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佐賀城は龍造寺氏の村中城を基礎に慶長13年(1608)から総普請によって整備された鍋島氏の居城である。低地に築かれ北を大手門とする構えや水路を生かした城下構造が特徴といえる。現在は鯱の門や天守台、三方に残る堀が往時を伝える。このページでは佐賀城の歴史や構造、遺構の見どころを豊富な写真とともに紹介する。
写真:岡 泰行(城郭カメラマン)
佐賀城の歴史・見どころ
佐賀城は、龍造寺氏の居城であった村中城を基礎に、慶長13年(1608)から慶長16年(1611)にかけての総普請により拡充強化された城である。当初は西部の八戸に新城を築く案もあったが、鍋島直茂の強い意向により、村中城を土台として普請が進められた。慶長19年(1614)には外郭の増普請が行われている。
元和元年(1615)の一国一城令に際しては、藩内で取り壊した蒲池城の資材が佐賀城へ運ばれ、工事の用材に充てられた。堀は国中の人員を動員して掘られ、北東の堀は筑前黒田藩の加勢によって完成したため、のちに「筑前堀」と呼ばれた。
佐賀城が北を大手門(北御門)とする構えをとったのは、前身の村中城時代から北方からの敵に備えることが重要だったためである。鍋島直茂が晩年に城下北方の多布施に隠居し、その地に葬られることを望んだのも、この北の備えを重んじた心のあらわれといえる。元和4年(1618)頃には家中の主だった者が在郷から城下へ移住し、城下町の体裁が整っていった。
水路の構築も重要であった。成富兵庫が嘉瀬川から分かれる多布施川を改修して石井樋を築き、水量を調節した。この多布施川は上水道の役割を果たし、同時に内堀の水を満たした。
藩政時代の佐賀城は、享保11年(1726)の大火で天守・本丸・二の丸・三の丸を全焼した。その後、天守と本丸は再建されず、二の丸や重臣屋敷で藩政が行われたが、天保6年(1835)の二の丸火災を機に10代藩主鍋島直正が本丸の再建に着手。天保9年(1838)に完成した。明治4年(1871)の廃藩置県後は県庁として使用されたが、明治7年(1874)の佐賀の乱で本丸の大部分を焼失した。残った鯱の門や大書院などは、のちに一部が移築・再利用された。
佐賀城の特徴と構造
佐賀城は、佐賀市南部の低地に築かれた平城である。現在は鯱の門、天守台、城壁の一部、および南堀・西堀・北堀が残り、城の輪郭を伝えている。
城内には、東に裏御門・東御門、北に北御門、西に西御門が開かれ、本丸・二の丸・三の丸・西の丸が配されていた。本丸には五層の天守が存在した。石垣は本丸の北と西を中心に構築されており、西の丸南西隅には「亀甲乱積み」という技法を用いた櫓台がある。また、城下から遠ざかると松の木に隠れて見えなくなることから「沈み城」とも称された。
佐賀城の整備状況
明治7年(1874)の佐賀の乱で本丸の大半が焼亡したが、鯱の門と続櫓は焼失を免れた。これらは昭和28年(1953)に佐賀県重要文化財、昭和32年(1957)に国の重要文化財に指定され、昭和36年(1961)から昭和38年(1963)にかけて解体修理が行われた。
平成13年(2001)には「旧佐賀城本丸御座間・堪忍所」が佐賀市重要文化財、「佐賀城跡」が佐賀県史跡に指定された。その後、発掘調査の成果に基づき本丸御殿の一部が木造で復元され、平成16年(2004)に佐賀城本丸歴史館として開館した。
- 『日本城郭大系17』(新人物往来社)
- Webサイト「佐賀城の歴史」(佐賀県立佐賀城本丸歴史館)
佐賀城の撮影スポット・絶景ポイント
佐賀城の鯱の門は、西向きのため撮影は午後が良いが、御殿の玄関は東向きだ。鯱の門は大棟に載る鯱瓦、石垣の重厚感をしっかり撮影しておきたい。城跡内をつぶさに歩くことを考えれば、時間は使うので、できるだけ順光で撮影できるよう効率的に訪問時間を設定したい。
佐賀城の写真集
城郭カメラマンが撮影した「お城めぐりFAN LIBRARY」には、佐賀城の魅力を映す写真が並ぶ。事前に目にしておけば現地での発見が鮮やかになり、旅の余韻もいっそう深まる。
佐賀城周辺の観光スポット・史跡めぐり
龍造寺隆信誕生地
享禄2年(1529)2月25日、龍造寺隆信は水ヶ江城で生まれた。龍造寺家は村中と水ヶ江の二系を持ち、のち隆信は宗家を継いで勢力を広げる。誕生地には胞衣を納めたと伝わる「袍衣塚(えなつか)」が残り、戦国大名の出発点を物語る。
