二条城の歴史・見どころ

二条城の歴史

徳川家康が京都に築き、最後の将軍徳川慶喜が大政奉還の意思を表明した二条城。徳川政権の始まりから、その終幕までを見届けた城でもある。

関ヶ原の戦いの翌年、慶長6年(1601)には西日本の諸大名に築城が課され、慶長7年(1602)に工事が始まった。翌慶長8年(1603)2月、家康は完成した二条城へ伏見城から移っている。当初の城域は現在の二の丸を中心とする単郭方形で、北西隅には天守が建っていたと考えられる。慶長16年(1611)には家康と豊臣秀頼がここで会見し、大坂冬の陣・夏の陣に際しては軍議が開かれ、二条城から出陣した。

家康が築いた二条城を、現在につながる姿へ大きく変えたのが、後水尾天皇の行幸だった。寛永元年(1624)から徳川秀忠・家光による大規模な増改築が始まり、城域を西側へ拡張して本丸を新設。面積は約1.5倍となり、単郭方形から複郭式の城郭へ改められた。天守や本丸御殿、天皇を迎える行幸御殿なども造営され、寛永3年(1626)9月、後水尾天皇が二条城へ行幸した。天皇は中宮和子らと5日間滞在し、能や和歌などの催しが行われた。

その後、寛永11年(1634)の家光入城を最後に、将軍の二条城入城は長く途絶える。建物も次第に失われ、寛延3年(1750)には落雷によって五重の天守が焼失。天明8年(1788)の京都市中の大火では、本丸御殿をはじめ多くの建物が類焼した。

長い空白を経て、二条城が再び政治の表舞台となるのは幕末のこと。文久3年(1863)、14代将軍徳川家茂が入城し、慶応2年(1866)には徳川慶喜が城内で15代将軍職を継いだ。そして慶応3年(1867)10月13日、慶喜は二の丸御殿大広間に在京40藩の重臣を集め、大政奉還について意見を求める。翌14日に朝廷へ上表し、15日に勅許された。同年12月、慶喜は二条城を退いて大坂へ移り、徳川将軍家の京都における拠点としての役割も終わりを迎えた。

明治元年(1868)には城内に太政官代が置かれ、明治17年(1884)には皇室の離宮「二条離宮」となった。明治26年(1893)から翌年にかけて、京都御所の北にあった桂宮御殿の一部が本丸へ移築され、現在の本丸御殿が整えられた。大正4年(1915)には大正天皇即位の大典に伴う饗宴も催されている。昭和14年(1939)、二条離宮は京都市へ下賜され、翌昭和15年(1940)から一般公開された。

コラム:幕末の二条城と14代将軍・徳川家茂
寛永11年(1634)の徳川家光以来、将軍の入城が長く途絶えていた二条城。その約230年後となる文久3年(1863)、14代将軍徳川家茂が上洛し、二条城へ入城した。開国をめぐって幕府と朝廷の対立が深まるなか、家茂は京都御所へ参内し、孝明天皇から攘夷の勅命を受けている。家茂はその後も二条城へ入り、生涯に3度入城した。幕臣や有力大名も二条城を訪れ、長く政治の中心から離れていた二条城は、幕末に再び重要な政治の舞台となった。家茂は慶応2年(1866)、20歳で死去。その後、徳川慶喜が二条城で15代将軍となり、翌慶応3年(1867)の大政奉還へと時代が動いていく。

二条城の特徴と構造

二条城は京都市街の中央部、堀川の西側に位置する平城で、現在の城域は東西約600m、南北約400m、約27万5,000㎡に及ぶ。外周を水堀と石垣で囲み、その内側に二の丸を配し、中央西寄りに内堀で囲まれた方形の本丸を置く。慶長期には現在の二の丸を中心とする単郭方形だったが、寛永元年(1624)からの増改築によって西側へ拡張され、現在につながる複郭式の縄張りとなった。

外郭には東大手門、北大手門、西門、東南隅櫓、西南隅櫓などが残る。本丸への東側の動線には桃山門・鳴子門を配し、本丸櫓門は内枡形虎口を構成する。西側では南・北中仕切門が本丸西櫓門への通路を遮り、本丸西櫓門は外枡形虎口を構成していた。本丸南西には寛延3年(1750)に焼失した天守の天守台が残る。

