写真・監修:岡 泰行/城郭カメラマン
伊丹城(有岡城)の歴史と見どころ
大阪と神戸の間に位置する伊丹市。その市街地に、有岡城は静かにたたずんでいる。戦国時代に荒木村重が大改修を行い、拠点とした城であり、織田信長の軍勢との攻防戦の舞台となった。特筆すべきは、城と城下町を一体化させた「惣構え」の構造にある。この防御形式は、のちに関東で発展した小田原城のような総構えの先駆といえる。現在、その中心部は史跡公園として整備され、発掘調査によって確認された石垣や空堀、礎石建物などが往時をしのばせている。歴史と静寂のあいだを歩き、かつての有岡の姿を想像する時間が、訪れる者の心に深くしみわたる。
有岡城(伊丹城)の歴史
有岡城の起源は、南北朝期にまでさかのぼる。文和2年(1353)、南朝方の新田義宗らが伊丹城を攻撃したという記録が残り、これが伊丹城に関する史料上の初見とされている。このころの城は、地域支配のための在地武士の居館的性格を持っていたと考えられ、のちの有岡城の前身にあたる。
その後、室町時代を経て戦国期に至り、伊丹氏の支配を経て城は改修が重ねられていく。猪名川の西岸、舌状台地上に築かれた立地は、防御と見晴らしに優れ、政治的・軍事的に重要な拠点となっていった。
天正2年(1574)、荒木村重は織田信長の命を受けて伊丹城に入城し、城の名を「有岡城」と改めた。入城とともに村重は大規模な改修に着手し、城と城下町を堀や土塁で囲む「惣構え」を導入した。発掘調査によって、一部で堀の跡や曲輪を区切る石垣・土塁が確認されており、これらの構造は当時の防御思想を反映している。
天正6年(1578)、村重は信長に対して突如として離反し、毛利氏との連携を図った。この動きは、ほぼ同時期に石山本願寺も信長に抗して籠城していた情勢と軌を一にしていた。有岡城は摂津国における反織田勢力の拠点と位置づけられ、周辺の支城である花隈城などとともに一連の戦線を形成していた。
信長は翌天正7年(1579)にかけて有岡城を包囲する。攻囲戦は約11か月におよび、周辺支城の陥落によって孤立を深めた有岡城はやがて落城した。村重は途中で城を脱し、残された家臣らは捕らえられて厳しく処分されている。
城は落城後に破却され、以後は再興されることなく廃城となった。江戸時代には伊丹郷町が形成され、城下町は酒造業を中心に新たな町場として発展を遂げた。現在、有岡城跡は国の史跡に指定され、中心部の一部が史跡公園として整備されている。遺構の保存とともに、発掘調査の成果に基づいて礎石建物の展示や案内板が設置され、来訪者に歴史の実像を伝えている。
有岡城の特徴と構造
有岡城は、南北約1.7km、東西約0.8kmにおよぶ広大な範囲を堀と土塁で囲んでいたとされ、惣構えの東端に本丸が配されていた。本丸周辺には礎石建物や石垣が築かれ、防御性と居住機能を両立させた構造を持つ。発掘調査では曲輪を画する石垣、土塁、空堀が確認され、戦国末期の平城としての特徴が現在も残されている。
有岡城が築かれた伊丹台地は、北方の山系から南へ舌状に張り出す地形を成している。城は東側には明瞭な高低差があり、川が流れて天然の防御線となっていた。一方、西側は2mほどのゆるやかな段差で、台地はそのまま市街へと下っていく。このため、防御上の弱点は西側にあったと考えられている。
城に至る街道は、大坂口(南)と比陽口(西)の2筋が主であり、信長の攻撃も比陽口側から行われたと伝えられる。現在の比陽口は、片側2車線の広い道路となっており、往時の姿は失われているが、地形にその痕跡を読み取ることができる。
本丸跡
本丸跡は、JR伊丹駅から西すぐの公園がその痕跡で、昭和49年から51年にかけて行われた発掘調査で確認された石垣や井戸跡、建物の礎石が並ぶ。西川には土塁が整備され、往時の防御構造を今に伝えている。なお、JR伊丹駅は、本丸東側を掘削し線路を通したため、当時の本丸はもっと広かった。
