写真・監修:岡 泰行/城郭カメラマン
宇陀松山城(秋山城)の歴史と見どころ
宇陀松山城は、標高約473mの古城山に築かれた山城。南北朝期に宇陀地方を治めた秋山氏が本拠としたこの城は、戦国期には豊臣・徳川の大名によって改修され、城下町も整えられていった。元和元年(1615)に破却されたのちも、城下町は「松山千軒」と称されるほど栄え、重要伝統的建造物群保存地区として今もその面影をとどめている。発掘調査では本丸御殿や天守郭の石垣が明らかになり、国史跡・続日本100名城に選ばれるなど、歴史と風景が静かに交差する名所となっている。
宇陀松山城の歴史
宇陀松山城のはじまりは、14世紀半ば、南北朝期に宇陀三将の一人・秋山氏が築いた「秋山城」にさかのぼる。標高473mの古城山頂に位置し、東国と西国を結ぶ要衝にあたる地に築かれた。
天正13年(1585)、豊臣秀長が大和郡山城へ入部すると、秋山氏はこの地を離れた。以降、伊藤義之、加藤光泰、羽田正親、多賀秀種らが城主となり、城郭整備が進められていく。とくに文禄元年(1592)に入封した多賀秀種の時代には、家紋入り鬼瓦や天守郭の石垣が築かれ、大規模な改修が行われたことが明らかになっている。
慶長5年(1600)には関ヶ原の戦いののち、福島正則の弟・福島高晴が城主となった。高晴は城名を「松山城」と改め、石垣造りや本丸御殿の整備、城下町の造成に力を注いだ。
宇陀松山城は、大和盆地と伊勢・伊賀方面とを結ぶ要路にあたり、伊勢本街道や初瀬街道が交差する交通の要衝に位置している。古城山の山上に築かれた城からは、南北にのびる街道筋を一望でき、軍事的な監視だけでなく、流通・経済の掌握を意識した立地といえる。町の南端に設けられた関門や町人地の整備も、こうした街道支配の意図と深く関わっていたと考えられる。
時は下り、元和元年(1615)、大坂夏の陣を経て豊臣方との内通が疑われた高晴は改易され、城も幕府によって破却された。この破却は同年に発令された「一国一城令」に基づく措置で、小堀遠州・中坊左近秀政によって徹底した破城が実施された。天守郭や本丸御殿をはじめ、山頂の主要部は石垣の一部を残しほぼ完全に取り壊されている。
その後、宇陀松山は織田信雄の一族が治める宇陀松山藩が成立し、初代信雄は長山屋敷(現在の宇陀市役所大宇陀地域事務所付近)を陣屋として用いた。藩政は春日神社西の向屋敷や北側の上屋敷へと拠点を移しながら続き、山上の城郭が再建されることはなかった。
織田家は高長、長頼、信武、信休と続き、約80年にわたってこの地を治めたが、元禄8年(1695)、第4代藩主・信武の後継問題により家中騒動が起きたことを契機に、織田家は減封のうえ、丹波国の柏原陣屋へ転封されている。以後、宇陀松山は幕府の天領として統治され、明治維新まで直轄支配が続いた。
平成7年(1995)からの発掘調査により、本丸御殿跡や天守郭石垣などが確認され、平成18年(2006)に国の史跡に指定。平成29年(2017)には続日本100名城に選定され、城の記憶が再び歴史の表舞台に現れた。
余談ながら、宇陀松山藩の初代藩主・織田信雄と、その子孫四代にわたる供養塔が、安土城の二の丸下に静かに並んでいる。父が夢を託したその地に、名を残すかたちで子孫が寄り添う構図は、どこか微かな安堵とともに、織田という名が再び歴史の中心に舞い戻ったようにも感じられる。
宇陀松山城の特徴と構造
宇陀松山城は、比高約170mの古城山に築かれた山城。尾根筋に沿って本丸、天守郭、二の丸、三の丸などが段状に配され、自然地形を巧みに活かした構成になっている。
近世初期の改修では、主要な曲輪が総石垣で囲まれた。発掘調査により本丸には礎石建物が存在していたことが確認され、また家紋入り鬼瓦や象形瓦など、城主の威信を示す装飾的な遺物も数多く出土している。
本丸と天守郭の構造
本丸は南北約40m、東西約50mの矩形で構成され、礎石建物の遺構が複数確認されている。本丸では礎石建物や敷石、排水施設などが確認されており、御殿建築が存在していたことが発掘調査から明らかになっている。御殿は東西約24m・南北約12mの規模をもち、瓦葺きの建物が複数並列する構造であったと推定される。建物群の間には石敷の通路や庭園遺構も検出され、格式ある主郭空間が整えられていたことがうかがえる。
