淀城は木津川・桂川・宇治川が合流して淀川となる要衝に、江戸幕府が伏見城の代わりとして築いた城だ。城は水運の要地を押さえる立地に築かれ、本丸石垣や天守台、内堀などの構えを備えていた。現在は本丸石垣や天守台、水堀の一部が残り往時をしのばせる。周辺には秀吉時代の淀古城跡など関連史跡も点在する。このページでは淀城の歴史や見どころを紹介する。
写真:岡 泰行(城郭カメラマン)
淀城の歴史と見どころ
木津川、桂川、宇治川の三河川が合流して淀川となる。その要衝に江戸幕府が築いた城が淀城だ。現在、見られる本丸石垣や内堀は、この徳川時代の新しい淀城のもので、徳川の伏見城(木幡山伏見城)の代わりとして造られたものだ。城址には本丸石垣と天守台、水堀の一部が残る。
現地で案内してくださった方によると、淀城の天守は、豊臣秀長の大和郡山城の天守だった。豊臣秀長の大和郡山城の天守は、徳川家康によって、京都の二条城の天守として移築され、寛永元年(1624)、徳川家光が二条城の改修を行なった際に、淀城天守として、再び移築された。その後、宝暦6年(1756)、落雷で消失してしまったらしい。
淀城の撮影スポットと絶景
淀城の写真集
城郭カメラマンが撮影した「お城めぐりFAN LIBRARY」には、淀城の魅力を映す写真が並ぶ。事前に目にしておけば現地での発見が鮮やかになり、旅の余韻もいっそう深まる。淀城とあわせて訪ねたい史跡
秀吉の淀古城を忘れずに
秀吉時代の淀城は「淀古城」と呼ばれ、北にある妙教寺付近にあったとされている。木津川・桂川・宇治川が合流し、淀川となって大阪湾に流れる。この合流地点に淀古城は築かれた。当時の河川は、いわば自動車道のようなもので、大坂から京都へ河川を使って人や物資が運ばれた。淀は水上交通の中継地といったところだ(現在の河川の位置は当時のものではなく、その後、秀吉が伏見城に移るにあたり河川の改修が行われている)。
淀古城は、秀吉の側室、茶々が鶴松を出産した城で、以降、茶々は「淀の方」と呼ばれることになる。そのネーミングの由来となった城が淀古城だ。淀古城は遺構がなく、妙教寺境内にある石碑を見るほかない。淀古城は秀吉の伏見城(指月伏見城)の築城で廃城となる。もしかしたら、城の資材は、秀吉の淀古城→伏見城→淀城と、この地を行ったり来たりしたのかもしれない。
秀吉時代の淀城に思いを馳せるなら、是非、妙教寺を訪れてほしい。妙教寺は淀城から北へ徒歩600m(約8分)。道すがら納所会館にある「戊辰役戦場址石碑」も見ておこう。そのほか、「唐人雁木旧趾石碑」、「淀小橋旧址石碑」などもある。なお、妙教寺はいわゆる観光寺ではないので、突然行っても見られないかもいれない。拝観される際は、マナーを大切に(詳しい場所は上記Googleマップを参照)。
妙教寺と戊辰戦争
妙教寺は、徳川が築いた新しい淀城の守護として、秀吉の淀古城跡に建立された寺院。妙教寺の本堂は、戊辰戦争で幕府側の大砲を被弾しており、本堂東側の壁をつきやぶり、本堂内の柱も貫いた。妙教寺本堂東側の壁に、磨りガラスがはまっている箇所があるがそこが貫通した跡。境内には先の淀古城の石碑のほかに、榎本武揚の揮毫(きごう)による「戊辰之役東軍戦死者之碑」がある。
2022年3月、「鳥羽伏見の戦い」で、焼けた土や礎石などが、家老屋敷跡から発見されたと京都市埋蔵文化財研究所により発表された。幕府側が京街道沿いに火をかけ淀城の東曲輪や城下の一部が消失したことを裏付けるものなのだとか。
近郊の城
淀城の観光情報とアクセス
淀城:城ファンの知見と記録
淀城を訪ねた人たちが残してきた記録です。現地での発見や知見が寄せられ、城歩きの文化の中で育まれてきた経験がここに蓄積されています(全7件)。
淀城での発見を記録に残しませんか?
岡 泰行 | 城郭カメラマン [プロフィール]
1996年より日本各地の城郭を訪ね歩き、取材と撮影を続けている。「先人たちの知恵とおしゃれ心」をテーマに、四半世紀にわたり城のたたずまいと土地の風土を記録してきた。撮影を通して城郭に宿る美意識を見つめ、遺構や城下町の風景に残る歴史の息づかいを伝えている。作品は書籍、テレビ、新聞など多くのメディアで紹介され、城の美しさと文化を広く発信している。







公園内の淀城を示す石碑は、「淀城故址石碑」「淀城址石碑」の2本がある。そのほか、「淀小橋旧址石碑」など古い石碑が並ぶ。ちなみに淀小橋とは、宇治川に架けられた橋「淀小橋」のことで、新しい石碑はその橋があった府道124号線沿いに建っている。
淀城の石垣には多数の刻印石が見られる。近くの城なら伏見城とセットでどうぞ。
蚊が非常に多いので、夏場はしっかり対策する必要あり。
石垣の上に明治天皇の記念石碑ありま〜す。また、公園の中に神社があります。
公園には「小・中学生はあまり遅くまで公園にいないようにしましょう」といったような内容の立札がある。
淀君に所以のある淀城は現在のものより500mほど北の「納所」というところにあったらしい。京都競馬開催中は混むので気を付けよう。
今は公園となっている。江戸時代は春日局の子孫の稲葉氏が城主として入城していたらしい。石垣、水堀、天守台が残る。天守台は柵があり中は入れなかった。