発掘調査では、慶長期の城の西面に設けられた土塁内側の裾を保護した自然石の石垣や、寛永期の行幸御殿に関係する建物礎石、石列、石組溝などを地下遺構として確認。北大手門南側では慶長期の路面も見つかり、北大手門が増改築以前から同じ位置にあったことが確認されている。

二の丸御殿

二条城 二の丸御殿
寛永3年(1626)の後水尾天皇行幸に向けて整えられた二の丸御殿。遠侍、式台、大広間、蘇鉄の間、黒書院、白書院の6棟からなり、国内の城郭に残る唯一の御殿群として国宝に指定されている。書院造を代表する建築で、内部には狩野派による障壁画や彫刻、飾金具など華麗な装飾が残る。慶応3年(1867)には15代将軍徳川慶喜が大広間に在京諸藩の重臣を集め、大政奉還について意見を求めた。

本丸

二条城 天守台と本丸石垣
寛永3年(1626)の後水尾天皇行幸に向けた大規模な増改築で、家康時代の城域を西へ拡張して新たに設けられた。本丸には御殿や五重の天守が建てられたが、天守は寛延3年(1750)の落雷、本丸御殿は天明8年(1788)の大火で焼失した。現在の本丸御殿は、明治26年(1893)から翌年にかけて旧桂宮御殿の一部を移築したもの。天守台をはじめ、本丸櫓門の内枡形虎口や、本丸西門に設けられた外枡形虎口など、寛永期に整えられた本丸の構えが残る。

コラム:二条城天守は大和郡山城から淀城へ?
家康が築いた慶長期の二条城には、城の北西隅に初代天守が建っていた。この天守は、豊臣秀長の大和郡山城から移築されたとする説が有力で、5層の屋根を持つ天守だった。寛永期の大改修に伴って解体され、さらに淀城へ移築されたと伝わる。寛永3年(1626)の後水尾天皇行幸に向けた大改修では、新たに設けられた本丸南西隅に二代目天守が建てられた。こちらは元和9年(1623)に廃城となった伏見城から移築されたものと考えられている。後水尾天皇も行幸の際に2度天守へ上り、眺望を楽しんだという。二代目天守は寛延3年(1750)の落雷で焼失し、現在は本丸南西隅に天守台が残っている。

東南隅櫓・西南隅櫓

二条城 東南隅櫓
二の丸を囲む外堀の東南隅と西南隅に建つ二重櫓。かつて外周の四隅には隅櫓が建てられていたが、天明8年(1788)の大火で北側の2棟が焼失し、現在は東南隅櫓と西南隅櫓の2棟が残る。二条城に現存する数少ない櫓建築で、ともに重要文化財に指定されている。

東大手門

二条城 東大手門
二条城東側の正門。現在の門は寛文2年(1662)に建てられた二階建ての櫓門で、内部には部屋や武者走りを備える。東大手門そのものは慶長8年(1603)の築城時からこの位置に設けられていたが、寛永3年(1626)の後水尾天皇行幸の際には、天皇を二階から見下ろすことを避けるため、一重の門に建て替えられていたと考えられている。外郭にはこのほか北大手門、西門が残り、南門は大正4年(1915)の大正天皇即位の大典に際して新設された。

唐門

二条城 唐門
二の丸御殿の正門となる四脚門。檜皮葺の屋根に唐破風を備え、欄間には長寿を象徴する松竹梅に鶴、唐獅子などの彫刻が施されている。極彩色の彫刻と飾金具が華やかに門を彩り、寛永期の二条城を象徴する建築のひとつ。重要文化財に指定されている。

二の丸庭園

二条城 二の丸庭園
二の丸御殿の大広間西側に広がる書院造庭園。池の中央に蓬莱島、左右に鶴亀の島を配し、池の周囲には大小の石を用いた豪壮な石組が見られる。寛永3年(1626)の後水尾天皇行幸に際して改修され、小堀遠州らが作事奉行を務めた。当時は大広間や黒書院、現在は失われた行幸御殿など複数の方向から鑑賞できるよう工夫されていた。江戸時代初期を代表する庭園として国の特別名勝に指定されている。

