亀山城の歴史・見どころ

丹波亀山城は、天正5年(1577)から同7年(1579)にかけて明智光秀によって築かれた城で、丹波平定の軍事拠点として整備された。もとは中世の亀山砦を基盤とし、荒塚山の小丘陵を切り開いて大規模な城郭へと発展したと伝わる。光秀は天正3年(1575)に織田信長の命を受けて丹波攻略に着手したが、波多野氏の反撃などにより戦況は難航した。このため再侵攻に備え、桂川右岸の微高地に位置する亀山の地に拠点を求め、城と城下町の整備を進めた。

城の構築は急を要するもので、周辺の寺社から資材を集め、多数の工匠と人夫を動員して短期間で完成させたと記される。築城後、光秀は近郷の村々を城下に集め、商工業者を招いて城下町を整備し、政治・軍事の中心地として機能させた。こうした一連の整備は、丹波における領国支配の確立と深く結びついていた。

天正10年(1582)5月、明智光秀は坂本城から亀山城へ入った。同26日には中国方面に展開していた羽柴秀吉への対応を名目として軍勢を整え、同27日には愛宕山へ参詣し、28日には西坊にて連歌の会を催した。さらに同年6月1日午後10時頃、光秀は約一万五千の兵を率いて亀山城を出発し、明智越・老ノ坂越などの経路を越えて京都へ進軍した。翌2日未明、京都で本能寺の変が起こるに至る。

その後、文禄2年(1593)に小早川秀秋が入部し、慶長年間には城代支配を経て岡部長盛が城主となり、本格的な近世城郭としての整備が進められた。外堀や諸門、櫓の整備は慶長14年(1609)から元和7年(1621)にかけて完成したとされる。また、天守については諸説あるが、藤堂高虎が関与し、慶長15年(1610)に今治城の天守を移したとする記録も伝わる。

江戸時代には城主の交代を重ねながら藩政の中心として機能し、城下町とともに発展した。しかし明治維新後、明治6年(1873)の廃城令を経て、明治10年(1877)には天守が解体され、城郭の多くは失われた。城地はその後荒廃し、石垣や建物は払い下げによって各地へ移された。また、石垣や材の多くが山陰鉄道(現・JR山陰本線)の建設資材として利用された。

亀山城の特徴と構造

亀山城は標高約114m、比高約23.1mの丘陵上に築かれた平山城で、亀岡盆地を流れる桂川右岸に位置する。縄張は梯郭式で、本丸・二の丸・三の丸を中心とし内堀を巡らせ、その外側に外堀、さらに城下町を含む惣構を備えた三重構造が特徴だ。

本丸には石垣が築かれ、天守台が設けられていた。周囲には櫓や門が配置され、大手門・古世門・雷門など複数の出入口が整備されていた。内堀・外堀に加え、城下町を囲む惣堀は幅約10m、総延長約3km弱に及び、土塁とともに防御線を形成していた。惣構は町屋や寺社までを包含する広範囲なもので、戦国末期から近世初頭の緊張した情勢を反映した構造といえる。なお、この惣堀は慶長7年(1602)に城代(代官)の北条氏勝によって造営され、罪人に掘らせたことから「科怠堀(とがめほり)」とも呼ばれる。

また、この地は扇状地上にあり伏流水が豊富で、城内外に湧水が多く存在した。これらは生活用水として利用されるとともに、城下町の発展を支える基盤となった。

天守台石垣

亀山城天守台石垣
天守台周辺に見られる石垣のうち、下1/3は当時の石垣とされている。近代以降の復元を経ながらも、往時の構造をとどめる部分だ。

本丸門跡

亀山城本丸門跡
現在の門は本丸への出入口にあたり、当時も同位置に城門が設けられていたと考えられている。城内の要所となる地点だ。

刻印石

亀山城の刻印石
万祥殿前の石垣には刻印石が見られる。石材の運搬や普請に関わった集団を示すものとされる。

内堀跡

亀山城内堀跡
万祥殿南側に残る窪地は、かつての内堀の痕跡とされる。城の防御構造を今に伝える。

南郷池

亀山城南郷池
南郷池は亀山城北側の堀とされる。

亀山城の整備状況

明治期の廃城処分により、亀山城は大きく姿を失った。明治10年(1877)には天守が解体され、石垣や建物の多くが払い下げられて各地へ移され、城址は荒廃していった。その後、石垣は崩され、樹木が生い茂る丘のような状態となり、往時の城郭の姿はほとんど確認できない状況に至っていた。

