写真・監修:岡 泰行/城郭カメラマン

三木城の歴史と見どころ

美嚢川(みのうがわ)のほとり、姫路道や明石道、湯の山街道を押さえる要衝に佇む三木城跡。播磨三大城の一つに数えられたこの城は、戦国末期の苛烈な攻防「三木合戦」の舞台として知られる。羽柴秀吉の大軍による包囲戦に1年10ヶ月耐え抜いたことで「三木の干し殺し」とも呼ばれ、数多の人々の運命が交錯した場所である。現在、静かな上の丸公園に残る土塁と空堀が往時の堅固な構えを物語り、周囲の丘陵風景は長い籠城戦の記憶を今に伝えている。

三木城の歴史

三木城は15世紀末頃、三木別所氏の初代当主・別所則治によって築かれたと考えられている。以後、別所氏は東播磨の国人領主として勢力を拡大し、戦国後期には東播磨八郡に及ぶ支配を築いたという。天正5年(1577)10月、織田信長が羽柴秀吉に中国攻めを命じた際、当主の別所長治は当初織田方として従った。しかし天正6年(1578)3月、長治は毛利輝元方に転じ、織田政権に叛旗を翻す。こうして始まったのが、羽柴秀吉率いる織田方と別所長治・毛利方との「三木合戦」だ。

織田勢はまず周辺の神吉城・志方城など反織田方の城を攻略し、続いて三木城への本格的な攻囲戦を開始した。秀吉は力攻めを避け、兵糧攻めによる持久戦を選んだ。三木城の周囲には40ともいわれる多数の付城(包囲陣地)が築かれ、巧妙に兵站線を断つ広範囲の包囲網が形成された。

やがて毛利方の援軍も途絶し、城内の食糧は尽き始める。天正7年(1579)4月、秀吉の軍師であった竹中半兵衛が平井山の陣中で病没する。包囲から1年半を経た天正7年末、三木城内では餓死者が続出し「干し殺し」の様相を呈したという。追い詰められた長治は天正8年(1580)1月、秀吉の降伏勧告を受け入れる決断を下した。開城に際し、長治は「今はただ うらみもあらじ 諸人の いのちにかはる 我身とおもへば 」という辞世を詠み、一族とともに自刃している。こうして約1年半に及ぶ籠城戦は幕を下ろし、別所氏は滅亡した。

三木合戦後、三木城には豊臣期の20年間、秀吉配下が城代を務めた。杉原家次、前野長康、中川秀政らが統治し、のちに豊臣家直轄領ともなっている。時は下り、関ヶ原合戦後の慶長5年(1600)、播磨に入封した池田輝政の支配下で三木城は姫路城の支城と位置づけられ、池田氏家老の伊木忠次が入城した。しかし元和元年(1615)の一国一城令により廃城となり、戦国の名城はその歴史的役割を終えた。その後、三木城下町は在郷町となった。

三木城の特徴と構造

三木城は兵庫県南東部の上の丸台地北端の丘陵上に築かれた平山城だ。「播磨三大城(三木城御着城英賀城)」のひとつ。城域の規模は東西約600m、南北約700mに及び、南側を山と谷、他の三方を断崖で囲まれた天然の要害であった。本丸・二の丸を中心に、新城・鷹尾山城・宮ノ上要害など複数の曲輪を尾根伝いに配し、南側には鷹尾山城と宮ノ上要害を据えて防御を固めている。石垣は用いず土造りを基本とした中世の城で、戦国期における播磨屈指の大規模城郭と評される。現在は上の丸公園として整備された本丸跡に「伝天守台」と井戸が残り、二の丸は「みき歴史資料館」など公共施設が建ち並んでいる。本丸東側の新城曲輪は昭和30年代まで土塁や帯曲輪が数段残っていたが、宅地造成で遺構の大半が失われた。二の丸南東の鷹尾山城は細長い尾根上に位置し、西端部のみ土塁と空堀が良好に残る。南側の宮ノ上要害は現在遺構が消滅したが、これら支城を含めた城全体が三木城として機能していた。