西門

二条城 西門寛永3年(1626)頃に建てられ、江戸時代には二条城の通用門として使われた西門。天明8年(1788)の大火で周辺の櫓門などが焼失し、明治以降には外堀に架かっていた木橋も失われ、現在は西門のみが残る。門の上に土塀が通り、石垣に囲まれることから埋門と呼ばれる一方、屋根の形式は高麗門となっている。かつては西門を突破しても正面に櫓門があり、その二階や石垣上から攻撃できる構造だった。

西門の武士の落書き
西門の特別公開時には、城内側の部材に残された落書きを間近で見ることができた。門番によるものと考えられる彫り物が数多く残されている。
西門の武士の落書き・武士の顔
西門の部材に彫られた珍しい武士の顔。顔の半分ほどが欠損している。
西門の武士の落書き・帆掛け船
西門の部材には帆掛け船をはじめ、キツネや矢尻、「文久二年」の文字など多彩な彫り物が残る。

特別公開時には、西門北側の部材に残された門番たちの落書きも見ることができた。キツネや鳥、帆を張った船、矢尻、「文久二年」の文字、家紋など、その内容は実に多彩。枡形内には、おそらくはメンテナンス用途の石材が置かれている様子も見ることができた。

二条城の現存建築

二条城には二の丸御殿をはじめ、門や櫓、土蔵など多くの歴史的建造物が現存する。二の丸御殿6棟は国宝、東大手門や隅櫓などの建造物は重要文化財に指定されている。

国宝・二の丸御殿

  • 遠侍及び車寄
  • 式台
  • 大広間
  • 蘇鉄之間
  • 黒書院
  • 白書院

門・櫓(重要文化財)

  • 東大手門
  • 北大手門
  • 西門
  • 唐門
  • 本丸櫓門
  • 桃山門
  • 鳴子門
  • 北中仕切門
  • 南中仕切門
  • 東南隅櫓
  • 西南隅櫓

土蔵・その他

  • 二の丸御殿台所(重要文化財)
  • 二の丸御殿御清所(重要文化財)
  • 土蔵(米蔵)(重要文化財)
  • 土蔵(北)(米蔵)(重要文化財)
  • 土蔵(南)(米蔵)(重要文化財)
  • 番所

移築建築・本丸御殿(重要文化財)
現在の本丸御殿は、明治26年(1893)から翌年にかけて京都御所の北にあった桂宮御殿の一部を移築したもの。玄関、御書院、御常御殿、台所及び雁之間からなる。

二条城の整備状況

二条城は敷地全体が国史跡に指定され、二の丸御殿6棟は国宝、東大手門や隅櫓、本丸御殿など22棟の建造物は重要文化財、二の丸庭園は特別名勝となっている。平成6年(1994)には世界文化遺産に登録された。平成23年(2011)から本格修理事業が進められ、本丸御殿は令和6年(2024)3月末に本格修理を完了し、同年9月1日から18年ぶりに一般公開を再開した。さらに京都市は令和8年(2026)2月に『元離宮二条城二之丸御殿保存修理計画』を策定。二之丸御殿を対象とする第3期事業として、保存修理や耐震補強、工事計画、公開活用などの方針をまとめ、保存整備を進めている。

参考文献:

  • 『日本城郭大系11』(新人物往来社)
  • 『探訪ブックス 日本の城5』(小学館)
  • 『世界遺産 二条城公式ガイドブック』(京都市文化市民局 元離宮二条城事務所 2019)
  • 京都市文化財ブックス第31集『天下人の城』(京都市文化市民局文化芸術都市推進室文化財保護課)
  • 「世界遺産 元離宮二条城」(京都市)
  • 『元離宮二条城二之丸御殿保存修理計画』(京都市)

二条城のおすすめ散策コース(順路)

二条城は東大手門から入城する。城内では唐門から二の丸御殿を見学し、その後は本丸へ進んで本丸御殿や天守台まで巡りたい。二の丸御殿だけで満足してしまいがちだが、天守台からは本丸や二の丸を見渡すことができ、二条城の縄張りを実感できる。

