安土城の歴史・見どころ

安土城(あづちじょう)は、天正4年(1576)に織田信長が近江国安土山に築いた居城だ。ときに信長43才。観音寺山から北西へ延びる尾根上に位置し、六角氏の居城であった観音寺城の尾根続きにあたる地を選び、新たな城郭を構えた。かつては大中の湖・伊庭内湖・安土内湖に三方を囲まれる地形にあり、築城以前の安土山は古墳や寺院「安土寺」に由来する地名が残るなど、信仰の山としての性格を帯びていたとみられる。

築城は同年正月に始まり、ほどなく仮殿が整うと信長は岐阜城から移った。その後、石垣普請のため周辺の山々から石材を集め、畿内・近国の武士や京・奈良・堺の職人を動員して本格的な築城が進められた。天正5年(1577)には城下町統制の「安土山下町中掟書」が定められ、城と城下の体制が整う。同年8月より天主の普請が始まり、天正7年(1579)5月に天主が完成した。

しかし天正10年(1582)、本能寺の変により信長が倒れると安土城もまた運命を変える。天主焼失の原因は諸説あるが、『兼見卿記』には城下の火災による類焼と記される一方、宣教師の記録には信雄による放火とも読める記事があり、真相は定まらない。いずれにせよ、壮麗を極めた城はわずか数年で炎に包まれた。

その後、羽柴秀吉が入城し、三法師を後継とする体制が整えられると、二の丸には秀吉によって信長の廟所が営まれた。天正11年(1583)には信雄が入城する。天正12年(1584)、小牧・長久手の戦いで信雄は秀吉に敗れ、やがて屈する。これにより安土城は再び主を失い、廃城後は城下町も八幡山城へ移され、以後は荒廃の中に埋もれていった。

安土城の特徴と構造

歴史を追うだけでは見えない安土城の本質がある。ここでは縄張や主要遺構に目を移し、その構造を具体的に見ていく。

安土城は標高198mの安土山に築かれ、東西約1000m・南北約150mに及ぶ大規模な山城だ。尾根と谷が複雑に入り組む地形を利用しつつ、中枢部では地形を削平し、石垣によって人工的な郭群を形成している。

安土城の主要部
滋現地案内板の中枢部平面図(転載)。石垣の天端が揃っているものは昭和35年〜48年度の修復を受けた箇所で、二の丸や天主台は、石垣が崩れている廃城後の姿を表している。

中枢部は天主・本丸・二の丸・三の丸・台所郭などから構成される政治・居住の中心空間だ。天主は最高所に置かれ象徴性を担い、本丸は清涼殿と同じ平面を持つ御殿と庭園を備えた政務空間、二の丸は廟所として精神的中枢の役割を持つ。これに対し台所郭などは日常機能を支える実務空間となる。

大手道周辺には羽柴秀吉や前田利家、徳川家康らの屋敷が並び、権力秩序を空間として可視化しているとされるが、これは後世に付けられたいわゆる「伝(伝承)」で、安土城が使われなくなって100年後に描かれた絵図『近江国蒲生郡安土古城図』をもとにしている。一方、八角平手前から東に降りる搦手道は物資搬入のための裏動線で坂道が設けられ、山裾では船運と結びつく構造を持つ。蓮池・薬師平・東門方面の郭群は、防御や生活を補完する区画として機能する。

全山に及ぶ石垣の多用は近世城郭の先駆的特徴であり、自然地形と人工構造を高度に融合させた縄張が最大の特徴といえる。

直線的な大手道

大手口から主郭へと直線的に延びる大手道は、幅広で儀礼的空間としての性格を持つ。防御一辺倒ではなく、権威を示す導線として計画された構造といえる。大手道の左右には家臣団の屋敷地が並ぶ。なお、直線的な大手道は、信長の小牧山城に次ぐ大手道となっている。

安土城の直線的な大手道
主郭へ向かって一直線に延びる大手道。幅広の石段が続き、権威を示す空間としての性格がうかがえる。
安土城の伝羽柴秀吉邸跡
大手道に面して築かれた上下二段の屋敷跡「伝羽柴秀吉邸跡」。下段には櫓門と厩、上段には主殿を中心とした居住空間が配置されている(写真)。秀吉邸の櫓門はその最古の例として知られる。

主要部を守る虎口構造

主要部は南の黒金門跡、北側の虎口によって厳重に区画される。直線的な大手道に対し、虎口という防御施設を効果的に用いた。

安土城主要部を守る虎口構造
黒金門跡や本丸北側虎口(写真)によって区画された主郭部。門と屈曲を組み合わせ、防御性を高めた構造が見て取れる(1998年撮影・現在非公開)。
安土城の中枢部北側の虎口
写真は搦手道からの合流点から中枢部北側の虎口入口。背後が八角平にあたる。搦手道はゆるやかなスロープが続く道で物資の搬入に使われていた(1998年撮影・現在非公開)。

