写真:岡 泰行

伏見城の歴史と見どころ

伏見城の立地を変えた秀吉

木津川・桂川・宇治川が合流し、淀川となって大阪湾に流れる。この合流地点に淀古城は築かれた。当時の河川は、いわば自動車道のようなもので、大坂から京都へ河川を使って人や物資が運ばれた。淀は水上交通の中継地といったところだ。

秀吉が淀城から伏見城に移ると、この水運を利用しようと、伏見の南にあった巨椋池(おぐらいけ)に流れ込んでいた宇治川を、堤防を築き、城下の南まで北上させる河川改修が行われた。巨椋池は今は干拓によってその姿を消しているが、京都で最大の湖だったらしい(京都競馬場の中央にある池は巨椋池の名残といわれている)。いわば宇治川を伏見に引き入れて城下町を港町にしたといってよく、これにより伏見と大坂の間に水運が開かれ、日本最大の内陸河川港へと発展する。当時は、夜に伏見を出て早朝に大坂着といった具合だったらしい。その後、伏見〜大坂間が淀川の舟運、伏見〜京都間は陸上でというのが一般的な交通手段となり、伏見はその中継地として機能した。

大規模な土木工事によって新しい街道もいくつか整備された。そのひとつ、大和街道(奈良から京都)も、伏見城下を通るかたちに改修され、これが、巨椋池を渡る巨大な道路で「太閤堤」と呼ばれている。余談であるが太閤堤は当時は4kmにも及ぶ湖上の道路で、現在はその台地が市街地を歩くと分かる。こうして陸上と河川の交通を伏見城に集中させている。

現在、伏見城の南に、その支城が造られた「向島」という地名があるが、巨椋池に浮かぶ島を表している。この向島城は、徳川家康の大名屋敷として秀吉から与えられていた。

奇しくも秀吉が築いた水運は、大坂夏の陣・冬の陣で、京都所司代板倉勝重により伏見大坂間で軍用品の運搬に活躍する。両陣で淀船3,560艘、水夫は7,260人余というから、その規模がうかがえる。伏見〜大坂間の水運は、昭和30年代後半まで機能した。

伏見城の歴史

伏見城といっても、歴史上は微妙に場所を変えて次の3つの「伏見城」がある。そしてプラス現代版。

指月伏見城(指月城)

もとは秀吉の隠居屋敷がはじまりでいわば初代の伏見城。聚楽第を豊臣秀次に譲ったこともあって、文禄元年(1592)に秀吉が命じ造られた。その後、秀頼が生まれたことや、大坂城聚楽第の間に位置するこの伏見城で二元統制を行うなど、秀吉をとりまく政治情勢が変わり、文禄3年(1594)から、秀吉の本城として本格的に改修された。だが、築城後間もない文禄5年(1596)に直下型地震の伏見大地震で城がわずか2年で倒壊する。ちなみにこの頃、度々地震が起こっていたため、伏見大地震を境に元号は「慶長」と改元されたらしい。また、慶長元年(1596)には、秀頼が元服している。

指月伏見城は、絵図が残されておらず、正確な位置も特定できなかったため「秀吉の幻の城」といわれてきた。それがつい最近、一転する。奇しくも豊臣家滅亡から400年目の平成27年(2015)6月、伏見区桃山町泰長老のマンション建設予定地で、指月城のものと推定される石垣や堀、金箔瓦が出土し、大々的なニュースとなった。いやもうこの現地説明会は2,300人が押し寄せ、とんでもない人出で大変だったが、それはさておき、これを足がかりに指月城の解明が期待されている。また、この発掘調査では、堀跡から崩落した石垣石などが発見されなかったことから、伏見大地震の痕跡は確認されていない。なお、2015年6月現在、出土した遺構を保存するかどうかなどは、これから検討されることになるとのこと。
続いて2016年11月19日、福祉施設建設予定地で、長さ約14.5m、高さ2.8m、6段から7段に積まれた大規模な石垣が発掘された。こちらは地震の痕跡と見られる割れた瓦などが見つかったらしい。現地説明会(一般公開)は無く保存のため埋め戻される。

木幡山伏見城(木幡城・豊臣期)

秀吉は伏見大地震の直後から、すぐ北側の木幡山(現在の明治天皇陵)に伏見城の再建にとりかかり、慶長2年(1597)に完成する。昼夜を徹した築城工事でもとの資材も活用しスピード築城だった。文禄4年(1595)には聚楽第を破却しその建物も移築されたらしい。現在、その痕跡の代表格は北堀公園で、幅150m、深さ15mで江戸城最大の堀に匹敵する大きさがある。秀吉は、晩年の5年間をここで過ごし、慶長3年(1598)に、この木幡山伏見城で没する。秀吉の死後、慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いの前哨戦、伏見城の戦いで鳥居元忠が守る伏見城は、西軍に攻められ落城。京都のお寺に血天井が残るのはこのときのものと言い伝えられている。また、2019年3月に、住宅建設で大規模な石積み階段が出土した。初代木幡伏見城の大名屋敷の裏門の階段と見られている。

