写真・監修:岡 泰行/城郭カメラマン

筒井城の歴史と見どころ

郡山城の名に隠れ、静かに佇む筒井城(つついじょう)跡。ここは、戦国時代の大和国を統治した筒井順慶の本拠として、激動の歴史を内に秘めている。湿地に囲まれた自然の台地に築かれた城は、今や住宅地と神社の風景のなかに溶け込むが、なおその地形や水路、そして古木に包まれた土塁が、往時の構えをほのかに伝えてくれる。遺構を辿れば、戦国の輪郭が浮かびあがる。祈りと戦いが交錯したこの城は、名だたる近世城郭に連なる前段としても重要な存在と言って良く、静かな町の一隅に、記憶は今も息づいている。

筒井城の歴史

奈良県大和郡山市に所在する筒井城は、南北朝時代に筒井氏の居館として築かれたことに始まる。筒井氏は、興福寺一乗院方の被官として大和国北部に勢力を持っていた武士団であり、室町時代には国人領主として台頭した。

この地は、吉野方面へ向かう吉野街道と、大坂と奈良を結ぶ亀ノ瀬越奈良街道という、ふたつの主要街道が交差する要衝であった。戦国時代に入ると、畿内に勢力を広げる松永久秀や三好氏といった有力者との抗争が激化し、筒井氏もその渦中に巻き込まれていく。永禄年間には筒井順昭が家中をまとめ、つづく筒井順慶の代に至って勢力を拡大。順慶は織田信長に従い、元亀4年(1573)には大和国支配を認められると、筒井城を本格的な拠点として整備したとされる。

しかし、筒井順慶は天正12年(1584)に病没する。後を継いだ養子の定次は、翌年、豊臣秀吉の命により伊賀上野へと移封された。これにともない、天正13年(1585)には筒井城は廃され、その役割は新たに築かれた郡山城へと移された。筒井城の建物や資材の一部は、郡山城の築城に転用されたとされる。

その後、筒井城跡は田畑や集落に姿を変えていくが、発掘調査により城域や堀跡、土塁などが徐々に明らかとなっている。城の中心部とされる現在の菅田比賣神社(すがたひめじんじゃ)付近には、筒井氏一族の墓と伝わる五輪塔群がひっそりと佇んでおり、往時の記憶を静かにとどめている。

筒井城の特徴と構造

筒井城は、奈良盆地の北部、標高約50mの台地上に築かれた平山城である。地形的には南北に長い舌状の丘陵を活かして構築されており、周辺はかつて湿地帯であったため、自然地形と水環境を活かした防御構造が特徴である。城域は東西約570m、南北約380mに及び、戦国時代の大和における有力城郭としての規模を示している。

主郭は現在の菅田比賣神社から光専寺にかけての範囲に比定され、東西約120m、南北約100mの平坦地に位置していた。この主郭の周囲には複数の曲輪が段階的に配され、内堀と外堀がそれぞれの防衛線を構成していた。発掘調査によって、深さ2m以上に達する堀跡や、版築による土塁の痕跡が確認されており、戦国後期における築城技術がうかがえる。

また、筒井氏の家臣団の屋敷や寺院、町屋などが城の周りに配置され、惣構えの性格を備えた城下集落が展開していたとされる。その城郭構造は、後に築かれる郡山城の先駆的な性格を有していた。

今も残る内堀の名残 ― 戦国の輪郭をとどめる二つの地点

筒井城・菅田比賣神社南東の住宅街に見られる水堀の痕跡
筒井城の堀は、現在も複数地点に遺存している。菅田比賣神社の境内東側から南の住宅街に巻く水路もそのひとつだ。内堀は主郭跡と伝わる場所で発掘調査がなされ深さ約2 m・幅6 m超、黒色粘土と有機質土層が底部から検出されたことから、水堀であったことが裏付けられている。

筒井城・光専寺北側に残る堀の痕跡
一方、光専寺北側には、薄いが堀跡と土塁が現地で確認できる。城の防御構造の一端として戦国の輪郭を今に伝えている。

菅田比賣神社境内に残る土塁状地形 ― 城の芯に重なる祈りの地

筒井城・菅田比売神社境内の推定土塁
筒井城の主郭と考えられている場所に鎮座する菅田比賣神社。境内には、緩やかに盛り上がる土塁と思われる起伏がある。

参考文献:

  • 『筒井城第8次・第9次発掘調査報告書』調査報告書(2009大和郡山市教育委員会)
  • 『筒井城第5次発掘調査報告書』調査報告書(2004大和郡山市教育委員会)
  • 大和郡山市Webサイト「大和郡山市の文化財」

筒井城の学びに役立つ本と資料

大和郡山歴史同好会が制作した『筒井城跡マップ』は、筒井城をめぐる地を、現代のまち歩きに重ねて案内する散策ガイドだ。2024年の公開以来、歴史資料と現地の風景をつなぐマップとして注目を集めている。居館跡や堀跡など、現地に残る遺構をGPSでたどるかたちで、往時の城郭と現在の町並みを同時に歩くことができる。

筒井城の撮影スポット

筒井順慶城址の石碑

筒井城城の痕跡を追う者にとって、城址碑は静かなる証人だ。筒井城では、「筒井順慶城址」と刻まれた石碑が、今も畑の一角にひっそりと建っている。場所は住宅街の細道を抜けた先、かつての城域西端に近い場所だ。人通りは皆無といって良く、周囲の静けさが石碑の存在感を際立たせている。石碑は西を向いて設置されており、朝の光では文字が影に沈む。逆光となる時間帯には刻字が読みにくくなるため、撮影には、曇天か午後のやわらかな日差しが向いている。