上の丸(本丸)

三木城上の丸(本丸)現地を訪れると一見して広大な本丸に見えるが、発掘調査で礎石建物跡や仕切りの堀跡が見つかり、曲輪が複数に区切られていた。また、本丸の伝天守台は埋められた堀の上に築かれていたことが判明している。

伝天守台跡と長治辞世の句碑

長治辞世の辞世の句碑上の丸本丸跡の高みにある「伝天守台」には、別所長治の辞世の句を刻んだ石碑が建つ。長治が自刃に際して遺した「今はただ うらみもあらじ 諸人の いのちにかはる 我身とおもへば 」という辞世の句は、己の死が多くの人々の命に代わるものと覚悟した武将の心境を今に伝えている。この碑は城の悲劇を象徴する史跡として、城跡を見守っている。

上の丸井戸

かんかん井戸本丸(上の丸)跡に残る井戸は「かんかん井戸」と呼ばれ、三木城唯一の井戸跡。直径約3.6m、深さ約25mにも及ぶ大井戸で、石を投じると「カンカン」と音が響くことからその名が付いたという。現地案内板によると、井戸からは別所氏ゆかりの馬具(鐙)も出土しており、城の命綱であった水源の歴史を偲ばせる。

上の丸切岸と模擬土塀

三木城上の丸切岸と模擬土塀上の丸の周囲には、当時の防御を物語る鋭い切岸(人工的に切り立たせた崖)が巡らされている。現在、本丸西側には模擬土塀が築かれており、この土塀と切岸のコンビネーションが、城らしい風景を伝えている。と言いたいが、土塀の見た目は姫路城に近い白く重厚なもので、三木城があった時代は、少なくとも白漆喰ではなかった。

二の丸と堀切

三木城上の丸と西の丸を区切る堀切二の丸跡では、発掘調査で巨大な備前焼の大甕16基が地下に埋設された状態で検出されており、籠城戦に備えた食料などの貯蔵庫跡とも考えられている。また、本丸と二の丸の間には、大きな堀切(空堀)が設けられていた。現在、この堀切は道路となっており、その起伏を読み取ることができる。二の丸に隣接する鷹尾山城は別所長治の弟・別所友之が守備した支城で、現在も尾根西端部の主郭部に土塁と空堀が残っている。

秀吉の設けた付城群

平井本陣跡(平井山ノ上付城跡)三木合戦の際、秀吉は三木城を囲むように多数の付城(陣城)を構築した。その展開範囲は東西約6km、南北約5kmにもおよび、築かれた付城は約40か所にのぼったとされる。現存が確認できるものだけでも20城ほどあり、三木市のWebサイトで縄張図などが閲覧できる。中でも三木城北方2.8kmの平井山ノ上付城(標高145m)は秀吉の本陣が置かれた最大規模の陣城。他にも南側の法界寺山ノ上付城(宮部継潤陣跡と伝承)や、高木大塚城・高木大山付城、明石道峯構付城、小林八幡神社付城などが三木城を取り囲むように配置された。付城同士の間には基底幅4~5m、高さ1m程の土塁を数重に連結して防線とし、土塁間の空地は兵の駐屯地としても利用された。このような大規模で組織的な包囲網戦術は当時画期的であり、のちの鳥取城・高松城での兵糧攻めに先駆ける初例として戦史上特筆される。現在も三木市内にはこれら付城跡や土塁が良好に残り、「三木の干し殺し」の戦況を今に伝える貴重な史跡群となっている。

参考文献:

  • 『国指定史跡三木城跡及び付城跡・土塁整備基本計画書』(2018 三木市教育委員会)
  • 三木市Webサイト『三木城跡』『国指定史跡 三木城跡及び付城跡・土塁』