大きな転機となったのが、大正8年(1919)、城址が大本により取得されたことである。指導者である出口王仁三郎は、荒廃した城址の再興を志し、自ら現地に立って整備を指揮した。大正9年(1920)には「山開式」が行われ、本格的な整備が開始される。この時点で城址は完全に山林化しており、まず地形の整地が進められた。

整備は、単なる造成ではなく、旧城郭の復元を意識したものであった。地中に埋もれていた石材を掘り起こし、それらを用いて石垣を積み直す作業が進められた。作業を進める中で、想定以上の石材が出土し、旧来の石垣が広範囲に埋没していたことが明らかとなる。急斜面は削平され、天守台周辺を中心に三段の平地が造成され、旧城郭の空間構成を意識した整備が進められた。旧天守の西側や大銀杏周辺にも石垣が築かれ、荒廃した城址に往時の輪郭が再び形づくられていった。

こうした復元的整備は大正末から昭和初期にかけて進み、昭和2〜3年(1927〜1928)頃には天守台周辺から銀杏台に至る範囲で石垣の再構成が整ったとされる。しかし、昭和10年(1935)に発生した大本弾圧により、整備された建物や石垣は再び徹底的に破壊され、城址は瓦礫が堆積する荒地へと変わった。

戦後、昭和20年(1945)に大本へ土地が返還されると、再び整備が進められる。この段階では、戦前のような大規模な復元ではなく、自然環境を活かした保全と空間整備が重視された。三代教主出口直日は、境内地全体を「山の裾野のように」と位置づけ、過度な造成を避けつつ、日本の在来植生を中心とした景観づくりを進めた。松・梅・ヤマザクラ・カエデなどが植栽され、季節の変化を感じる空間が形成されている。

現在の亀山城址は「天恩郷」として整備され、天守台周辺の石垣や地形の痕跡が残るとともに、自然と調和した歴史空間として維持されている。今日見られる石垣は、近世の遺構そのものではなく、大正期以降の復元と戦後の整備を経て現在に伝えられているものであり、その変遷そのものが城址の歴史を物語っている。

参考文献:

  • 『日本城郭大系11』(新人物往来社)
  • 『丹波亀山と大本』(大本教学研鑽所)

亀山城のおすすめ散策コース(順路)

宗教法人大本の敷地内にあり、宗教法人大本本部の「みろく会館」で受付を行い登城する。
2020年2月4日から拝観料が300円と有料化された。詳しくは、下記サイトでご確認を。時間は午前9時30分〜午後4時00分(受付15時30まで)

亀山城の撮影スポット・絶景ポイント

亀山城は天守台石垣や本丸入口、内堀跡、石垣など見どころが点在し、歩きながら視点を変えることで城の構造が浮かび上がる。木漏れ日が落ちにくい曇天は天守台の撮影に適し、広角レンズを用いると石垣の広がりが捉えやすい。また、石垣に見られる刻印石も見逃せない。この城の輪郭をとらえるには、外堀や惣構の痕跡まで足を延ばして歩いてみたい。

亀山城周辺の観光スポット・史跡めぐり

旧亀山城内新御殿門(千代川小学校)

移築城門、旧亀山城内新御殿門

千代川小学校に新御殿門が移築されている(亀岡市指定文化財)。現在はその正門として活用するようになったが、移築当初は、生徒は通ることが許されず、先生も特別な日だけ羽織袴で正装し門をくぐったそうだ。門脇には石碑が建つが、ふと見下ろすと、石碑の下に石が置かれている。碑には「旧亀山城新御殿門遺跡」と刻まれているのだが、最後の二文字「遺跡」がそのせいで見えない。

新御殿門の一枚板の門扉小学校の裏手にお住まいのM氏が門をここに移築し、その曽孫さんの書で平成24年に石碑を建てた。ところが「遺跡」ではちょっと意味が変わってしまうので(「遺構」とすべきだったかもと)、その二文字の高さの石を石碑の前に添えて隠しているそうだ。新御殿門は現在、学童保育として内部が両側とも利用されている。門扉は一枚板が使用されているが残念ながら真ん中で割れが生じている。修復するにも同サイズの巨木が無い。巨大な一枚板の門扉を眺めていると、当時の亀山城がどれだけ威厳があった城かを垣間見られたような気がした。石碑前の石も郷土の誇りが香るそのままの状態で良かったようにもふと感じた。