野面積みの石垣と転用石
有岡城の本丸跡には、発掘調査によって確認された野面積みの石垣が一部復元されている。墓石や五輪塔などを転用石が含まれ、天正期の築城らしさを示している。
本丸空堀跡
現在、本丸西側に確認できる空堀跡は、幅約15m・長さ160m前後にわたり残存し、地形のうえでも明瞭である。発掘調査ではその深さは2.5m以上と確認されている。
惣構えを歩く
JR伊丹駅のすぐ西側に広がる公園は、有岡城の本丸跡にあたる。戦国の世に名を馳せた城であり、歴史の表舞台にも登場する有岡城は、日本では数少ない「惣構えの城」として知られている。ヨーロッパの城郭都市を思わせるような、城下町全体を堀や土塁で囲んだ構えだ。現在、整備されているのは城の中心部の一部のみで、多くは失われた。だが、その痕跡は土地の高低差として残る。本ページでは、主郭から北に反時計回りで惣構えの痕跡を紹介する。ルートは、こちらのGoogleマップでご確認を。
曇正坂付近の段差
曇正坂道路上から右手を見ると主郭部から北に伸びる段差が見られ、それが惣構えのラインとして北へ延びていくのが分かる(伊丹市伊丹1丁目13)。
くすのきⅡ児童遊園地付近の段差
児童公園にある暗渠となった細い通路が、惣構えのラインだ。ここは車は通ることができないので徒歩散策が理想だ(伊丹市北本町1丁目305)。
北ノ口砦址
惣構えの北東の突端に台地が残り、北ノ口砦址といわれている(伊丹市北本町1丁目118)。
V字に屈折する道
惣構えの北側で縄張りがV字に屈折する道がある。惣構えのラインを示している。写真奥がその付近(伊丹市宮ノ前3丁目)。
岸の砦跡・猪名野神社の土塁
猪名野神社は惣構えの最北で、「岸の砦」跡といわれている(伊丹市宮ノ前3丁目)。この猪名野神社の境内西側には、長さ約20mの土塁が残存している。また境内は、北が尖った形をしている。惣構えの北端がどのような形をしていたかを、いまも実感することができる。ぜひ、その突端の堀の名残りかと思われる小道を歩いてみてほしい。突端から東側は谷地形、西側は山地形で、相当な高低差が確認できる。天然の要害と言っていい。近年では東側で、家の立ち退きなどで新たな石垣と思われるものが見つかるなど、ちょっとした話題にもなっている。
余談ながら、「猪名野神社」は、毎年、春祭に流鏑馬神事が行なわれることで有名な三重県の「猪名部神社」と深い関わりがあるのだとか。ちなみに兵庫県池田市に行くと「猪名津彦神社(いなづひこじんじゃ)」、箕能市に行くと「為那都比古神社(いなづひこじんじゃ)」など同じ系列と思われる神社が点在している。一説によると奈良の大仏殿を建てた大工、猪名部氏に関連するのだとか。
猪名野神社西側の堀跡
猪名野神社の西を南北に走る道路「緑ヶ丘中央線」が、惣構えの西側ラインだ。現在は道路になっているが、ここには近世初頭には川が流れていた。池田池から流れる小川が猪名野神社を経て、有岡城の惣構えの輪郭に沿って西へ蛇行していたのだ。現地の古老によると、その昔、写真の地点に「清水橋」という橋があったらしいが、昭和初期の都市整備で撤去されたという。後に石碑が設けられたものの、現在ではその所在が分からなくなっている。清水橋は今もバス停の名称としてその名残をとどめている(伊丹市宮ノ前3丁目)。
伊丹小学校付近の段差
伊丹小学校から「緑ヶ丘中央線」を挟み、東側に高低差がある。これが惣構え西端の痕跡だ(伊丹市宮ノ前1丁目)。
昆陽口惣構址付近の段差
「伊丹小学校前」交差点(比陽口)から「中央6013号線」に入る。こうした小道は歩くと高低差が面白く、道のすぐ西側が城外側で谷地形になっていることがよく分かる(伊丹市中央2丁目)。
上臈塚砦跡 ─ 墨染寺の女郎塚と伝荒木村重の墓
