写真・監修:岡 泰行/城郭カメラマン
上月城の歴史と見どころ
播磨の西端、佐用町の山間にひっそりと佇む上月城(こおづきじょう)は、戦国期の波乱を物語る中世山城のひとつ。赤松氏の一族により築かれ、やがて織田と毛利の対立が激化するなか、再興された尼子氏の拠点として歴史の表舞台に立った。標高約190mの尾根上に本丸を構え、南北に曲輪を連ねた構造は、戦国後期の実戦的な防御設計を今に伝えている。現在は本丸・二の丸・三の丸に加え、堀切や土塁の遺構が静かに残り、佐用の山々に歴史の余韻を響かせている。
上月城の歴史
上月城は、南北朝時代に赤松円心の一族である上月景盛が築いたと伝えられている。城は播磨国の西端、因幡・美作へと続く交通の要地にあり、中世を通じて赤松氏の重要な支城として機能した。
嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱によって上月氏の嫡流は滅びたが、その後も上月城は地理的要衝として機能し続けた。天文7年(1538)には尼子氏の勢力が播磨に及び、上月城は一時的にその手に落ちたとされる。さらに弘治3年(1557)には赤松政元が入城するも、のちに宇喜多直家の攻撃を受けて落城した。
その後、播磨は織田信長の勢力下に入り、天正5年(1577)、羽柴秀吉の播磨進攻により上月城は再び攻略される。この際、秀吉は播磨各地に拠点を築きながら着実に支配を広げていった。西播磨では英賀城を、東播磨では三木城を攻め、赤松政範の守る上月城もその一環として攻略対象となった。織田方はかつての出雲の戦国大名・尼子氏の再興を図り、尼子勝久を擁立。山中鹿之介をはじめとする旧尼子家臣団が上月城に入り、同年末までに城を整備して拠点とした。
天正6年(1578)、毛利方が上月城を包囲した。兵力や戦況の詳細は不明ながら、城は長期にわたって孤立し、厳しい籠城戦を強いられた。この時期、織田・毛利の攻防は山陰や山陽各地にも及んでおり、播磨における上月城の戦いもその一端を担っていたといえる。たとえば、山陰では鳥取城、山陽では備中高松城といった要地でも激しい攻防が展開されていた。
一方、羽柴秀吉は播磨国内の一揆鎮圧や備中方面の作戦準備に追われていたことから、上月城への援軍は送られなかった。やがて城は包囲下で開城となり、尼子勝久は自刃。山中鹿之介は毛利方に捕らえられ、のちに備中松山城の城下で処刑された。首は鞆の浦に運ばれたという。これにより、尼子再興の試みは潰え、上月城もその役割を終えることとなった。
上月城はこの戦いののちに廃され、近世を迎えることなく山中に埋もれた。だが、今日も遺構の数々が戦国の記憶を留め、訪れる者を静かに迎えている。
上月城の特徴と構造
上月城は、標高約190mの丘陵上に築かれた中世山城で、本丸を中心に二の丸・三の丸が連なる連郭式の構造をとっていた。尾根筋を巧みに利用し、北西側・南東側には堀切を設けて敵の侵入を防ぐ設計が施されている。土塁や腰曲輪なども随所に残り、戦国末期の実戦的山城の様相をよく伝えている。
参考文献
- 『兵庫県中世城館跡調査報告書 第4集 西播磨地域編』 調査報告書(2010兵庫県教育委員会)
- 佐用町Webサイト「上月城跡」
- 兵庫県教育委員会Webサイト「兵庫県の中世城館 上月城跡」
上月城の学びに役立つ本と資料
「上月歴史資料館」で縄張り図の書かれた案内パンフレットを必ずGETしよう。そのほか、資料館では上月城の歴史を解りやすくパネル展示しているぞ。
上月城の散策コース
上月歴史資料館は、10時から16時まで。開館は土日月祝(年末年始休館)。4月から8月までは平日10時〜15時まで臨時開館。上月城跡は、山城のため、いつでも登城可だがこのあたりは山間部のため暗くなるのが早い。
上月城周辺の史跡を訪ねて
ついつい見落としがちになるのが、登山口から登らず、沢沿いに歩けば、小さな尼子橋付近に供養碑がある。「山中鹿之介追頌之碑」、「尼子勝久公四百年遠忌追悼碑」、「上月城戦没合同慰霊碑」、「神西三郎左衛門元通公追悼之碑」、「上月歴史研究会顕彰文」、「上月氏発祥之地石碑(前述の5本よりさらに沢に沿った道を進むと右手にある)」と、計6本の供養碑がある。
また、お城でいうと、秀吉が上月城を攻めたときに築いた陣城、上月城の東側の山、仁位山城や高倉山城、旧上月城とも伝わる上月城北側の山、大平山など。赤松側でいうと、赤松氏の城郭群を形成していた利神城、福原城(佐用城)など(詳しくは上記Googleマップ参照)。
上月城周辺のおすすめ名物料理
北へ12km、利神城の麓、道の駅「宿場町ひらふく」までどうぞ。ご当地ものは「自然薯」「獅子肉」「丹波黒枝豆」など。「獅子肉」は獅子肉コロッケなるものが道の駅で150円で売っているぞ。また、毎年10月第2週あたりになると「丹波黒枝豆」の収穫時期。肉厚で味わい深い丹波黒は、道ばたで販売していることがある。
上月城のアクセス・所在地
所在地
住所:兵庫県佐用郡佐用町上月 [MAP] 県別一覧[兵庫県]
電話:0790‑86‑1616(上月歴史資料館)
アクセス
鉄道利用
JR新姫線、上月駅下車、国道373号線を南下、徒歩12分で登山口。途中、堀切や曲輪跡を見ながら約10分で本丸。
マイカー利用
中国自動車道、佐用ICから国道179号線を南下、国道373号線へ入り、上月歴史資料館を目指す。資料館前(登山口前)に、広大な無料駐車スペースあり。
※本記事は城郭カメラマン岡 泰行(プロフィール)監修のもと編集部にて構成しました。
上月城に寄せて
これまでに届いた声:全4件

天正5年(1577)、毛利氏についた赤松政範の守る上月城(こうづきじょう)を、秀吉が攻めた。このとき、先陣をつとめた竹中半兵衛と黒田官兵衛は、約4km北にある福原城(佐用城)を落とし、ついで上月城東側の高倉山に陣を移した。秀吉軍が上月城北側の大平山を占拠した後、上月城は落城する(第一次上月城の戦い)。
この後、秀吉は山中鹿之助に上月城を守らせたが、天正6年(1578)に毛利勢6万の大軍に囲まれ、秀吉の救援はこれを救うことができず、信長の命によって、別所長治が籠る三木城攻略に専念することとなり、上月城は破棄された。孤立した尼子勝久は自刃、山中鹿之助は毛利軍に捉えられ、備中松山に移送される途中、阿井の渡し(岡山県高梁市)で殺され、首は鞆の浦(広島県福山市)に送られた。
( 黒田官兵衛)さんより
攻略時間は、約30分といったところ。上月城は、空堀、出丸、本丸、二の丸とあり、比較的小規模な山城。
( shirofan)さんより
どうして山間部のひとつの谷筋に築かれた小さな山城が、度々、歴史に登場するのかピンと来ないかもだけど、ここは、播磨と美作、備前が接するポイントで交通の要衝地。
( 兵庫観光おすすめ隊)さんより
本丸に建つ三基の供養塔には、赤松政範と132名の戦死者の名が刻まれている。また、秀吉が第一次上月城の戦いで、上月城の城兵や女子供200人を、はりつけにしたそうな。
( 左近)さんより