築地反射炉跡
嘉永3年(1850)、佐賀藩主鍋島直正が日本初の実用反射炉を築いた地。蘭学者らの知と在地の技が結集し、嘉永5年(1852)には鉄製大砲の鋳造に成功した。近代産業化の扉を開いた拠点として、技術史の記憶をいまに伝える。
直鳥城跡
神埼市千代田町の低平地に営まれた中世城館で、環濠と島状の小区画が巡る独特の縄張が知られる。発掘調査報告により堀や溝、掘立柱建物跡などが確認され、佐賀平野における環濠集落系城郭の様相を示す好例となっている。
吉野ヶ里歴史公園
国特別史跡・吉野ヶ里遺跡の保存活用を目的に整備された公園。弥生時代の巨大環壕集落を復元し、物見や環壕など当時の防御と祭祀の空間構成を体感できる。遺跡は平成3年(1991)に特別史跡へ指定を受けた。
今山合戦場跡
元亀元年(1570)、大友勢の来襲に対し龍造寺方が今山で迎撃。鍋島信昌(のち直茂)が夜襲で大友親貞を破り、隆信の台頭を決定づけた合戦として知られる。古戦場は佐賀市大和町今山に伝承され、合戦碑が史を語り継ぐ。
戦国の記憶を抱く高傳寺鍋島家墓所
天文21年(1552)、鍋島清房の創建に始まる曹洞宗の古刹。境内には、龍造寺家および佐賀藩主鍋島家歴代の墓塔と石灯籠が整然と並ぶ。藩祖直茂・妻である陽泰院の墓も寄り添い、戦国から近世の系譜を今に伝える。
佐賀城から広がる城めぐり
佐賀県の名城
佐賀県に残る多彩な名城からは、地域の歴史の広がりが見えてくる。
佐賀城周辺グルメ・名物料理
「壱岐っ子」刺身など海の幸がとにかくおいしい日本料理屋。値段はやや高め。場所は佐賀市愛敬町で日曜が休み。ランチが安いところでは「割烹 夢咲」。場所はJR佐賀駅から北に500mほどで、魚料理が専門の小料理屋。
佐賀城アクセス・駐車場・営業時間
所在地
住所:佐賀県佐賀市城内 [MAP]
県別一覧:[佐賀県]
電話:0952-41-7550(佐賀県立 佐賀城本丸歴史館)
開館時間
城内は散策自由。「佐賀県立 佐賀城本丸歴史館」は無料(募金募集中)時間は9時30分〜18時。年末年始休館(12月29日~1月1日)。
アクセス
鉄道利用
JR長崎本線、佐賀駅下車、中島行バス15分「鯱の門前」降車、徒歩10分。
マイカー利用
九州横断自動車道長崎大分線、佐賀大和ICから南へ25分(約10km)、無料駐車場有り(119台・7時30分~21時)
佐賀城周辺ホテル・宿泊情報
佐賀城近郊にホテルは少なく、JR佐賀駅周辺にホテルがある。
佐賀城:城ファンの知見と記録
佐賀城を訪ねた人たちが残してきた記録です。現地での発見や知見が寄せられ、城歩きの文化の中で育まれてきた経験がここに蓄積されています(全4件)。







初めは鍋島氏の主君である龍造寺隆信の「村中城」だったらしいけれど、鍋島氏によって大改修され、藩は明治時代まで存続したそうだよ。
佐賀城の天守台には二の丸側からしか入れません。天守台入り口には、本丸からだと西の虎口を出て犬走りを歩いて行くルートと、鯱の門を出て木村さんが行かれたルートの2つがあります。
その理由についは、はっきり分かりませんが、築城当初本丸には竜造寺氏が、二の丸に鍋島氏が入る予定だったとか。そのため天守台入り口は二の丸側だと言われています。元々、佐賀城は本丸・二の丸への求心性に乏しい城で、その理由は家臣団の力が強かった為との事。つまり佐賀城内の本丸・二の丸以外は重臣の屋敷地であり、それぞれが藩主の鍋島氏とは同じ位の地位を持っていたのが原因です。佐賀城は本丸を中心にした城というより、家臣の屋敷地等が本丸・二の丸同様独立した館として存在している館集合体の様なもの。それが天守台にも現れていれるのかもしれません。
あと、南隅の櫓台の石垣は発掘を元に復元されたもの。亀甲積になっていますが、これも発掘されて判明したものです。
本丸一帯は発掘調査が行われており、本丸御殿の礎石も露出しておりその規模の大きさがよくわかる。鯱の門にパンフレットがあります。
肥前三十六万石、鍋島氏の居城であった佐賀城であるが、明治七年の佐賀の乱により大半は灰燼と化し、建物遺構は鯱の門のみ。とはいえ、その風格はなかなかのものであり、渡櫓で連結されていたと思われる天守台に五層の天守がそびえていた頃を想像すると胸が高まる。