写真:岡 泰行

【城郭カメラマン撮影】

米子城の見どころと歴史

米子城は応仁の乱のころ、日野山名氏の一族と伝わる山名宗之が、飯山に砦を築いたのがはじまりとされる。1591(天正19)年、吉川広家が豊臣秀吉により西伯耆、出雲など12万石を与えられ入封した。当初は月山富田城に入ったが、米子の湊山とそれに連なる飯山を新しい城地と定め、築城をはじめた。

1600(慶長5)年、関ヶ原の戦いで西軍の総大将だった毛利輝元が、周防、長門2国に減封されるに従い、広家は毛利一族として岩国領主となり米子を去った。代わりに、豊臣政権の「三中老」を務めた中村一氏の嫡男、一忠が伯耆一国を任され入封する。一忠は幼少であったため、横田村詮(内膳)が家老としてこれを後見し、築城の指揮も取ったという。

米子城から中海を観る
米子城本丸跡から中海を望む

1603(慶長8)年、家臣同士の対立を発端に一忠は村詮を誅殺。その際、村詮の子の主馬助らは飯山(一説には内膳丸)に立てこもり抵抗するが、松江藩主の堀尾吉晴の加勢もあって鎮圧された(米子城騒動)。

中村一忠は1609(慶長14)年に急死し、無嗣断絶となる。翌年、美濃国黒野より、加藤貞泰が6万石で移封された。1617(元和3)年、幼少を理由に姫路から鳥取に転封となった池田光政が入国。米子城は一族で家老の池田由之の預かりとなり、貞泰は伊予国大洲に移った。当時は既に、「一国一城令」が出されていたが、米子城は特例として存続を認められたようである。

1632(寛永9)年には光政と岡山藩の池田光仲とが領地を替えることとなり、米子城には光仲の筆頭家老、荒尾成利が配された(自分手政治=荒尾氏による委任統治)。以後、荒尾氏が代々の城主として明治を迎える。1872(明治5)年、士族に払い下げられ、建物は数年後に取り壊された。1951(昭和26)年、現在の湊山公園が置かれ、2006(平成18)年には国指定史跡となる。

米子城の特徴と構造

中海に面した標高90mの湊山に築かれた米子城。山頂に本丸が置かれ、四重五層の天守と、四重櫓(小天守)、二重櫓、遠見櫓などがあった。本丸北西側の尾根には、上下二段の「内膳丸」と呼ばれる出丸があった。ここから本丸にかけて、登り石垣が見られる。

米子城四重櫓台
米子城本丸の東に位置する四重櫓台

米子城鉄門跡へ至る登城路
番所跡から鉄門跡へ至る登城路

本丸北の山下には二の丸があり、御殿や武器庫などがあった。現在ここにある、旧小原家長屋門は、城下から移築されたものだ。二の丸から外桝形の二の丸表門を出たところが三の丸で、米蔵や厩があった。このほか、本丸の南には御船手郭(深浦郭)という中海に面した曲輪があり、船頭屋敷や船小屋が設けられていた。旧城趾の飯山にも、采女丸という曲輪などが置かれていた。

三の丸のまわりには内堀があったほか、当時は、城跡の北西部も中海の一部であった。内堀の外には武家屋敷群があり、その外側に外堀を置き、町人の居住地区と分けられていた。

参考文献:
『日本城郭大系』第17巻 新人物往来社・『探訪日本の城』小学館・米子市公式WebSite・米子観光ナビ・米子城跡リーフレット・米子城パンフレット

米子城の撮影方法

米子城は建物は残っていないが、本丸の石垣は良く残っている。石垣派にとっては、本丸から石垣越しの米子市街地や中海、遠見櫓から見上げる天守台、折り重なる石段、登り石垣など、撮影ポイント多し。

米子城の周辺関連史跡

米子城の建築遺構

「米子まちなか観光案内所」では、米子城二の丸御殿のものと推測される、屋根飾りの「懸魚」が見られる。また、米子城下の「鹿島茶舗」の中庭に米子城四重櫓の鯱がある。公開されている訳ではないがお願いすれば見せてくれるかも(鳥取県米子市立町2丁目44)。