時間に余裕があれば、城内を見学したあとに外堀を一周するのもおすすめ。距離は約1.9km、徒歩20〜30分ほど。城内とは違った角度から石垣や堀を眺めながら、西南隅櫓や西門などを外側から見ることができる。

二条城をより深く学ぶ展示・資料館・学習スポット

京都大学貴重資料デジタルアーカイブ

「京都大学貴重資料デジタルアーカイブ:二条城関係資料」では、京都大学附属図書館が所蔵する中井家絵図のうち、二条城に関する249点をWeb上で公開している。寛永3年(1626)の後水尾天皇行幸に向けた増改築に関係する図面などが含まれ、二条城の建物や縄張りを詳しく知ることができる。

『世界遺産二条城』

令和2年(2020)1月発行、元離宮二条城事務所、A4判・64ページ+別冊16ページ。世界文化遺産登録25周年を記念して発行された二条城の公式ガイドブック。二条城の歴史や建築、障壁画、庭園などを紹介しており、二条城を総合的に知るための一冊。

『天下人の城』

京都市文化財ブックス第31集。平成29年(2017)4月1日発行、京都市文化市民局文化芸術都市推進室文化財保護課、A4判・カラー114ページ。二条城をはじめ、旧二条城、聚楽第、伏見城など、京都に築かれた「天下人の城」を発掘調査の成果や絵図などから紹介している。二条城だけでなく、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康による京都の城郭の変遷を知るうえでも役立つ。

二条城の撮影スポット・絶景ポイント

この城は朝イチの城だ。メインゲートとなる東大手門は、人が少ない開門直後に撮影したい。唐門と二の丸御殿も二条城を代表する撮影スポットなので、そのまま早い時間に巡るのがおすすめ。特に唐門は人の往来が多く、落ち着いて撮影するなら朝一番が狙い目となる。

一方、水堀越しに望む東南隅櫓は開門前に撮影したい。右手に東大手門を入れると、櫓、石垣、水堀、東大手門が一枚に収まり、二条城らしい城郭景観になる。開門後は東大手門へ向かう人が橋を渡るため、人がいない風景を狙うなら開門前が理想だ。

白漆喰の櫓や門は、太陽を浴びて青空の下で白く輝く姿を狙いたい。白漆喰や石垣といった和の城郭建築を、青空との強いコントラストを生かして切り取るのも面白い。

二条城の写真(城写真ARCHIVE)

城郭カメラマン 岡 泰行が30年にわたり撮影・記録してきた「城写真ARCHIVE」では、二条城の魅力を写した写真を公開している。訪問前の見どころ探しや、旅の余韻を振り返る際にも役立つ。

二条城周辺の観光スポット・史跡めぐり

二条城の周辺には、堀川沿いに残る二条城の石垣や刻印石をはじめ、室町幕府から織田信長、豊臣秀吉、徳川家康へと続く、それぞれの時代の城館跡や史跡が点在する。二条城を起点に歩けば、京都を舞台に移り変わった政治の中心と、歴代の城の足跡をたどることができる。

堀川沿いから見る二条城の石垣と刻印石

堀川に残る二条城石垣二条城の東側、堀川沿いには慶長8年(1603)頃の築城に伴って築かれた石垣が残り、二条城とともに国史跡に指定されている。二条橋の北側には「是ヨリ北紀州」と読める銘文が刻まれた石があり、紀伊国を治めた浅野家が北側の石垣普請を担当したと考えられている。

二条城の文字刻印「是ヨリ北紀州」
二条城の文字刻印「是ヨリ北紀州」。文字刻印は画像処理で透明度70%の白で記している。

このほか21箇所の刻印が確認されており、工事を担当した大名が石材の分散や紛失を防ぐため、目印として刻んだものと考えられている。刻印は夷川橋の北から二条橋の南にかけて見られ、「七」「六」などの文字やさまざまな記号が残る。堀川は河床へ下りることができ、石垣を間近から観察できるのも魅力。石の隙間を覗き込まなければ見つけにくい刻印もあるので、河床を歩きながら探してみたい。