「中央6013号線」という小道から、惣構えのラインに沿って南下、県道189号線を東進し「中央3丁目」交差点から南下する有馬街道を歩く。伊丹シティホテルから墨染寺あたりまで、上臈塚砦(じょうろうづかとりで)の推定地で、ホテル建設時の発掘調査では、砦は古墳時代前期の古墳を利用していたことが判明している。墨染寺には、有岡城の落城時に命を落とした者を供養する「女郎塚」がある。また、荒木村重の墓と伝わる九層の石塔が残る(伊丹市中央6丁目)。
伊丹郷原遺跡付近の段差
墨染寺から南下し、県道13号線「尼崎池田線」を南へ進むと、左手に「伊丹郷原遺跡」がある。ここに惣構えの高低差の痕跡が見られる。道路上から東にそれて流れていく小川があり、それが惣構えのラインだ。この小川は住宅街の中でいくつか蛇行を繰り返し、本田針灸院のあたりで暗渠となる(伊丹市南本町1丁目)。
鵯塚砦跡
先の道路を道なりに進むと、台地上に登るかたちとなり、再び有馬街道に出る。その頂上付近が「鵯塚砦(ひよどりづかとりで)」跡とされる。なお、そこから街道を南下すると、下り道となり、下りきったところが惣構えの最南端となる(伊丹市伊丹7丁目3)。
東惣構跡
惣構えの最南端はV字に尖っている。そこから小川に沿って北上すると常に左手に段差を見て歩くことになる。途中、東惣構跡を通る。その地形から当時の惣構えラインを想像することができる(伊丹市伊丹5丁目)。
惣構えを歩きながらふと立ち止まると、道路や川筋の曲がりに、かつての城の気配がそっと息づいているように感じられた。喧騒から一歩離れたこの場所で、過去の記憶が今もなお息づいている。
参考文献:
- 伊丹市Webサイト「伊丹城跡(有岡城跡)」
伊丹城(有岡城)の学びに役立つ本と資料
「I/M 市立伊丹ミュージアム」には、18世紀前半の伊丹の町を再現した模型があり、総構がどんな姿か垣間見ることができる。また、常設展示で伊丹の歴史を知ることができるほか、伊丹市史の閲覧も可能だ。2022年4月に美術館や博物館を統合して、ミュージアムとしてオーブンした。
伊丹城(有岡城)の散策コース
伊丹城(有岡城)といえば、総構えの城として有名だ。時間が無い場合は、遺構重視に次の2ヶ所を見ておくと良いだろう。
- JR伊丹駅前の公園
本丸の空掘跡、土塁、石垣や井戸跡などが見られる。 - 猪名野神社
猪名野神社は、総構えの城として「岸の砦」があった場所で土塁が残る。
さらに総構えを歩くなら、下記Googleマップとともに前述の見どころを散策すると、有岡城というものが実感できる。
伊丹城(有岡城)周辺の史跡を訪ねて
有岡城跡の散策を終えたあとも、伊丹の町には歴史の余韻にひたれる場所がいくつも残されている。江戸時代の町屋を今に伝える文化施設や、町人地の水路跡、黒田官兵衛の幽閉伝承にまつわる地名など、城と城下町の記憶が静かに息づいている。有岡城の周辺に足をのばし、土地の歴史にふれる時間を楽しんでほしい。
伊丹の町屋文化を今に伝える「みやのまえ文化の郷」
伊丹市宮ノ前には「みやのまえ文化の郷」と呼ばれる文化施設群が整備されている。敷地内には、江戸時代の町屋を移築・保存した「旧岡田家住宅」と「旧石橋家住宅」があり、伊丹の町人文化を今に伝えている。特に「旧岡田家住宅」は延宝2年(1674)の建築で、日本最古の現存する酒屋建築として知られ、国の重要文化財に指定されている。釜屋や店舗、座敷、奥の間などがよく保存されており、当時の町屋の空間を実感できる。入館は無料、月曜休館。
また、敷地内には、鉄砲狭間を備えたお城風の復元土塀が整備されており、有岡城を意識した演出がなされている。
江戸時代の水路をたどる「大溝跡」
有岡城の遺構ではないが、旧岡田家住宅へ向かう道中に立ち寄っておきたいのが「大溝跡」。これは江戸時代前期に整備された伊丹郷の石組み水路で、現地では石垣で縁取られた往時の姿が復元されている。酒造業で栄えた伊丹の町場に欠かせなかった水路網の一端として、町人地の生活文化を伝える貴重な景観となっている。