木幡山伏見城(木幡城・徳川期)

関ヶ原の戦いで勝利した家康が、落城した城の復旧工事を、藤堂高虎に命じ、慶長7年(1602)に開始、年内に本丸が完成する。その後、家康が駿府城に隠居すると、伏見城の作事にストップがかかり、城内の宝物や什器などが駿府城へと移送された。大坂の役後、元和9年(1623)、大坂城攻撃の拠点の役割を終えたとして、三代将軍徳川家光の将軍宣下(朝廷が征夷大将軍に任命する)の式を最後に、廃城となる(家康・秀忠の将軍宣下もこの伏見城で行われている)。城の建築物は、京都の社寺や諸大名に移築され、石垣の多くは淀城と徳川期大坂城に使われた。京都の寺社や全国の城で見られる伏見城の移築建築物はこの時のものが多いといわれている。

伏見桃山城(現代)

廃城が決定して2年後の寛永2年(1625)には、伏見城の廃城作業が完了し、城址は「伏見山」「古城山」などと呼ばれたが、延宝2年(1674)頃から桃林が生まれ「桃山」と呼ばれるようになった。江戸時代は、伏見山から醍醐という花見コースがあったらしい。「桃山時代」や「桃山文化」という名称は明治以降のものでここから生まれている。

「伏見桃山城」という名は、昭和39年(1964)、「株式会社 桃山城(近畿日本鉄道株式会社のグループ会社)」が営業を開始した復興天守の施設に付けられた名称だ。伏見桃山城キャッスルランドとして、ジェットコースターなどを含む遊園地としてオープンしたが、その後、各地の遊園地と同様に入場者数が減り、平成15年(2003)1月31日で閉園した。

ちょうど復興天守のある東側に今は野球場(伏見桃山城運動公園)があるが、それがキャッスルランドの跡地で、当時の若者にはそれなりに人気があった。とにかく人力で動かす施設が多く、とっても体力を使う遊園地といわれていた。閉園後は、京都市によって伏見桃山城運動公園として整備され、復興天守は残された。耐震強度の問題で建物内への立ち入りができなくなっているが外観はすぐそばから望むことができる。指月伏見城、木幡山伏見城はともに短命だったが、この復興天守は、現代の大阪城天守閣同様に、過去に存在した天守よりもゆうに長く、50年以上の歴史を重ねている。

余談だが、昭和の当時は私鉄が遊園地と野球チームを合わせ持つ時代で、関西でいうと、阪急電鉄が宝塚ファミリーランド(遊園地)と阪急ブレーブス(球団)、阪神電鉄が甲子園阪神パーク(遊園地)と阪神タイガース、近畿日本鉄道がキャッスルランド(遊園地)や近鉄あやめ池遊園地や生駒山上遊園地と近鉄バッファローズ(球団)といった具合だった。宝塚ファミリーランド、甲子園阪神パークともに関西では有名な遊園地だったが、キャッスルランドと時を同じくして平成15年(2003)に閉園している。今も残るのは、生駒山上遊園地のみ。宝塚ファミリーランドの跡地には、メリーゴーランドが2011年まで残されていたがすでに無い。キャッスルランドは天守閣が残っていて、城ファンにはちょっと嬉しいかも。

発掘調査報告書をWebで

京都市埋蔵文化財研究所や京都平安文化財のサイトで、伏見城やその城下町など発掘調査報告書や現地説明会の資料がPDFで閲覧できる。

『天下人の城』京都市文化財ブックス第31集

『天下人の城』京都市文化財ブックス第31集(平成29年4月1日発刊・A4カラー114P)に旧二条城ほか、聚楽第、伏見城など京都の城について書かれている。京都駅ビル2階の京都総合観光案内所で販売されている。

伏見城の関連史跡

御香宮神社で、伏見城の移築城門と石垣石を

御香宮神社(ごこうのみやじんじゃ)は、その表門が伏見城の移築城門(重要文化財)。また、拝殿の車寄も伏見城からという伝承がある。境内には、刻印の付いた石垣石がある。そのほか、全国でも珍しく、秀吉を祀った豊国社と家康を祀った東照宮が同じ境内にある。千姫ゆかりの神社でもあり、千姫が誕生した年に秀忠が寄進した千姫みこしがあるほか、社務所には金箔瓦が保存されている。拝殿近くには、御香水と呼ばれる湧き水があり、その名の由来とも言われている。

史跡宇治川太閤堤跡

文禄3年(1594)、指月伏見城の改築と同時に行われたのが、宇治川堤や淀堤など数々の堤が整備された。陸路と水路を伏見に集約させた都市を造ることが目的だ。平成19年(2007)に発見され整備された宇治川太閤堤は、宇治川の旧護岸が整備され石積み護岸、石だし、杭だしなど太閤堤が当時の姿で水辺と合わせて再現されている。伏見城の移築城門(旧南門)がある平等院があるので合わせて巡りたい。

