記録も残る。

明徳2年(1391)の明徳の乱後、京極佐々木高詮が出雲守護となると、守護代として尼子持久が下向し、富田城を居城とした。持久の子・清定は応仁の乱を契機に地方豪族を支配下に置き、美保関港も掌握して勢力を広げた。やがて尼子氏は守護の京極氏と対立し、清定・経久父子は文明16年(1484)に守護代を解任される。しかし文明18年(1486)、経久は城代の塩冶掃部介を攻めて富田城を奪回し、以後、尼子氏は戦国大名として勢力を拡大した。

経久から家督を譲られた孫の晴久は、天文9年(1540)に安芸の吉田郡山城へ遠征して毛利元就を攻めたが敗北する。反対に天文12年(1543)には大内義隆が出雲へ進攻して富田城を攻めたものの、尼子方の反撃を受けて撤退した。晴久の跡を継いだ義久の時代になると毛利氏の攻勢が強まり、永禄8年(1565)には毛利元就が富田城を包囲する。永禄9年(1566)、兵糧が尽きた義久は毛利方に降り、富田城を開城した。

毛利氏の支配下では天野隆重、毛利元秋、元康らが城主を務め、天正19年(1591)には吉川広家が入城した。広家は同年、米子城の築城にも着手した。吉川氏の時代には月山富田城の主要部に石垣が築かれ、瓦葺きの櫓や土塀が設けられるなど、城郭の姿が大きく改められた。

慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い後には吉川氏に代わって堀尾忠氏が父・吉晴とともに入城する。忠氏の急逝後は吉晴が政務に復帰し、慶長16年(1611)に居城を松江城へ移したことで、月山富田城は廃城となった。

月山富田城の特徴と構造

月山富田城は飯梨川東岸、標高約190mの月山を中心に築かれ、城域は約1500m四方に及ぶ。飯梨川沿いに南へ進めば仁多・横田を経て山陽方面、東は伯耆方面、北は安来・中海を経て日本海へ通じ、飯梨川は物流にも利用された。山頂に主郭部を置き、飯梨川へ向かって馬蹄形に延びる尾根上に大小多数の曲輪を配した複郭式山城で、曲輪は約500を数える。

山頂部には本丸・二ノ丸・三ノ丸が連なり、二ノ丸と本丸の間には尾根を断つ堀切が残る。三ノ丸は幅約30m、長さ約100mで、吉川氏期と考えられる段築石垣が築かれている。山頂部と中腹の山中御殿平(さんちゅうごてんひら)を結ぶのが急坂の七曲りで、その左右にも曲輪を配して防御を固める。

山中御殿平は城主の居館があったとみられる広大な曲輪で、周囲を石垣が囲む。西側には高さ約7m、長さ約130mの大土塁が築かれ、その外側には幅約10m、深さ5m以上の空堀が設けられている。菅谷口は石垣によって通路を直角に折り、塩谷口も左右に折れながら山中御殿へ入る虎口となる。さらに西方の尾根には千畳平、太鼓壇、奥書院、花ノ壇などの曲輪が連なり、千畳平では大規模な石垣のほか、鯱瓦や鬼瓦を含む大量の瓦が出土している。

月山富田城の馬乗馬場跡
城の北部にあたり城下に面する。長さ約140m、幅約10~20mの細長い曲輪で、馬の調練所と伝わる。
月山富田城大手門跡・山中御殿平
山中御殿平に残る大手門跡。城主の居館があったとみられる広大な曲輪。
月山富田城・山中御殿平
城主の居館があったとみられる山中御殿平。月山富田城中腹の広大な曲輪で、周囲には石垣が残る。
月山富田城七曲り道から見下ろす山中御殿平
山頂の主郭部へ至る登城路、七曲り。山中御殿平と花ノ壇が見渡せる。
月山富田城三の丸跡
西袖ヶ平から望む三ノ丸跡。山頂部には三ノ丸・二ノ丸・本丸が尾根に沿って連なる。写真左手に七曲りの登城路が見える。
月山富田城本丸跡から二の丸跡・堀切
本丸跡から望む二ノ丸跡。本丸と二ノ丸の間には尾根を断ち切る堀切が残り、山城らしい防御構造を間近に見ることができる。

月山富田城の整備状況

月山富田城跡は昭和9年(1934)に国の史跡に指定された。安来市は平成27年度(2015)から史跡富田城跡の整備事業を進め、令和4年(2022)3月に7年間にわたる事業を完了した。山頂部や千畳平などでは樹木を伐採し、本丸・二ノ丸をはじめとする曲輪や七曲りなど、山城の地形と縄張りを把握しやすい環境を整えた。石垣や大土塁の保全、東屋や案内板の設置も行われ、花ノ壇では掘立柱建物などの施設跡の一部を復元・整備している。安来市立歴史資料館には「富田城跡ガイダンスコーナー」も設けられ、城の全体像や歴史を紹介する見学環境が整えられている。

参考文献:

  • 『日本城郭大系14』(新人物往来社)
  • Webサイト「月山富田城跡」「史跡富田城跡整備事業が完了しました」(安来市観光協会)

月山富田城のおすすめ散策コース(順路)

月山富田城は、標高約190mの月山に築かれた山城。登山道が整備されており、城跡は常時散策できる。山中御殿平から七曲りを経て本丸へ向かうルートをはじめ城内は広いため、登城前に「史跡ガイドマップ 月山富田城」(安来市観光協会)で散策ルートを確認しておきたい。ガイドマップは安来市観光ガイドのWebサイトからダウンロードできる。

月山富田城をより深く学ぶ展示・資料館・学習スポット

書籍と縄張図

戦国ロマン広瀬町シリーズ月山富田城をより詳しく歩くなら、縄張図も用意しておきたい。広瀬の郷土史家・妹尾豊三郎氏の研究を復刊した『戦国ロマン広瀬町シリーズ』があり、全10刊のうち、シリーズ1『月山富田城物語』、シリーズ2『月山富田城考』には縄張図が掲載されている。尼子氏の歴史をたどるなら、シリーズ3『尼子物語』もあわせて読んでおきたい。

月山富田城のジオラマ模型

富田城ジオラマ模型安来市立歴史資料館では、月山富田城を再現したジオラマ模型を見ることができる。時代考証をもとに制作された模型で、山頂の本丸・二ノ丸・三ノ丸から山中御殿平、山麓の城下町まで、広大な城域を立体的に把握できる。実際に山へ登る前に見ることで、曲輪の位置関係や城全体の構造を理解しやすく、現地を歩く際の予習にも適している。

月山富田城の撮影スポット・絶景ポイント

山中鹿介幸盛銅像
「我に七難八苦を与えたまえ」の逸話で知られる山中鹿介幸盛の銅像。尼子氏再興に生涯をかけた武将として知られる。

月山富田城の撮影スポットでは、「山中鹿介幸盛銅像」「山中御殿平」、本丸から堀切越しに望む「二ノ丸」の3か所が代表的。山中鹿介幸盛銅像と山中御殿は比較的撮影時間を選びやすい。本丸から二ノ丸を望む構図は逆光になりやすいため、昼頃の撮影がおすすめ。季節では紅葉に彩られる秋がおすすめで、例年11月下旬から12月初旬に見頃を迎える。

城の遠景を撮るなら、尼子経久の銅像付近から飯梨川沿いをさらに南へ進んだ場所に、月山の山頂部を望めるポイントがある。

月山富田城の写真(城写真ARCHIVE)

城郭カメラマン 岡 泰行が30年にわたり撮影・記録してきた「城写真ARCHIVE」では、月山富田城の魅力を写した写真を公開している。訪問前の見どころ探しや、旅の余韻を振り返る際にも役立つ。

月山富田城周辺の観光スポット・史跡めぐり

新宮党館跡月山富田城の周辺には、尼子氏と毛利氏の攻防を伝える史跡が数多く残る。尼子氏一族の館が置かれた新宮党館跡をはじめ、山中鹿介幸盛生誕の地、尼子晴久の墓、毛利元秋の墓、堀尾忠氏の墓など、歴代城主や月山富田城に関わった武将の足跡をたどることができる。城跡とあわせて訪ねれば、尼子氏の本拠から毛利氏、吉川氏、堀尾氏へと移り変わった月山富田城の歴史を、より立体的にたどれる。

月山富田城周辺グルメ・名物料理

出雲そば

出雲そば島根を訪れたら味わいたい郷土料理が出雲そば。そばの実を甘皮まで挽き込む「挽きぐるみ」による色の濃い麺と、豊かな香り、しっかりとした風味が特徴で、冷たい「割子そば」と温かい「釜揚げそば」が代表的な食べ方。月山富田城の麓にある「道の駅 広瀬 富田城」でも味わうことができ、登城とあわせて立ち寄りたい。

月山富田城周辺ホテル・宿泊情報

松江で宿を取るなら、宍道湖畔の温泉宿がおすすめ。松江市街にはビジネスホテルも多く、月山富田城と松江城をあわせてめぐる拠点にしやすい。ただし、出雲地方が「神在月」を迎える時期は観光客が増えるため、早めに宿を確保しておきたい。

月山富田城アクセス・駐車場・営業時間

所在地

住所:島根県安来市広瀬町富田 [地図を見る]

県別一覧:[島根県の城]

電話0854-32-2767(安来市立歴史資料館)

開館情報

月山富田城跡は散策自由。安来市立歴史資料館は9:30~17:00、毎週火曜日休館(祝日の場合は翌日)。

アクセス

鉄道利用

JR山陰本線「安来駅」下車、イエローバス「広瀬~米子線」で「月山入口」降車、徒歩約1分。

マイカー利用

山陰自動車道「安来IC」から約15分。無料駐車場は広瀬絣センター(44台)、安来市立歴史資料館(10台)。

地図