黒田官兵衛の幽閉と「藤ノ木」の地名
有岡城は城下町を丸ごと囲む惣構えの城であり、その範囲は現在のJR伊丹駅一帯を含む広がりを持っていた。黒田官兵衛が幽閉されたのもこの城であるが、その正確な場所は明らかになっていない。一方、城の北東、現在のJR伊丹駅前イオン付近に「藤ノ木」という地名が残る。これは、官兵衛が牢中から見た藤の花に勇気づけられたという逸話にちなむ地名とされ、のちに黒田家の家紋が「藤巴」となったという説も伝わっている。地名だけが静かにその記憶をとどめている。
伊丹城(有岡城)周辺のおすすめ名物料理
かつて城と町が一体となって築かれた有岡城の城下には、今も歴史の余韻がしずかに流れている。その風土の中で、特筆すべき文化が日本酒にある。伊丹は「清酒発祥の地」と称され、精白米を用いた銘酒「伊丹諸白(いたみもろはく)」が、江戸時代を通じて将軍家や京・大坂の町人たちに広く親しまれた。
市内には、天文19年(1550)創業の小西酒造や、元禄元年(1688)創業の伊丹老松酒造といった歴史ある蔵が今も酒造りを続けている。それぞれの蔵が、伊丹郷町の町並みとともに、かつての酒造都市の面影を今に伝えている。
なかでも注目すべき存在が「旧岡田家住宅」だ。延宝2年(1674)に建てられた町家を中心に、正徳5年(1715)頃に増築されたとされる酒蔵を併せ持つ。現存する酒蔵建築としては最古級にあたり、国の重要文化財にも指定されている。建物内には往時の商家の暮らしを感じさせる間取りや意匠が残り、日本遺産「伊丹諸白」の構成文化財として、今も多くの人を迎えている。
伊丹の酒文化を体感する場として、「白雪ブルワリーレストラン 長寿蔵」も訪れておきたい場所のひとつ。小西酒造がかつて使用していた蔵を活用し、現在はレストランと酒造ミュージアムを兼ねた施設として整備されている。2階の長寿蔵ミュージアムでは、江戸から明治にかけて実際に使われていた酒造用具が多数展示され、伊丹の酒造りの歩みを知ることができる。
併設されたレストランでは、小西酒造の代表銘柄「白雪」をはじめとする日本酒やクラフトビールが提供されている。酒粕や地元野菜を用いた料理も揃い、古い梁が残る蔵の空間で、ゆっくりと味わう時間が旅の記憶を深めてくれる。
伊丹の酒は、香りや味わいにとどまらず、建築や暮らしのかたちをも伝えている。城跡を歩いたあとのひとときに、酒のまちの深い魅力が心をやさしく包み込んでくる。
伊丹城(有岡城)観光に便利なおすすめホテル
「伊丹シティホテル(兵庫県伊丹市中央6丁目2-33)」がある。ちょうど上臈塚砦(じょうろうづかとりで)の推定地にあり、ホテル建設時の発掘で、砦は古墳時代前期の古墳を利用していたことが分かったのだとか。すぐ南には墨染寺も。とはいえ有岡城の散策には半日もあれば充分。特に伊丹の地をベースキャンプにしなくて良いかも。
伊丹城(有岡城)のアクセス・所在地
所在地
住所:兵庫県伊丹市伊丹1丁目12 [MAP] 県別一覧[兵庫県]
電話:072‑784‑8090(伊丹市文化振興課)
- 有岡城跡(伊丹市)
アクセス
鉄道利用
JR福知山線、伊丹駅下車、徒歩1分。本丸は駅前城郭。惣構えの城を実感できる「岸の砦(猪名野神社)」までは伊丹駅から徒歩10分。
マイカー利用
中国自動車道、中国池田ICから、国道171号線を西へ、北村交差点から県道13号線を南下、JR伊丹駅を目指す。約4km。
※本記事は城郭カメラマン岡 泰行(プロフィール)監修のもと編集部にて構成しました。
伊丹城(有岡城)に寄せて
これまでに届いた声:全9件

伊丹城、見所等は特にありません。今あるのは古い石垣がほんの少し。大きな忠魂碑があるだけです。織田信長に背いた荒木村重の立て籠もった城です。
