写真:岡 泰行
亀山城(亀岡城)の歴史と見どころ
亀山城跡の主要部の見どころは次の6箇所。
- 内堀跡(万祥殿南側の窪み)
- 刻印石(万祥殿前の石垣)
- 本丸入口(当時も本丸入口)
- 井筒(本丸に置かれた井戸枠)
- 天守台石垣(当時の石垣は天守台下部)
- 南郷池(北側の堀・宗教法人大本の外)
現地でGETできる資料
城のポイントも記載された境内マップ『大本と丹波亀山城』を、大本本部のみろく会館の受付でもらうことができる。また、同館2階で、亀山城の資料パネル展示や模型があり、現存の櫓の鯱を見ることができる。また、有料版の冊子『丹波亀山城と大本』(全12P)は、明智光秀から現代の大本まで亀山城址の辿った歴史が記載されている。
または、亀岡駅前にある「亀岡市文化資料館」には天守閣の写真や模型があり、足利尊氏や明智光秀の天下奪取の口火を切る書状や、太閤の朱印状があるらしい。
亀山城(亀岡城)の散策コース
宗教法人大本の敷地内にあり、宗教法人大本本部の「みろく会館」で受付を行い登城する。
2020年2月4日から拝観料が300円と有料化された。詳しくは、下記サイトでご確認を。時間は午前9時30分〜午後4時00分(受付15時30まで)
亀山城(亀岡城)の関連史跡
移築城門、旧亀山城内新御殿門
千代川小学校に新御殿門が移築されている(亀岡市指定文化財)。現在はその正門として活用するようになったが、移築当初は、生徒は通ることが許されず、先生も特別な日だけ羽織袴で正装し門をくぐったそうだ。門脇には石碑が建つが、ふと見下ろすと、石碑の下に石が置かれている。碑には「旧亀山城新御殿門遺跡」と刻まれているのだが、最後の二文字「遺跡」がそのせいで見えない。
小学校の裏手にお住まいのM氏が門をここに移築し、その曽孫さんの書で平成24年に石碑を建てた。ところが「遺跡」ではちょっと意味が変わってしまうので(「遺構」とすべきだったかもと)、その二文字の高さの石を石碑の前に添えて隠しているそうだ。新御殿門は現在、学童保育として内部が両側とも利用されている。門扉は一枚板が使用されているが残念ながら真ん中で割れが生じている。修復するにも同サイズの巨木が無い。巨大な一枚板の門扉を眺めていると、当時の亀山城がどれだけ威厳があった城かを垣間見られたような気がした。石碑前の石も郷土の誇りが香るそのままの状態で良かったようにもふと感じた。
余談ながら、移築城門を見ようと亀山城からここ千代川までの道のりで「並河」という駅がある。京都のSさんによると、山崎の合戦の布陣図を見ると、光秀方に並河易家という武将がいて並河城址もあるとのこと、それが駅名の由来らしい。京都から見た場合、丹波方面の入口ともいうべきここ亀山で、並河氏は光秀の案内役を度々務めた。山崎の合戦を機に、その子は、加藤清正の家老になったのだとか。
その他の移築城門等
新御殿玄関(保津第五区会議所)
※亀岡市指定文化財
延福寺表門(移築城門)
桂林寺山門(移築城門)
大本毘沙門荘表門(家老屋敷長屋門の移築)
文覚寺表門(移築城門)
元ダイハツ(移築城門)
大覚寺(明智門)
大覚寺(明智陣屋)
そのほか、曽我部町の個人宅にある移築城門や数々の長屋門が城下にありますがは掲載を差し控えます。
亀山城の外堀・惣構跡
徒歩散策が良い距離感です(下記詳しい場所はGoogleマップでチェック)。
- 外堀跡(古世親水公園)
- 天満宮(奥に土塁有り)
- 宗福寺(奥に土塁有り)
- 嶺樹院(マツモト裏から土塁が見やすい)
- 宗堅寺(奥に土塁有り)
- 聖隣寺(惣構跡・山門に鉄砲狭間・信長の供養塔有り)
- 坂部公園(奥に土塁有り)
- 惣構跡(マツモト前)
本能寺の変・行軍関連の歴史スポット
明智光秀の3ルート、明智超、老ノ坂、唐櫃越は、登山道が通行可能かまた各ルートを自治体等にご確認ください(下記詳しい場所はGoogleマップでチェック)。
- 愛宕山
愛宕神社(元愛宕)連歌会はこちらでという説があるらしい。元愛宕とは全国の愛宕神社の元。 - 篠村八幡宮(足利尊氏の六波羅攻め出陣場所・本能寺の変の勢揃い場所説あり・旗立楊が北側に)
- 明智超(簾戸口・登山口)
- 唐櫃越(登山口)
- 老ノ坂(是より東 山城国 道標)
- 老ノ坂(首塚大明神)
- 金蔵寺(将軍地蔵)
- 昆陽山地蔵院(京に入ってからの結集点と言われ当時はもっと北の方にあった)
- 清瀧山谷性寺(光秀の首塚)
- 明智の戻り岩
- 獨鈷抛山千手寺(丹波平定時の拠点)
- 本能寺跡石碑
- 勝龍寺城
- 明智光秀本陣跡(恵解山古墳)
- 山崎合戦古戦場石碑
- 明智藪石碑
- 明智光秀胴塚
- 明智光秀首塚
本能寺の変明智光秀出陣の城。京都の西に位置する。毎年5月3日には、光秀祭りが催される。
( Kuririn)さんより
本丸跡は「大本教」本殿の裏にあり、境内(要お祓い)の左側面から廻る。
( 飄々探信)さんより
今の石垣は大本教信徒が、明智光秀祭忌のため戦前に造ったそうです。本丸の石垣西には、戦時中の宗教弾圧で犠牲になった首なし僧像が安置。
( 飄々探信)さんより
明智光秀の普請した本丸石垣などは、今はほとんど残っていないそう。関ヶ原後、藤堂高虎がじつは愛媛今治城に用意した建材をここに普請す。天守閣は五層もあり、しかも破風が一つだけ珍しい形で櫓が付属した。天守台の石垣は、なんと明治中期にJR山陰線の枕木用に売られていた。
( 飄々探信)さんより
見どころは何と言っても巨大にして壮麗な石垣です。本丸跡は宗教団体の管理地のため立ち入りには許可が必要です。
( NSカトー)さんより
明智光秀築城。その後、羽柴秀勝城主時にはお江も城主夫人として入城。
( NSカトー)さんより