そのほか、伏見の酒蔵、幕末で有名な寺田屋、桓武天皇陵、伏見桃山御陵、乃木神社、大倉記念館等がある。城では淀城、淀古城がすぐ近く。京阪電鉄で行ける。

伏見城のおすすめ旅グルメ

このあたりは酒とラーメンが有名だ。伏見の近鉄高架下、駅前の店もうまいが、酒粕ラーメンを出す店もあるそうな。また、伏見の酒蔵は歩いてすぐ。飲めるところもあり。
[EE (1998.10.02)]

伏見城のアクセス・所在地

所在地

住所:京都府京都市伏見区桃山町大蔵45 [MAP] 県別一覧[京都府]

電話:075-602-0605(伏見桃山城運動公園)

※復興天守の伏見桃山城の内部には現在入ることができないが公園内から外観が見られる。

アクセス

鉄道利用

京阪・近鉄丹波橋駅、近鉄桃山御陵前駅から東へ徒歩15分で、復興天守のある伏見桃山城運動公園。

マイカー利用

名神道京都南ICから国道24号線で約15分、国道1号線横大路から外環状線経由で約10分。駐車場有り。

城ファンの気になるところ (9)

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    キャッスルランドが閉園し、その園内にあった「伏見桃山城」の天守には現在入ることができない。本来の天守があった場所は、現在、明治天皇の桃山御陵となっていますので入れません。なお、伏見城は「指月伏見城」「木幡山伏見城」「徳川伏見城」に時代別 に分類され建っていた場所も異なります。

    ( shirofan)

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    「伏見桃山城」という呼び名の「桃山」の由来は、1674(延宝2)年ごろから桃林が有名だったと言われ当時の花見コースとして、伏見山 →醍醐というのがあったそうです。1686(貞享3)年には、「伏見山」という呼び名で記録に登場するとのこと。「伏見桃山城の二十年(発行:伏見桃山城)」によりますと、「桃山」という名は、江戸時代に入って「古城山」と呼ばれる城址となっていたところに桃林が生じたことに由来するとしています。

    ( shirofan)

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    ちなみに「桃山時代」という呼び名も明治以降のもので「伏見桃山城」という現在の呼び名は、昭和39年に営業を開始した「株式会社 桃山城(近畿日本鉄道株式会社のグループ会社)」により打ち出された復興天守そのた施設に名付けたれたものです。

    ( shirofan)

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    伏見城下の現在の地図を見てほしい。「治部少丸」「百軒長屋」「駿河」「三河」「島津」「正宗」「江戸町」「伊賀」「本多上野」「片桐町」「東奉行町」「鍋島」「松平筑前」「筑前台町」「毛利長屋門東町」「長岡越中東町」「井伊掃部東町」「水野左近東町」「筒井伊賀東町」「福島太夫南町」「両替町」「御駕篭町」「南部町」「羽柴長吉東町」「弾正町」「周防町」「鷹匠町」「聚楽町」「鍛冶屋町」「土橋町」「肥後町」「影勝町」「毛利町」「治部町」「但馬町」「島津町」などなど。興味深い名前オンパレード。近年の研究で「正宗」が伊達政宗を指すなど明らかになってきているそうな。なんだか付近を歩いているだけでとても楽しくなる町。

    ( shirofan)

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    伏見城の復興天守は、取り壊されず平成19年に「伏見運動公園(仮名)」になり天守閣、門、庭園になるそう。

    ( 浅井)

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    復興の門、小天守、大天守とも綺麗なのだが、管理人もおらず放置されている状態。訪れる人も少ないようで、ゆっくり見てまわれます。丹波橋駅で駅員に「伏見城はどこですか?」と聞いたところ、「桃山城ですか?」と聞き返された。行かれる際は、「伏見桃山城」と聞いた方が良いかもしれません。駅から公園まで一切案内もなく真っ直ぐの道もないのでちょっとわかりにくいです。事前に地図等で調べた方が良いです。

    ( ポメ朗)

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    伏見城の南を守る外堀を宇治川とし、西側には濠川を連結した。木幡山伏見城の縄張図を見ると御船入というところがあるが、城と宇治川と繋がる舟入場だったらしい。JR奈良線沿いにその常夜灯のような石碑がある。

    ( shirofan)

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    2016年11月19日、福祉施設建設予定地で、長さ約14.5m、高さ2.8m、6段から7段に積まれた指月伏見城の石垣が発掘された。現地説明会は行われず保存のため埋め戻される。

    ( shirofan)

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    「キリシタン大名・高山右近ゆかりの伏見教会への小道」が月桂冠の駐車場の隅にある。高山右近の武家屋敷地と絵図で示されているがイエズス会の「伏見教会」の場所らしい。

    ( 左近)

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