三木城の散策コース

三木城の本丸は公園になっており散策自由。その構造は、兵陵の先端部に本丸(上の丸)があり、南西に曲輪が続き、南側に出城を築いた構えのお城だと理解しておこう。現在の三木城跡を歩くと明瞭に郭の境界線を示す遺構は無いが、上の丸公園が本丸跡で井戸や伝天守台跡、本丸西斜面(切岸)などがあり、三木市立中央図書館が二ノ丸跡となっている(二ノ丸からは籠城時に食料を入れた大甕が出土している)。本丸跡と雲龍寺には縄張図が掲載された解説板があるのでこれを参照して三木城の往時の姿を想像して歩くと良い。要するに、三木城のフィールドワークは、城の中止部の遺構少々と三木合戦の史跡めぐりが中心となる。

三木城の撮影スポット

三木城本丸跡にある伝天守台と、すぐ横にるある別所長治の石像は、東から望むため午前中の撮影が良い。また、城のロケーション、三木城の兵陵らしさを撮影するには、美嚢川(みのうがわ)の対岸の河原から撮影が良い。神戸電鉄が通るタイミングを狙ってみても風景として面白いかも。

  • 別所長治の石像

    別所長治の石像

  • 三木城と美嚢川

    三木城と美嚢川

三木城の写真集

城郭カメラマン撮影の写真で探る三木城の魅力と見どころ「お城めぐりFAN LIBRARY」はこちらから。

三木城周辺の史跡を訪ねて

三木城を訪ねたなら、城跡だけを見て帰るのは惜しい。戦国の世にこの地を舞台とした三木合戦の記憶は、いまも町の随所に息づいている。落城の悲劇を伝える首塚や、命を賭した将たちの墓、秀吉が布陣した陣跡、そして別所氏ゆかりの寺院や古道など、歩いてこそ触れられる史跡が数多く残されている。なかでも竹中半兵衛の墓と伝わるふたつの場所は、地元に語り継がれた伝承とともに守られ、訪れる者の心に深い余韻を残す。静けさの中に往時の気配を感じながら、歴史と地形が重なりあうこの土地を、ゆっくりと歩いてみたい。

現地に伝わるふたつの竹中半兵衛の墓

三木城に関わる歴史ストーリーで忘れてはならないのが、平井山の陣中で病死した竹中半兵衛の墓。地元の伝承により守られてきた2つの墓がある。平井山本陣跡に続く、ぶどう畑に土塀に囲まれた墓(三木市平井385)と、栄運寺の東側すぐの山間にある半兵衛の墓と馬塚だ(三木市志染町安福田)。

後者は、平井山から地続きの山で、徳川時代に豊臣系の墓が壊されることを恐れ、山中にもうひとつ墓を作ったという話も伝わるが今となっては正確なところは分からない。墓石には6月13日と命日が記されており竹中半兵衛を供養したものであることは間違いない。墓の右手には馬塚がある。前者の竹中半兵衛の墓と比べると、まるで人目を避けるように山中にあるその風情が歴史を感じる(詳しい場所は上記Googleマップ参照)。余談だが、竹中半兵衛の墓は、竹中陣屋菩提山城(岐阜県)の麓、禅幢寺にもある。

  • 三木市平井の竹中半兵衛の墓

    平井に伝わる墓

  • 三木市志染町安福田の竹中半兵衛の墓

    志染町安福田に伝わる墓

三木合戦の史跡

三木合戦の史跡が、三木城のまわりに点在している。別所長治公と照子夫人の首塚、平田山砦跡に谷大膳衛好の墓、八幡森史跡公園に淡河城(おうごじょう)城主の淡河弾正の墓、別所長治の首検分がされた寺で秀吉が三木城落城後に本陣とした本要寺、別所小八郎治定(長治の弟)の屋敷跡と伝わる正入寺など、歴史ストーリーを身近に感じられるという点では実に見どころの多いエリア。