八角形の天主台

天主台は不等辺八角形という特異な平面を持つ。外観五層の天主は、日本建築史上初の本格的高層天主とされ、その規模は後の豊臣大坂城天守をもしのいだと推定される。普請は尾張熱田の岡部又右衛門が担い、内部障壁画は狩野永徳・光信らが手がけたと伝わる。瓦も当時の先端技術を用いて当時の文化の粋を集めて焼成され、金箔瓦や、釉薬(うわぐすり)をかけない「青瓦」が用いられていた。

安土城の天主台
不等辺八角形の天主台で内部は七角形。中央には礎石が据えられていなかった。広大な基壇から五層天主の大きさを体感できる。

信長本廟

二の丸跡に、羽柴秀吉によって営まれた信長の廟所。秀吉はここで信長の一周忌に大規模な法要を行っている。上部に据えられた石は、信長が家臣に拝ませた盆石とする説があるが、定かなことは分かっていない。なお、この廟所は天保13年(1842)に改築されたことが、現地の碑から知られる。

安土城の信長廟
二の丸跡に秀吉が営んだ信長の廟所。一周忌にはここで大規模な法要が行われた。上部の石は盆石とする説があるが定かではない。

石垣の技術

石垣も安土山の城郭部全体を石垣で覆い、より高さのある石垣を実現しているのも城郭史上この頃からである。一説には比叡山寺院や京都の寺社の石垣を手がけた穴太衆が安土城の石垣を積み上げたとする説があるが、穴太衆が携わったことが書かれている史料が無く、確定はされていない。ただ、後の豊臣大坂城や石垣山城などには、穴太衆が携わった史料があること、豊臣大坂城の石垣出隅部の積み方が安土城天主台の一部に酷似していることから、その可能性は否定できないとする考え方もある。

安土城の天主台石垣
安土城天主台の石垣出隅部の一部は、豊臣大坂城の石垣出隅部の積み方に酷似している。

台所郭へ続く地階通路

中心部から台所郭や八角平へ至る通路は、石垣に囲まれた屈曲構造を持ち、動線の制御と防御を兼ねた重要な施設だ。両側の石垣には火災の痕跡とみられる赤い変色も確認できる。現在は立入禁止となっており、当時の様子を伝える貴重な遺構だ。

台所郭へ続く地階通路
石垣に挟まれた屈曲する地階通路。動線の制御と防御を兼ねた構造(1998年撮影・現在非公開)。

八角平方面の構造(現在は立入不可)

安土城の主郭を守る虎口は、黒金門と八角平方面の虎口の2ヶ所に設けられていた。現在、黒金門跡は見ることができるが、天主台から八角平方面は立入禁止となっている。かつては地階通路を含む複雑な動線をたどることができた。本ページでは、当時の大手道の姿とともに、現在は見られない八角平方面の詳細と写真を紹介している。

安土城の整備状況

壮大な遺構は、廃城後もそのまま残ったわけではない。発掘と整備の歩みを知ると、現在見られる景観の意味も分かってくる。

安土城跡は昭和15年(1940)・昭和16年(1941)に天主跡・本丸跡の発掘が行われ、その後も石垣修理などの整備が進められてきた。大正15年(1926)に史跡、昭和27年(1952)に特別史跡に指定され、国の保護下に置かれている。

平成元年(1989)からは調査整備事業が開始され、発掘成果に基づく保存と公開が進められてきた。大手道では踏み石を用いた石段が復元され、郭では礎石の保護展示が行われている。石垣についても当初の工法を尊重し、必要最小限の補修にとどめる方針が採られている。

近年では令和の時代に入り、新たな整備段階に入った。令和3年(2021)・令和4年(2022)には整備基本計画が策定され、令和5年(2023)からは新たに20年計画で調査と環境整備が進められている。さらに令和7年(2025)には天主台周辺(伝本丸取付台東半部)で発掘調査が実施され、建物礎石や石列が確認されるなど、主郭周辺の構造解明が進んでいる。

こうした調査と整備は、遺構を損なわず保存することを前提に進められており、見学路の整備も図られている。現在の安土城は、石垣と石段をたどりながら往時の構造を体感できる場となっており、信長の菩提を弔う摠見寺によって守られながら、歩くごとに新たな発見が積み重なる城跡となりつつある。

参考文献:

  • 『日本城郭大系11』(新人物往来社)
  • Webサイト「特別史跡安土城跡の調査と整備」(滋賀県)

安土城の撮影スポット・絶景ポイント

歴史と構造を頭に入れて歩くと、安土城は撮る場所によって見え方が大きく変わる。ここでは遺構撮影と全景撮影、それぞれのポイントを整理する。

繖山から望む安土城安土城の遺構は大手道や門跡の多くが南向きに開けており、日中であれば光の向きを大きく気にせず撮影できる。整備された城跡のため通年で歩きやすく、構図も取りやすいが、冬には近江八幡や安土以北で雪景色に出会えることがある。4月には麓に桜が咲き、安土山を彩るが、城跡そのものに桜は多くない点は意識しておきたい。

