写真:岡 泰行

大洲城の歴史と見どころ

「伊予の小京都」大洲市の中心部を蛇行する、肱川(ひじかわ)左岸に築かれた大洲城。平成16年(2004)、古写真や残されていた木組み模型を元に、洲本城(兵庫県洲本市)から移築したという説もある四重四階の天守が復元された。当初は建設省(当時)や愛媛県が建築基準法を盾に取り、木造での再建に難色を示していたが、保存建築物として同法の適用外とされ再建に至る。天守建築では例の少ない心柱を用いた。また柱材の多くが地元産で半数近くは寄贈されたもの。多額の寄付金などと併せ、市民に愛された城の様子が垣間見えてくる。

かつては大津と呼ばれていたこの地に城が築かれたのは鎌倉末期の元弘元年(1331)、守護の宇都宮豊房の地蔵ヶ岳城が始まりとされる。時代を経て、豊臣秀吉の黄母衣衆だった戸田勝隆、築城の名手、藤堂高虎、賎ケ岳七本槍のひとり脇坂安治が所領した天正から慶長年間にかけて、近世城郭として形成されていったようだ。元和3年(1617)には米子から加藤貞泰が入封。以降、大洲藩加藤家は幕末まで続く。

天守のほか19の二重櫓や多聞櫓などが建ち並んでいたが、明治になり、老朽化した天守は一度取り壊された。現存するのは「複連結式天守」を成していた台所櫓と高欄櫓、二の丸の苧綿櫓(おわたやぐら)、三の丸の南隅櫓の4棟(いずれも国指定重要文化財)と、三の丸の下台所(県指定有形文化財)である。天守が再建後も県指定史跡の城山公園として、整備が進められている。

大洲城の高欄櫓
白壁と板張り石落としの色調が美しい高欄櫓。

大洲城天守内部天守内部に並ぶ背割りのない伝統工法の柱。

大洲城の苧綿櫓と富士山
苧綿櫓(おわたやぐら)から肱川越しに見えるのは富士山(とみすやま)。

大洲城と肘川
本丸の後方は肱川が守りを固める。

大洲城天守の高さ

大洲城の天守内は解説板が要所に設置してあり、目に見えるものを中心に理解を深めることができる。大洲城天守の石垣上の高さは19.15m。現存する四国の木造天守と比較しても一番の高さだ(丸亀城天守が14.5m、宇和島城天守が15.3m、松山城天守が15.4m、高知城天守が18.1m)。

城ファンが紡ぐ、シリーズ『城の歴史旅』

大洲城の撮影方法

肘川から望む大洲城大洲城天守と二基の櫓を城外側から一度に望むなら、肱川の堤防上を下流に300m歩いて振り向くべし。または、大洲藩主加藤家の菩提寺、曹渓院から。こちらは本丸内側からの風景が望める。

大洲城の写真集

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大洲城の関連史跡

臥龍山荘贅を極めた肱川ぞいの臥龍山荘や分知により成立した新谷藩陣屋跡の麟鳳閣は風流ですぞ。

大洲城のおすすめ旅グルメ

大洲肱川の鵜飼い晩夏には清流肱川の鵜飼いやいもたきが楽しめるが、一人は寂しい。普段ならおはなはん通りすぐ、臥龍山荘も近い「いずみや(懐石料理)」で。手軽に済ますなら、城に近い鉄板焼「さおや」。焼きめしと焼きそばとを合わせた「ちゃんぽん」がうまい。いつも地元の人でにぎわいを見せる店。

「村田文福老舗」和菓子屋。肱川橋を渡ってすぐ右に折れ、商店街の左側。月窓餅(6個入り600円)がうまい。きなこで覆ったうすいわらび餅のなかに、上品な甘さの餡子がはいっていて絶妙な味です(空蝉&伊予介 2000.02.20)。

大洲城の史跡めぐりにこだわる最適なホテル

大洲の城下は小京都と呼ばれ、古い町並みをよく残している。老舗の旅館も多数ある。

大洲城のアクセス・所在地

所在地

住所:愛媛県大洲市大洲903 [MAP] 県別一覧[愛媛県]

電話:0893-24-1146(大洲城管理事務所)

開館時間

大洲城天守は年中無休。9:00〜17:00(入城は16:30まで)。その他の城域は散策自由。

アクセス

鉄道利用

JR予讃線、伊予大洲駅下車、徒歩約25分。またはタクシー約5分。

マイカー利用

松山自動車道の大洲ICから約13分(4.6m)。市民会館駐車場(有料)または、観光第一駐車場(無料)を利用。

城ファンの気になるところ (6)

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    蛇行する清流肱川を取り入れた高虎の縄張り。ここに明治期に解体された、四層の天守が現存していれば(2004年9月現在復元)、犬山と肩を並べる景勝城郭と称されるに違いない。破却を免れ、払い下げを受けながらも維持費に窮して解体された天守は、本丸のショーケースに写真として収まっている。天守台天端は保護のためかコンクリートで覆われているが、そこからは天守のモノクロ写真がまるで遺影のように見える。

    ( 城山神々)

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    台所櫓・高欄櫓(本丸)、苧綿櫓(二の丸)、南隅櫓(三の丸)の遺構が遺る(重要文化財)が、車道や公共施設に分断されており、城跡としての趣に欠ける。城跡といえども、経始と普請と作事が一体となって城郭をなすことの反面教師。

    ( 城山神々)

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    大洲公園と称されるこの城跡の大部分は私有地であり、二の丸跡には駐車場まである。昭和四十年代には現存櫓の解体修理を施す一方で内堀を埋め立て市民会館を建設するなど、ちぐはぐな行政姿勢が城跡を一貫性のないものにしている。

    ( 城山神々)

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    三の丸、二の丸、本丸と坂道を歩いて登るほどに「城」として訪れたことを後悔しました。だけど、公園奥の小さな階段を下り、川沿いに台所櫓の下までくると、公園の片隅にある地味な建物として映っていた櫓が違って見えます。観光を意識していないだけに苔むした石垣と共に自然な城郭を見ることが出来ました。公園で一息ついた後は下から仰ぎ見ることをお勧めします。

    ( 空蝉&伊予介)

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    2004年9月、天守閣が再建されました。古写真や当時の資料が残っていたため忠実にそれも木造で往時の姿が蘇りました。櫓も4基残っていて2つの櫓と天守閣とつながり城らしくなりました。

    ( 朝倉ただし)

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    私は現在66才(京都在住)ですが、子供のころ先祖は大洲城の家老(加藤家の時代)をしていたと、聞いています。加藤家と親せきで墓は八幡浜にあるということです。中学生のころに一度大洲城を見学に行ったとき、「神山式銃」という火縄銃が史料館(?)にあったことがいまだに気になり、今回、我が家のルーツを見つけに、女房と八幡浜のお墓と大洲城を尋ねに行きます。私の人生の中に大洲城の存在はいつも心の中にあり、この旅行を楽しみにしています。

    ( 神山章治)

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