その北端にある天守郭はさらに高所にあり、切岸と石垣で守られた独立性の高い郭といえる。郭の規模は東西約40m、南北12〜20mで、瓦敷き遺構や排水溝も発掘されており、実用性と象徴性を兼ね備えていたとわかる。
南西虎口と枡形石段の遺構
本丸南西に設けられた虎口は、L字型に折れ曲がる枡形構造をもち、進入経路を複雑にする防御性が備わっている。内部には石段や石組排水溝、櫓台跡が残り、近世初期に実戦を想定して改修された意図が伝わってくる。
出土瓦と城主の痕跡
本丸や天守郭からは、酢漿草文の鬼瓦や雷神文・象形の瓦が出土している。これらは多賀秀種期と関連づけられ、装飾性と呪術的意味を併せ持っていたと考えられている。奈良県内でも希少な遺物として、当時の築城技術と美意識を今に伝えている。
松山西口関門(黒門)
城下町の西端に建つ黒門は、江戸時代後期のものとされ、今も当時の場所に残る。切妻造、本瓦葺きの構造で、内部には番所のような間取りがあった。城域と町をつなぐ要所として重要な役割を担ってきた。
町並みと重要伝統的建造物群保存地区
城の南麓に広がる旧城下町は、江戸期の面影を今に残す貴重な町並みとして知られている。通りを歩けば、格子戸を備えた町家が静かに軒を連ね、その佇まいからはかつての暮らしの気配がやわらかく立ちのぼってくる。
江戸時代、この町は「松山千軒」「宇陀千軒」と呼ばれるほどの繁栄を誇った。家の数が「千軒」というのは、実際に多くの商家や旅籠、問屋が建ち並んでいた比喩だ。背景には、ここが伊勢本街道沿いに位置する交通の要衝であり、伊勢参宮や大坂方面への往来が絶えなかったことがある。また、宇陀紙や吉野葛といった地域の産物が集められ、ここ松山の町がその集散と取引の拠点となっていたことも見逃せない。旅人と物資が交差することで、町には自然と活気が生まれていったのである。
現在もこの町並みには、江戸後期から昭和初期にかけての町家建築が200棟以上残っており、通りに面した主屋と、その奥に控える中庭や離れ、蔵などが一体となって、落ち着いた歴史的景観をかたちづくっている。これらの価値が評価され、平成18年(2006)には「宇陀市大宇陀松山地区」として重要伝統的建造物群保存地区に選定された。
訪れる者は、町を歩きながら、かつてこの地に千軒の屋根が並んでいた時代の記憶を、静かに追体験することができる。今も風のなかに、商いと暮らしの往来が聞こえてくるかのようだ。
参考文献:
- 『宇陀市文化財調査報告書 第3集 史跡宇陀松山城跡 第7次〜10次発掘調査報告書』 資料種別(2013 宇陀市教育委員会)
- 『宇陀市文化財調査概要13:宇陀松山城跡 第13次発掘調査概要報告書』 資料種別(2016宇陀市教育委員会)
- 宇陀市Webサイト「夢の跡 宇陀松山城跡」
- 奈良県Webサイト「ならの文化財 宇陀松山城跡」「文化財を活かしたまちづくり 重要伝統的建造物群保存地区 宇陀松山」
- 滋賀県Webサイト「織田信雄・信武・信休供養塔(安土城跡二の丸)」
- 『丹波市史 通史編 下巻』 資料種別(2007丹波市教育委員会)
秋山城と松山陣屋
宇陀松山城と松山陣屋は、別の城と捉えるべきかもしれないが、ここに時代順に記しておく。現地観光マップに、織田藩上屋敷跡、織田藩向屋敷跡などの記載があるが、流れを知っておくとややこしくない。
宇陀松山城(別名:秋山城)
南北朝時代に秋山氏によって築かれた山城。秋山氏の詰の城といわれ、平時の居館跡(下城)を秋山城の南の尾根上に設けていた。春日神社に残る秋山陣屋(向屋敷)の春日門跡を通り、山道を登ると宇陀松山城に至る。
秋山陣屋(長山屋敷)
織田信雄が入封したときに築かれた陣屋。宇陀市大宇陀地域事務所あたりにあったと言われているが特に遺構はない。
秋山陣屋(向屋敷)
織田信雄の孫の長頼が築いた陣屋。寛文11年(1671)ごろに長山屋敷から移った。現在の春日神社西側付近とされ、後に造営された上屋敷跡を含む。春日神社の参道に「春日門跡」の石垣が残る。写真は春日神社の参道に残る、秋山陣屋(向屋敷)の門跡。櫓をのせていたと伝わる石垣が両サイドに残っている。
宇陀松山城(秋山城)の学びに役立つ本と資料