また、あまり知られていないが、常巌寺(三木市宿原1038)には、赤松円心の墓所がある。門前の「温故知新」の石碑の背面に、開基・赤松円心公墓所と記されている。もともと別所氏は、この地域(播磨)の守護だった赤松氏の一族。赤松円心の時代に、円心の弟を娘婿として迎え赤松氏とさらに深い繋がりができている。

中でも雲龍寺の「別所長治公と照子夫人の首塚」は、見ておきたい(三木市上の丸町9-4)。首実検の後、雲龍寺住職が長治夫妻の首を貰い受け埋葬したと伝わる首塚。首塚のすぐ左に別所長治辞世の句碑、さらに由緒碑があり、これが三木城の外堀の残石を使っているから同時にチェックしておこう。また、その雲龍寺駐車場の東側には広大な空堀跡(公園)もある(いずれも詳しい場所は上記Googleマップ参照)。

  • 別所長治公と照子夫人の首塚

    別所長治公と照子夫人の首塚

  • 由緒碑の三木城外堀残石

    由緒碑の三木城外堀残石

  • 谷大膳衛好の墓・平田山砦跡

    谷大膳衛好の墓・平田山砦跡

  • 谷大膳衛好の墓・平田山砦跡

    淡河弾正の墓・八幡森史跡公園

  • 三木城落城後秀吉本陣(本要寺)

    三木城落城後秀吉本陣

  • 赤松円心公墓所と石碑

    赤松円心公墓所と石碑

秀吉の平井本陣跡

平井本陣跡(平井山ノ上付城跡)三木合戦で秀吉が本陣を置いた場所が平井山で、平井山ノ上付城跡、または平井本陣跡という。干殺しは、天正6年(1578)8月から天正8年(1580)1月までかかり、秀吉の戦では最も長い戦となったという。この付城は、数多くの郭を持ち主郭部には土塁も見られる。現在、木々が生い茂っているため平井本陣跡から三木城が見える訳ではない。平井山ノ上付城跡は、三木市のWebサイトでその測量図(縄張図)が公開されている。

正入寺は三木城平山丸跡

三木城平山丸跡(正入寺)三木城の平山丸跡で、三木合戦で秀吉の本陣平井山に攻めかかり戦死した別所小八郎治定(長治の弟)の屋敷跡と伝わる場所。その地に建立された正入寺は慶長6年(1601)、三木城主となった姫路城主池田輝政の筆頭家老、伊木忠次(いぎただつぐ)ゆかりの菩提寺(三木城は姫路城の支城のひとつとなる)。境内には、池田信輝・輝政親子と伊木忠次・忠繁親子の位牌を祀り、墓地には姫路城主池田利隆、伊木忠繁と母の供養塔がある。2代当主、伊木忠繁は姫路城の普請奉行となり、今見る姫路城を完成させたことはあまり知られていない。

三木合戦の付城や出城

鷹ノ尾城付城や出城でいうと秀吉軍が三木城包囲のために作った40余りの付城群。2012年現在20箇所が確認されているのでこれを巡るのも良い。整備されて見やすいのは明石道峯構付城。そのほか、別所側になるが三木城の出城、鷹ノ尾城。三木城から南へ1kmの三木勤労者体育センターを目指すと良い。城跡は整備されておらず土塁や堀などが明瞭に残されている。訪れて体育センター建物西側の土塁の圧巻のサイズに驚く。そのほか付城について詳しくは三木市Webサイトで解説されている。

本町滑原遺跡出土石列遺構

本町滑原遺跡出土石列遺構滑原(なめら)商店街工事の際に出土した石列の石が屋外展示されている。三木合戦の焼土層の上から出土したため、秀吉もしくは池田輝政時代の家臣屋敷等の町割遺構の可能性が高いのだとか。上の丸稲荷神社への参道(鳥居)右側にある。商店街の中にあるため徒歩散策が良い。ちなみに参道から商店街に入ったすぐの地面を見て、黒いレンガで示されている場所が出土跡。余談だが滑原(なめら)商店街の道は、淡河城や淡河の宿場町も通る「湯の山街道」。湯の山とは有馬温泉(三木から約30km東にある)へ続く道という意味合いで秀吉も頻繁に往来した。

