大阪城の見どころと特別公開ガイド

大阪城天守閣
大阪城天守閣は、固有名詞でそういう名の博物館だ。大阪人にとってはこの天守のデザインは馴染み深く、また、絵的な要素として捉えたときに、実に桃山時代らしさが香る。長年見ているとつくづくよくできているデザインだと感じる。全体のバランスもさることながら、特に屋根や破風に取って付けたような印象が無く、心地良いリアルなカーブを描いている。姫路城と同様に大阪城もその姿をこよなく愛する写真家が多い。

天守台

天守台は徳川大坂城のものだ。石垣普請の担当を記載した『大坂城普請丁場割図』には、加藤肥後守(加藤忠広)の名のみ記載がある。本丸の普請は、徳川幕府の命で諸大名から献上された規格化された石を使い寛永元年2月1日から着工された。石材は花崗岩で横目地を通した積み方がなされている。『新修大阪市史』第三巻(大阪市)によると、天守台は、大村家、毛利家に残されていた石垣構築の注意書き(覚書)等、また、池田忠雄、毛利高政、加藤泰興、毛利秀就らの刻印石が見つかっていることから、元和8年から加藤忠広が単独で築いたものではないことが明らかになっている。
大阪城天守台

大坂夏の陣図屏風を参考に最新の建築工法で再建

昭和天皇即位の御大礼の記念事業で、天守再建を含む大阪城公園化計画がもと。資金は大阪市民の寄附金で賄われた。78,250件の寄附が集まり目標額の150万円を達成、そのうち約80万円を投じて第4師団司令部庁舎(現在のミライザ大阪城)が建設され、3分の1の48万円で大阪城天守閣が建てられた。残りは公園化のため、園路の整備や日本庭園など城内の他の場所に使われたという。

設計は、大阪市の土木部建築課長だった波江悌夫氏と、古典建築に造詣を持つ古川重春氏。その内容についてどういう設計にすべきか激しく議論を交わしたことが、古川重春氏の著書『錦城復興記』(ナニワ書院)には書かれている。また、古川重春氏の著書『日本城郭考』(名著出版)には大阪城天守の天正創建時の外容の復元図があり、これが現在の大阪城天守閣のデザインと、最上階が小さく見える印象や、窓のかたち、下見板張りなどが異なり、まるで安土城の復元図を見ている感覚を受け興味深い。古川重春氏は松下幸之助邸の設計も行っている。この2冊は昭和初期の書籍だけあって、その文書が現代と異なり読むのに苦労した。

建設は大林組が入札で請け負った。昭和5年5月6日、地鎮祭の後、着工された。当時、耐火・耐久性の優れた鉄骨鉄筋コンクリート造りで画期的な大工事となったが、昭和6年11月7日に竣工、わずか1年半で完成した。途中、昭和6年3月22日、附帯工事にあたる第4師団司令部庁舎が先に竣工している。

大阪城天守閣の高さは、地表より石垣天まで13.3m、建物の高さは41.5m 総高54.8mで、豊臣大坂城天守40m弱、徳川大坂城天守58.3mと、高さは徳川期に近くなった。建物の総重量は約11,000トン、独立式で望楼型5層8重の地上8階建となる。

寛永3年(1626)創建の徳川天守が落雷で焼け落ちて後、266年ぶりの再建となった。当初は郷土歴史館として運営を開始、大阪は天守が再建されたことで祝賀ムードとなり、百貨店がセールを行うほどだったらしい。また、昭和7年11月、昭和31年10月の二度、昭和天皇が天守閣に御登閣されている。

天守台石垣から13cm浮いている

会津若松城の再建天守は、天守を支える柱は地中の岩盤まで通し天守が蒲生時代の天守台石垣に負担をかけていない。では、大阪城天守閣はどうかというと、天守台地盤中央部をその上端から7.58m掘り下げ、まず鉄筋コンクリート造の基礎が構築されている。そこに鉄柱を建て、吊り下げ工法で築造された。これにより天守閣は石垣の天端石(石垣の最上部の石)より浮いていて石垣に負担をかけていない。これは『錦城復興記』(ナニワ書院)に書かれている。さらに、土木史研究論文『昭和の大阪城復興天守閣の基礎構造について』によると、約13cm浮いているとされている。

復興天守では日本第1号

戦前に再建された復興天守や模擬天守は以下の通り。現存している再建天守では、復興天守では大阪城が第1号、模擬天守では洲本城が第1号となる。

  • 岐阜城(1910年再建〜1943年焼失)模擬天守・その後再建され現在の姿に
  • 洲本城(1929年再建〜現存)模擬天守
  • 羽衣石城(1931年再建〜1990年建て替え)
  • 大阪城(1931年再建〜現存)復興天守
  • 郡上八幡城(1933年再建〜現存)模擬天守
  • 伊賀上野城(1935年再建〜現存)模擬天守