松山地区まちづくりセンター「千軒舎」に宇陀松山城の簡単な縄張図が展示されている。
また、宇陀市のWebサイトで教育委員会による『史跡宇陀松山城跡出土資料展』パンフレットPDFが閲覧できる。
宇陀松山城(秋山城)周辺の史跡を訪ねて
宇陀松山城を歩くなら、その歴史を支えた町や寺院、そして人びとの痕跡にも静かに目を向けたい。山上の城に対して、麓には時を重ねた史跡が点在しており、それぞれが宇陀の物語を今に伝えている。ここでは、城の南麓を中心に周辺の見どころを紹介する。
西口関門
福島総部頭孝治が居城とした際に作られたとされる唯一の建築物といわれている。門をくぐると虎口となっているのが分かる。場所が城下町のメインストリートから見えない場所で、少々分かりにくく、観光マップで確認するか地元の人に聞くと良い(地元観光マップでは「黒門」と表記されている)。
城下町散策を
秋山氏が築いた城下町。豊臣政権下、宇陀松山藩、天領時代を経て、現代にその町並みを残している。豊臣政権下のとき、阿貴町から松山町へ町名が変更された。平成18年(2006)に、重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。
秋山氏の菩提寺、慶恩寺
秋山氏の菩提寺で「秋山城主之碑」や「秋山家4代の墓宝塔」がある。天正13年(1585)、豊臣秀長が大和郡山城に入り、筒井順慶らと大和勢力の追放を行い、この時、秋山城を退去している。その後、秋山城は破却され、織田信雄の代に山の麓に秋山陣屋が築かれることとなる。
徳源寺に織田松山藩主四代の五輪塔
松山城の西の徳源寺に、織田松山藩主四代の五輪塔がある。寛永5年(1628)に、織田信雄はここに埋葬されたと伝わっている。近畿地方ではほかに、安土城の二の丸に織田信雄四代の供養塔がある。
又兵衛桜
後藤又兵衛が、大坂の役の後、宇陀町山に落ち延び僧侶となったという現地の伝承がある。その屋敷跡に「又兵衛桜」と呼ばれる一本桜がある。しだれ桜で樹齢推定300年、13mの高さがある(西口総門から西へ車で8分(2.8km)の距離)。後藤又兵衛は大坂の役の折、大阪の道明寺河原で討ち死し、又兵衛の妻の実家に随行するかたちで、その墓は、鳥取の景福寺にある。ほかにも伝承地があって、大分県の中津市の耶馬溪に、大坂の役の後に落ち延び、余生を過ごしたと伝わる地があり、そこにも後藤又兵衛の墓がある。
近郊の城
奈良県では、規模的には、大和郡山城、高取城、宇陀松山城の3城を、戦国時代的には、信貴山城、多聞山城、筒井城の3城を見ておきたい。
宇陀松山城(秋山城)周辺のおすすめ名物料理
まちなみギャラリー「石景庵」は必須
まちなみギャラリー「石景庵」で、うどんをどうぞ。観光マップもGETできる。何よりもその裏手に、松山城の石垣が見られるぞ。一部、後世の積み直しにも見えるが虎口らしき構造と石垣がある。
宇陀松山城(秋山城)のアクセス・所在地
所在地
住所:奈良県宇陀市大宇陀春日 [MAP] 県別一覧[奈良県]
電話:0745‑82‑3976(宇陀市教育委員会事務局 文化財課)
電話:0745‑88‑9800(まちかどラボ・松山地区まちづくりセンター)
- 宇陀松山城跡(宇陀市)
アクセス
鉄道利用
近鉄大阪線、榛原駅下車、バス15分「大宇陀」降車(大宇陀停留所は道の駅)、北へ徒歩500mで城下町エリア。登山口である春日神社を目指す。道の駅から春日神社まで徒歩14分。途中、松山地区まちづくりセンター「千軒舎」に寄って縄張図を見るべし。
マイカー利用
名阪国道針ICから国道369号線を南下、約31分(19.4km)、大阪方面からは、南阪奈道美原北ICから約60分(66km)。いずれも宇陀松山道の駅に駐車し、徒歩散策。登山口の春日神社や城下町には公的な駐車場は無い。
※本記事は城郭カメラマン岡 泰行(プロフィール)監修のもと編集部にて構成しました。
宇陀松山城(秋山城)に寄せて
これまでに届いた声:全1件

平成20〜23年度、宇陀松山城の史跡整備に伴い発掘調査を実施。ひと昔前と異なり、城跡はかなり整備されていて遺構が見やすくなっている。なお、発掘調査で大量の遺物が出土したが代表的なものは鯱瓦で、天守郭周辺から出土している。
( shirofan)さんより