旧玉置家住宅

旧玉置家住宅ちょっと戦国時代から外れるが、旧玉置家住宅は一見の価値がある。文政9年(1826)に切手会所(銀行)として建てられ、明治になり玉置家が拝領し母屋以外を大々的に増築(つまり母屋は江戸時代の建築物)。趣向を凝らした匠の技が見られる町屋となっている。三木では豊かさを示す「うだつ」は町屋に少なく、屋根が弧を描く「うねり」がその証し。余談だが玉置家初代は、もとは別所氏の菩提寺である雲龍寺のご住職らしい。

三木城のアクセス・所在地

所在地

住所:兵庫県三木市上の丸町 [MAP] 県別一覧[兵庫県]

電話:0794-82-5060(みき歴史資料館)

開館時間

三木城跡は散策自由。

アクセス

鉄道利用

神戸電鉄、上の丸駅下車、徒歩3分。

マイカー利用

山陽自動車道、三木小野ICより南東約2km、三木市立図書館を目指す。

※本記事は城郭カメラマン岡 泰行(プロフィール)監修のもと編集部にて構成しました。

三木城に寄せて

これまでに届いた声:全10件

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    三木城に模擬塀が出来ました。羽柴秀吉が本陣を置いた寺などが近所にあり天下統一に近づく経過が感じられる城郭です。秀吉の中国攻め時、「兵糧攻め」として有名。軍師で有名な竹中半兵衛の墓が近くに有ります。

    ( 生友 正征)さんより

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    車で城まで登るのは難しく迷いに迷った。一方通行や通行止めが多いので注意。金物資料館のそばの上の丸公園内に三木合戦の看板や塀が復元されている。他に別所長治の像や長治辞世の歌碑、抜け穴伝説のある「かんかん井戸」などがある。5月の第1日曜日には「別所公春まつり」が公園内で開催される。この城で一番有名なのは三木合戦。三木城に対して兵糧攻めを仕掛けてくる秀吉に対して三木城方は2年間篭城した。兵糧が尽きて降伏を申し出た城主別所長治は「今はただ 恨みもあらじ 諸人の 命にかかわる 我が身と思えば」と辞世の歌を読んだ。

    ( 大崎貴之)さんより

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    御着城(小寺氏)、英賀城(三木氏)と並び、三木城は播磨三大城といわれたそうな。

    ( 竹中半兵衛)さんより

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    三木合戦で有名な、淡河城(おうごじょう)も同時に攻めるべし。三木城から東に約8kmの位置にある。道の駅「淡河」を目指すと良いぞ。

    ( 竹中半兵衛)さんより

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    三木は、お城でもお世話になる、左官屋が使うコテの全国シェア8割を誇っているそうな。

    ( 竹中半兵衛)さんより

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    三木城上の丸公園と、三木市立図書館の間の道路は、堀切跡。

    ( 竹中半兵衛)さんより

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    三木城本丸跡には、残石と伝わる三木城に使われていた石材がごろごろと残っている。

    ( shirofan)さんより

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    ながはるとよばれしこともいつわりよ25年の春もみすてて

    もう一つの別所長治公の辞世の句

    ( 城好きの匿名希望)さんより

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    地元自治体の三木市は、15年ぶりに三木城跡の発掘調査を行うそうです。4年間で本丸、二ノ丸跡を発掘し史跡整備に生かす狙いなのだとか。

    ( カンダタ)さんより

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    2022年12月、二の丸跡から枡形虎口の跡が見つかった。江戸時代初期の「播州三木古城図」をもとに調査されたもので、落城後の近世城への改修跡ではないかとされている。

    ( shirofan)さんより

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