西の湖から見る安土城全景を捉える撮影では、安土山の外からの視点が効果的だ。ひとつは、隣接する観音寺城のある繖山の三角点付近。見下ろす構図で安土山の全体像を収めることができる。もうひとつは、西の湖の対岸に延びるヨシ笛ロード。湖越しに望むことで、安土山の独特な山容と水辺の広がりを同時に写し込むことができる。

安土城の写真集

城郭カメラマンが撮影した「お城めぐりFAN LIBRARY」には、安土城の魅力を映す写真が並ぶ。事前に目にしておけば現地での発見が鮮やかになり、旅の余韻もいっそう深まる。

安土城周辺の観光スポット・史跡めぐり

安土城の遺構を歩いた後は、周辺施設まで巡ると理解がさらに深まる。発掘成果や復元展示を重ねて見ることで、安土城の実像がより立体的に見えてくる。

安土歴史観光マップ

基本の見学ルートは、安土城址安土城址 → 安土城考古博物館安土城考古博物館 → 信長の館信長の館 → 安土町城郭資料館安土町城郭資料館。この順に巡ると、築城の実態から復元天主、全体像の把握へと自然に理解がつながる。時間が限られる場合は、安土城址と信長の館の2カ所を優先したい。

安土城天主信長の館

安土城天主信長の館城跡見学とあわせて必ず立ち寄りたい施設だ。スペイン万博に出展された安土城天主の5・6階部分が、内藤昌氏の案に基づき原寸大で復元されており、安土城の内部空間を体感できる。 詳しい開館情報は公式サイトで確認できる。

滋賀県立安土城考古博物館

発掘調査の成果をもとに、安土城の構造や出土遺物を体系的に紹介している施設だ。実際の遺構を見たあとに訪れることで理解が深まる。信長の館との共通券も用意されている。 開館時間や料金は公式サイトを参照。

安土町城郭資料館

JR安土駅南側に位置する資料館で、内藤昌氏の復元案による天主模型(20分の1)を展示する。コンパクトながら全体像を把握しやすく、見学の導入または締めに適している。 詳細は紹介ページを参照。

安土城から広がる城めぐり

近郊の城

すぐとなりの山が近江六角氏の本拠、観音寺城。また、JR安土駅のとなりの近江八幡には、秀次の八幡山城がある。そのほか、安土町には近江源氏佐々木氏の氏神、沙沙貴神社などの歴史スポットも。

安土城周辺グルメ・名物料理

周辺施設まで巡ると、食事も旅の組み立てに入ってくる。安土周辺は軽食中心のため、ご当地の味を求めるなら近江八幡まで視野を広げたい。

安土城址周辺での食事は、安土城考古博物館近くのレストラン「コチナピコ」や茶店が主となる。城跡見学の合間に軽く食事をとるには便利だが、本格的なご当地グルメを楽しむなら少し足を延ばしたい。おすすめは近江牛で、JR安土駅の隣にあたるJR近江八幡駅周辺には専門店が点在する。羽柴秀次の八幡山城とあわせて訪れるのもよい。

安土城アクセス・駐車場・営業時間

所在地

住所:滋賀県近江八幡市安土町下豊浦 [地図を見る]

県別一覧:[滋賀県の城]

電話:0748-46-6594(安土山保勝会)

開館時間

安土城址の入山時間は、8時30分〜17時(入城16時まで)季節により変動あり、有料(2006年9月から有料化)。

アクセス

鉄道利用

JR東海道本線(JR琵琶湖線)安土駅から徒歩25分。安土駅前のレンタルサイクル使用で約7分。

マイカー利用

彦根IC(約35分)、八日市IC(約25分)、名神竜王IC(約20分)、国道8号線から安土城址を目指す。登山口である大手道の前に駐車場有り。

地図

安土城周辺ホテル・宿泊情報

安土町周辺には宿泊施設が限られるため、宿泊は近江八幡エリアを拠点にするのが現実的だ。JR近江八幡駅周辺にはビジネスホテルが揃い、観光の拠点として使いやすい。羽柴秀次の八幡山城とあわせて巡る計画にすると、効率よく楽しめる。

安土城をより深く学ぶ展示・資料館・学習スポット

映画『火天の城』

火天の城・西田敏行映画『火天の城』(東映)は、安土城の築城に関わった宮大工の仕事を描いた作品だ。築城における「普請(土木)」と「作事(建築)」の役割が描かれ、作事を担った岡部又右衛門を中心に物語が展開する。縄張りや石材の運搬、穴太衆の石積みなど、安土城築城に関わる要素が具体的な場面として描かれており、当時の工事の様子を視覚的に理解する手がかりとなる。なお、この作品は安土城という題材に特化した内容であったことから、公開前に東映の担当者が制作に関する意見を求めて筆者のもとを訪れたこともあった。詳しくは映画紹介ページもあわせて参照してほしい。

天下布武印章

天下布武印章のレプリカ安土城に関連する資料や展示は、安土城天主信長の館で見ることができる。過去には「天下布武」印章のレプリカも展示されており、信長の権力象徴を身近に感じられる資料のひとつとなっている。JR安土駅前の城郭資料館でも関連展示が行われている。