旧二条城跡

旧二条城跡石碑永禄12年(1569)、織田信長が15代将軍足利義昭のために築いた城。現在は城郭そのものを地表で見ることはできないが、城跡を示す石碑が建ち、発掘調査では石垣などが確認されている。京都御苑や京都市洛西竹林公園などでは、旧二条城に関係する石垣や転用石を見ることができる。詳しくは旧二条城で紹介。

妙顕寺城跡

妙顕寺城跡(石碑)天正11年(1583)頃、豊臣秀吉が京都における拠点として築いた城館。現在の二条城から東へ徒歩9分で、城跡には石碑が建つ。秀吉はのちに聚楽第へ京都の拠点を移した。詳しくは妙顕寺城で紹介。

聚楽第跡

聚楽第跡天正15年(1587)、豊臣秀吉が京都に築いた大規模な城郭・政庁。現在の二条城から北へ徒歩圏内に位置し、城跡周辺には石碑や案内板などが点在する。二条城とあわせて訪ねると、豊臣秀吉と徳川家康、それぞれが京都に築いた政治拠点をたどることができる。詳しくは聚楽第で紹介。

本能寺跡

本能寺跡天正10年(1582)の本能寺の変で、織田信長が明智光秀の軍勢に襲われた当時の本能寺跡。現在の本能寺とは場所が異なり、旧境内周辺には本能寺跡を示す石碑が2本建つ。

二條陣屋

二條陣屋二条城の南に残る江戸時代の町家。豪商・小川家の屋敷として知られ、建物には意匠を凝らした座敷や防火・防衛を意識した工夫が見られる。国の重要文化財に指定されており、二条城とあわせて近世京都の建築を訪ねるスポットとして興味深い。二条城から南へ徒歩6分。

二条城周辺ホテル・宿泊情報

二条城の東大手門を正面に望む「ANAクラウンプラザホテル京都」は、堀川通を挟んですぐの場所にあり、二条城を中心に巡る旅には便利な立地。少し上質な滞在を楽しみたい人にも選択肢となる。

京都市内にはホテルや旅館が数多く、二条城周辺はもちろん、地下鉄東西線沿線や京都駅周辺まで少し範囲を広げれば、予算や旅のスタイルに合わせて選びやすい。二条城をはじめ京都市内の城館跡や史跡を巡るなら、地下鉄やバスで移動しやすい場所を拠点にするのもおすすめ。桜や紅葉の時期をはじめ観光シーズンは混み合うため、日程が決まれば早めに宿を確保しておきたい。

二条城アクセス・駐車場・営業時間

所在地

住所:京都市中京区二条通堀川西入二条城町541 [地図を見る]

県別一覧:[京都府の城]

電話:075-841-0096(元離宮二条城事務所)

開館情報

開城時間は8時45分〜16時(閉城17時)。二の丸御殿の観覧受付は8時45分〜16時10分、本丸御殿の観覧受付は9時30分〜16時。本丸御殿は事前予約制。

休城日は12月29日〜31日。二の丸御殿は1月・7月・8月・12月の毎週火曜日、12月26日〜28日、1月1日〜3日は観覧休止。火曜日が休日の場合は観覧でき、翌日が観覧休止となる。本丸御殿は毎月第3月曜日とその翌日、12月26日〜28日、1月1日〜3日は観覧休止。第3月曜日またはその翌日が休日の場合は観覧できる。

入城料は一般800円、中高生400円、小学生300円。二の丸御殿観覧を含む場合は一般1,300円、中高生400円、小学生300円。本丸御殿は別途観覧料が必要で、一般1,000円、中高生300円、小学生200円。

アクセス

鉄道利用

京都市営地下鉄東西線「二条城前駅」下車、徒歩すぐ。

JR「京都駅」からは京都市営地下鉄烏丸線に乗車し、「烏丸御池駅」で東西線に乗り換え、「二条城前駅」下車。または京都駅前から京都市バス9・50号系統で「二条城前」下車。

マイカー利用

名神高速道路「京都南IC」から約30分。元離宮二条城第1駐車場(二条城東側・乗用車120台)、第3駐車場(二条城南側・乗用車20台)あり。入庫8時15分〜16時、出庫18時まで。

地図