米子城下町

米子城外堀の外に設けられた町人居住地区では、今でも当時の風情が残る町並が見られる。米子観光まちづくり公社が実施している「城下町米子観光ガイド歴史まち歩きコース」では、米子城や城下町など散策しながら案内してくれる(要事前予約・有料)。内容は、「海に浮かぶ天空の城米子城跡コース」「加茂川・中海遊覧船コース」「城下町満喫コース(町家・商家・地蔵)」「寺町銀座コース」など多彩。

米子市立山陰歴史館

米子市旧庁舎の建物を使った資料館。郷土史家、足立正が収集した考古資料を中心に、米子城天守および四重櫓の模型、鯱、武具など米子城関連や米子地方の民俗に関する資料などが展示されている。

お菓子の壽城

お菓子の壽城は、歴史スポットではないが、米子城天守を模した建物をもつお菓子のテーマパーク。最上階は展望スペースになっている。店内には、「すなば珈琲」をはじめとしたショップが建ち並ぶ。話のタネに。

近隣の主要な城

「尾高城跡」は行松氏の居城だったが1524(大永4)年、尼子経久の侵攻により落城、その後毛利氏が支配した。この間、山中幸盛(鹿介)に奪われたこともあった。関ヶ原後に入国した中村一忠が、米子城修築の間、入城した。米子市指定史跡。そのほか、有名城では若桜鬼ケ城(八頭郡若桜町)、松江城(島根県松江市)、月山富田城(島根県安来市)など。

米子城の史跡めぐりにこだわる最適なホテル

「皆生温泉」は風情があって良い。山陰地方随一の規模を誇る温泉街。弓ヶ浜や大山などの景色を楽しみながらの入浴もできる。米子市内には立ち寄り湯もあり、日帰りで入浴できるところもある。

米子城のアクセスと観光情報

所在地

住所:鳥取県米子市久米町 [MAP] 県別一覧[鳥取県]

電話:0859-23-5436(米子市役所文化観光局)

アクセス

鉄道利用

JR山陰本線、米子駅下車、徒歩15分で桝形入口。登り口から天守まで徒歩20分。
米子駅からバス利用の場合:
JR米子駅から米子市循環バス「だんだんバス」乗車、
<だんだんコース>11分で湊山公園下車、徒歩5分。
<試験運転歴史コース>4分で米子城前下車。

マイカー利用

山陰自動車米子中ICから10分。湊山公園無料駐車場有り。

米子城の旅のチェックリスト (4)

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    米子城を散歩して来ました。二の丸へ至る枡形はかなり大規模なものでした。山上の主郭部分は想像していた以上に素晴らしいものでした。本丸を取り巻く石垣群はナカナカなものです。これまで知らなかった。いい城へ来た!眼下の中海、その先東の美保湾は春の暖気のためか霞んでいました。南東・指呼の間に見えるはずの伯耆大山はうす曇のため、あの美しい姿を見せてはくれませんでした(残念!)往時は、吉川広家の4重天守閣(後の四重櫓)と中村一忠の五重天守閣が並立していたそうです。

    ( 木村)

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    天正19年から吉川広家が築城を始め、広家の岩国転封のあと、中村一忠が規模を拡大して完成させたそうです。米子市指定史跡の看板には、完成年は慶長6年、国指定史跡の看板には慶長7年と書いてあります。当時は五重の天守と四重の櫓がそびえていたそうです。

    ( こいちろう)

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    入り口には石垣の枡形がきれいに残っており、旧小原家長屋門の脇を登っていくと、内膳丸との分かれ道があり、そのうえは、何段にも石垣が重なる圧巻の眺めです。頂上まで行くと、きれいに日本海や町並みも見え、入り組んだ曲輪の形も見えます。

    ( こいちろう)

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    米子城の二の丸御殿のものと推測される屋根飾りの「懸魚」が米子観光まちづくり公社に、市民から寄贈された。米子まちなか観光案内所で見られる。

    ( shirofan)

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