余談ながら、移築城門を見ようと亀山城からここ千代川までの道のりで「並河」という駅がある。京都のSさんによると、山崎の合戦の布陣図を見ると、光秀方に並河易家という武将がいて並河城址もあるとのこと、それが駅名の由来らしい。京都から見た場合、丹波方面の入口ともいうべきここ亀山で、並河氏は光秀の案内役を度々務めた。山崎の合戦を機に、その子は、加藤清正の家老になったのだとか。

その他の移築城門等

  • 新御殿玄関(保津第五区会議所)亀山城からの移築建築物

    新御殿玄関(保津第五区会議所)

    ※亀岡市指定文化財

  • 延福寺表門(亀山城移築城門)

    延福寺表門(移築城門)

  • 桂林寺山門(亀山城移築城門)

    桂林寺山門(移築城門)

  • 大本毘沙門荘表門(家老屋敷長屋門の移築)

    大本毘沙門荘表門(家老屋敷長屋門の移築)

  • 文覚寺表門(亀山城移築城門)

    文覚寺表門(移築城門)

  • 元ダイハツ(亀山城移築城門)

    元ダイハツ(移築城門)

  • 大覚寺(明智門)

    大覚寺(明智門)

  • 大覚寺(明智陣屋)

    大覚寺(明智陣屋)

そのほか、曽我部町の個人宅にある移築城門や数々の長屋門が城下にありますがは掲載を差し控えます。

亀山城の外堀・惣構跡

徒歩散策が良い距離感です(下記詳しい場所はGoogleマップでチェック)。

  • 外堀跡(古世親水公園)
  • 天満宮(奥に土塁有り)
  • 宗福寺(奥に土塁有り)
  • 嶺樹院(マツモト裏から土塁が見やすい)
  • 宗堅寺(奥に土塁有り)
  • 聖隣寺(惣構跡・山門に鉄砲狭間・信長の供養塔有り)
  • 坂部公園(奥に土塁有り)
  • 惣構跡(マツモト前)

本能寺の変・行軍関連の歴史スポット

老ノ坂明智光秀の3ルート、明智超、老ノ坂(写真)、唐櫃越は、登山道が通行可能かまた各ルートを自治体等にご確認ください(下記詳しい場所はGoogleマップでチェック)。

  • 愛宕山
    愛宕神社(元愛宕)連歌会はこちらでという説があるらしい。元愛宕とは全国の愛宕神社の元。
  • 篠村八幡宮(足利尊氏の六波羅攻め出陣場所・本能寺の変の勢揃い場所説あり・旗立楊が北側に)
  • 明智超(簾戸口・登山口)
  • 唐櫃越(登山口)
  • 老ノ坂(是より東 山城国 道標)
  • 老ノ坂(首塚大明神)
  • 金蔵寺(将軍地蔵)
  • 昆陽山地蔵院(京に入ってからの結集点と言われ当時はもっと北の方にあった)
  • 清瀧山谷性寺(光秀の首塚)
  • 明智の戻り岩
  • 獨鈷抛山千手寺(丹波平定時の拠点)
  • 本能寺跡石碑
  • 勝龍寺城
  • 明智光秀本陣跡(恵解山古墳)
  • 山崎合戦古戦場石碑
  • 明智藪石碑
  • 明智光秀胴塚
  • 明智光秀首塚

亀山城から広がる城めぐり

丹波の名城

丹波の名城をたどると、山々に築かれた城と城下町に地域の歴史の重なりが見えてくる。

京都府の名城

京都府に残る多彩な名城からは、地域の歴史の広がりが見えてくる。

亀山城アクセス・駐車場・営業時間

所在地

住所:京都府亀岡市荒塚町内丸1 [地図を見る]

県別一覧:[京都府の城]

アクセス

鉄道利用

JR山陰本線、亀岡駅下車、南へ徒歩8分。大本本部のみろく会館受付へ。

マイカー利用

京都縦貫自動車道、亀岡ICから2.9km(約8分)。宗教法人大本の参拝者駐車場を目指す。大本本部のみろく会館受付へ。

地図

亀山城をより深く学ぶ展示・資料館・学習スポット

現地でGETできる資料

現地では、亀山城の見どころが記された境内マップ『大本と丹波亀山城』を、みろく会館の受付で入手できる。同館2階には亀山城の資料パネルや模型が展示され、現存する櫓の鯱も見ることができる。あわせて、有料冊子『丹波亀山城と大本』(全12P)では、明智光秀の築城から現代に至る城址の歩みがまとめられている。

また、亀岡駅前の亀岡市文化資料館では、天守の写真や模型のほか、足利尊氏や明智光秀に関わる古文書、豊臣政権期の朱印状などが展示されているとされる。