筒井城の写真集

城郭カメラマン撮影の写真で探る筒井城の魅力と見どころ「お城めぐりFAN LIBRARY」はこちらから。

筒井城周辺の史跡を訪ねて

筒井城の周辺や奈良盆地、さらには京都との境にかけて、筒井順慶の足跡を伝える史跡が点在している。墓所とされる五輪塔覆堂、本能寺の変後に去就を見極めたと伝わる峠道、そして戦国大和を語る上で欠かせない近郊の城郭群。それぞれの地に、静かに戦国の気配が残されている。時間が許せば、ぜひ合わせてめぐりたい。

筒井順慶の墓と伝わる五輪塔覆堂

筒井順慶の墓と伝わる五輪塔覆堂筒井城を訪ねたなら、もう一つ足を延ばしておきたい史跡がある。城主・筒井順慶の墓と伝えられる五輪塔が、小さな覆堂に守られながら、静かにこの地に立ち続けている。場所は、近鉄橿原線・平端駅から北東へ徒歩約5分。住宅街の一角、木立に囲まれた瓦屋根の覆堂がひっそりと佇んでいる。

天正12年(1584)、筒井順慶は郡山城で病没し、当初は奈良の円証寺に葬られ、のちに筒井氏の菩提寺である称念寺(現在地)へ改葬されたとされる。称念寺はすでに廃絶しているが、この覆堂が建つ場所がその旧地にあたると伝わっており、江戸時代の地誌『大和志』にも、順慶の墓所として記載が残されている。

覆堂の内部には、花崗岩製の五輪塔が安置されている。塔身には「順慶陽」「享年三十六歳」などの刻銘が刻まれており、これが順慶の没年と一致することから、本人の墓である可能性が高いとされている。地域でも古くから墓所として大切に守られている。

洞ヶ峠 ― 順慶が静観を決めた地として伝わる峠

奈良と京都の境にある洞ヶ峠は、筒井順慶が本能寺の変後、明智光秀の誘いに応じるか否かを見極めるために陣を敷いた地として知られる。山崎の合戦を目前に、順慶はこの峠で情勢をうかがい、結局参戦を見送ったという伝承が残る。これが「洞ヶ峠を決め込む」の語源ともなった。現地には「筒井順慶陣所跡」と刻まれた石碑が建ち、戦国の一幕を今に伝えている。アクセスは、京阪樟葉駅からバスまたは徒歩で、国道1号沿いの峠道に位置する。

近郊の城

奈良県では、規模的には、大和郡山城高取城宇陀松山城の3城を、戦国時代的には、信貴山城多聞山城筒井城の3城を見ておきたい。

筒井城周辺のおすすめ名物料理

コンビニも無い静かな住宅街で、特筆すべきものは何も無い。

筒井城のアクセス・所在地

所在地

住所:奈良県大和郡山市筒井町 [MAP] 県別一覧[奈良県]

電話:0743‑53‑1151(大和郡山市 まちづくり戦略課 文化財保存活用係)
電話:0743‑52‑2010(大和郡山市立観光協会)

アクセス

鉄道利用

近鉄橿原線、筒井駅下車、東北へ徒歩5分で筒井順慶城址の石碑。その付近、一帯の南北400m、東西500mが城跡。筒井駅から道中に案内板も無く、まさかと思う路地を通るので、必ず上記Googleマップを参照のこと。

マイカー利用

西名阪自動車道郡山インターより国道25号線西へ。筒井駅を目指す。がしかし、駐車場は無い。点在するポイントは、細い道路上にあり徒歩が良い。

※本記事は城郭カメラマン岡 泰行(プロフィール)監修のもと編集部にて構成しました。

筒井城に寄せて

これまでに届いた声:全5件

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    筒井城跡中心部分(小字シロ畑)は畠として利用され、良好な状況で遺構が保全されていた。このたび民間の開発業者が住宅開発を行うとの意向を示したため、大和郡山市では城跡中心部分の買い上げを決定、12月の市議会の承認を得た。今後、筒井城の保存・活用に向けた動きが活発化するものと思われる。

    ( 山川均)さんより

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    現在大和郡山市が筒井城を史跡として整備の準備中とか。一番注目してもらいたい場所は「虎口」です。当時のものがほぼそのままの規模で残っています。城址と呼ばれるものはほとんどありませんが、中世平城として堀や郭がそのまま現在も地図上で読み取ることが出来ます。それは、堀の後が蓮池としてのこっていたり、郭が地均しされずに残っているからです。現在の地図にマーキングしながら周辺を歩いてみるのもいいでしょう。ちなみに、名残として地名に「シロ畑」「北市場」などが残っています。大和郡山市教育委員会で資料を貰って歩いて見ましょう。

    ( 敬 徳)さんより

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    筒井氏の居城として中世から続いていた。永禄年間に一時信長の家臣となった松永久秀に居城を奪われるも、数年後に順慶により奪還した。しかし信長による天正8年(1580)の大和一国破城令により破却された。筒井氏は居城を郡山城に移した。

    ( 敬 徳)さんより

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    奈良では、規模的には、大和郡山城高取城宇陀松山城の3城を、戦国時代的には、信貴山城多聞山城筒井城の3城を見ておきたい。

    ( shirofan)さんより

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    ご存じ、筒井順慶の城として有名。一時期、松永久秀の城となったから(多聞山城信貴山城に次ぐ重要拠点)久秀のゆかりの地とも言うべきか。

    ( 奈良観光おすすめ隊)さんより

城の情報

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