( サンタ)さんより
JR伊丹駅前の公園内にある石垣は十数年前の発掘調査後、復元されたものです。また、まわりの地形から有岡城(伊丹城)が大きな三角形の台地に築かれていたことがわかります。石垣は駅前の公園内にあります。公園以外、今は住宅地で当時の面影をしのぶことはできません。
( 黒田官兵衛)さんより
黒田官兵衛が幽閉されていた城としても有名ですね。
( 竹中半兵衛)さんより
伊丹城(有岡城)の北の砦は、猪名野神社です。その猪名野神社の鳥居から本殿の横を歩いていくと、石垣の跡が見られます。周りには川が流れ居た事が分かります。また、伊丹小学校(伊丹市船原)の東側の道路沿いにも石垣が見られます。有岡城のあった場所には、荒木村重の名前から取った、曹洞宗の荒村寺が在ります。日本にいる伊丹氏は、荒木村重の前の城主、伊丹氏の子孫と聞きます。
( 虎の子会)さんより
確かに「見所」の少ない城であることは事実でしょう。一見して石垣など遺構も少なく、もちろん構築物はなにもありません。ただ日本で最古と言われる「惣(総)構」の痕跡が、今の伊丹市の街角にも至る所に残っています。近世以降の「惣構」を持つ城でも、現代の都市計画などで痕跡すら残っていない都市が多く見られる中、伊丹は例外かも知れません。阪急伊丹駅の東側市街地には、ディープな感じのする狭い路地と唐突に急な小さな坂が多く見られます。近世以降の道路を除外し高度(等高線)を加味して、これらを線で結ぶと「在りし日の巨大な惣構え」が浮かび上がると思います。
( 伊丹新参者)さんより
歴史探訪のお供には、伊丹名物とも言える「たこやき」が良いでしょう。伊丹はたこ焼き屋の多い街です。喉が涸れたら伊丹は酒どころでもあります。お食事どころは「ブルワリービレッジ長寿蔵(レストラン)」阪急&JRの駅どちらからも徒歩5分。
( 伊丹新参者)さんより
伊丹城(有岡城)は惣構えの城で城域は広かった。黒田官兵衛が幽閉されたとき、牢から見える藤の花に、勇気付けられたとされ、そこから黒田家の家紋を「藤巴」にしたという説がある。現在、JR伊丹駅(有岡城主郭部)の北東にあるイオン付近に「藤ノ木」という地名が残るのみで、幽閉場所は城内のどこだったのか明らかになっていない。
( 黒田官兵衛)さんより
今日、自動車免許の更新にJR伊丹駅近くの「免許更新センター」に行ってきたのだが、帰りは少し時間が有ったので駅前にある有岡城址を歩いてみた。
ほとんどの石垣は復元されたものなのだが、このサイトの写真にもある「本丸跡」の僅かの部分に当時の石垣が残されていた。中にはお地蔵さんらしき石も石垣に組み込まれている。
風雨にさらされ丸みを帯び、火で焼かれたのでは?と思われる少し黒くなった部分もある当時の石垣に手を当てて見た。
この石垣は落城したときの様子を見ているのだろうと思うと感慨深い。
落城すると、城主の荒木村重は家臣や家族を残して尼崎城に逃亡。
籠城した武士やその家族は尼崎の「七松」に連れていかれ、全員家に押し込められて焼き殺されたんだよね。
この「七松」あたり、当時の尼崎城からもよく見えたらしい。
そんな事を考えながら有岡城址近辺を散策。
今は建物ばかりになっているが、丘陵の複雑な地形は今も面影を残している。
信長がこの城をなかなか落とせなかった理由がなんとなくわかるような気がした。
しかし、信長だけは好きになれないな。
( 山は六甲 酒は白雪 )さんより
有岡城 平城ですが北東は高い丘陵地帯になっていて北南に高い崖が続いています。
現在でもその崖は見ることができて防御の高さを感じることができます。
稲野神社(土塁跡)から北へ緑地道を歩いてみてください。右手に高い崖があります。お時間あれば是非。
ちなみに兵庫県伊丹市は女優の有村架純さんの出身地です。
( 城好きの匿名希望)さんより