大阪城天守閣の外観

その外観は、ひと言で言うと、徳川時代の天守台に豊臣時代の天守を模したデザインで造られた。豊臣時代の天守は『大坂夏の陣図屏風』が参考にされ、その中から再現した要素として、最上階屋根の唐破風、伏虎や舞鶴、千鳥破風が挙げられる(下写真)。唐破風は、設計者の古川重治氏が、「破風の中で唐破風は心臓」と建築設計上、重視していたそうだ。舞鶴は漆絵で伏虎は銅板で造られている。

大阪城天守閣最上階の唐破風、伏虎や舞鶴
天守4層までは白亜の城をイメージし白色のセメントで塗られている。屋根は瓦本葺、屋根を飾る装飾は、青銅鋳造、銅板打ち出し、金箔貼りなどが使われている。床や柱は、昭和35年に人造の石研出しの仕上げに変更されている。天守上部の伏虎は、秀吉の絵師として活躍した狩野山楽の伏虎図をもとに、下描きが起こされ鋳刻家の大国壽郎氏が原型を制作した。

大阪城天守閣

第二次大戦の傷跡

大阪城天守閣は戦争中、城域に軍事施設が多数あったため、外部に面した窓がすべて鎧戸式の目隠しをされていたそうだ。天守に入っても外が見えない状態だったらしい。空襲の記録は、各階の屋根は焼夷弾を受けたが、鉄筋コンクリート造なので燃えなかったという。また、天守台南西角に1トン爆弾の直撃を受けた(幸い、天守そのものへの爆弾の直撃は無かった)。その修復された痕跡が確認できる。鯱はアメリカ軍戦闘機パイロットの標的となり、機銃掃射が行われた。その鯱の掃射痕が大阪城天守閣内に残されている。筆者の祖父は、淡路町に住んでいたが、焼け野原になった大阪で天守閣が焼け残っていたことを話していたことがある。

天守台石垣の爆撃被害跡
天守台北壁から東壁にかけてみられる昭和20年の空爆による石垣のずれ。爆弾が天守台の北数メートルに落ちた。昭和39年には、ひずみの侵攻を止める工事が行われたそうだ。

天守台西南角の爆撃被害跡
天守台西南角にも爆撃被害があった。石が新しく見える箇所がそうで、石の板で修復されている。

平成の大改修

これは記憶に新しいのだが、それまで経年劣化で薄汚れた天守が、一気に鮮やかな姿を取り戻し輝いていたのを覚えている。平成の大改修は平成7年12月6日着工、同9年3月29日竣工している。建物の老朽化を防ぎ、耐震性を高めることが主な目的だ。耐震は当初、震度5に耐えることを目的としたが、平成7年(1995)1月17日の阪神淡路大震災を受け、震度7にも耐えうるよう設計を変更した。1階から5階までの主要な柱に耐震工事が施され、コンクリート中の鉄筋・鉄骨の防腐対策が施されている。

外装では、屋根は防水加工後、昭和6年創建時の材を一部生かしながら銅瓦が葺き直され(その枚数は約55,000枚に登るらしい)、最上階の高欄が黒色のステンレス製に変更された。また、天守閣内にエレベーターは2基あるが、このうち1基は8階まで延長された。

平成の大改修以降、ライトアップは現在のかたちとなり、それ以降、変わっていない。

平成9年9月3日、大阪城天守閣は登録有形文化財に指定されている。

常設展示も新しく

大阪城天守閣は博物館だ。学芸員も常駐し重要文化財を含む約8,000点の収蔵品がある。展示内容は平成の大改修以降、一新された。大阪城と秀吉に関する収蔵品を展示しており、解りやすく興味をひく展示手法がとられている。

大阪城紀州御殿の庭園
昭和6年(1931)の大阪城天守閣復興に合わせ、紀州御殿の庭園として整備された日本庭園。

大阪城の天守は3代目

秀吉の初代天守が、天正13年(1585)〜慶長20年(1615)までの30年間、徳川秀忠が再建した二代目の天守が寛永3年(1626)〜寛文5年(1665)までの39年間、現代の天守が昭和6年(1931)から時を刻み令和2年(2020)には89年となり、歴史上、最も永く歴史を刻む天守となる。

(文・写真=岡 泰行)

参考文献:
『錦城復興記』(ナニワ書院)
『日本城郭考』(名著出版)
『新修大阪市史』第三巻(大阪市)
『大阪城天守閣復興三十年史』(大阪城天守閣記念事業実行委員会)
『大阪城天守閣復興80周年記念特別展 天守閣復興』(大阪城天守閣)
『蘇った大阪城』(大阪城天守閣)
土木史研究論文『昭和の大阪城復興天守閣の基礎構造について』
『建築と社会』昭和6年11月号(一般社団法人 日本建築協会)
『建築と社会』昭和7年7月号(一般社団法人 日本建築協会)

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