写真・監修:岡 泰行/城郭カメラマン
篠山城の歴史と見どころ
篠山城(ささやまじょう)は、徳川家康の命によって築かれた天下普請の城であり、戦国の動乱から江戸の泰平へと移り変わる時代を象徴する存在といえる。舞台となったのは、京都と山陰・山陽を結ぶ街道が交差する丹波篠山。古くから交通の要衝であったこの地には、かつて波多野氏が八上城を構え、明智光秀の侵攻に抗していた歴史がある。
やがて八上城が落城し、政権が徳川に移った後、家康は篠山盆地の中央に築城を命じた。選ばれたのは、小高い丘陵地「笹山」。そこに描かれたのは、築城の名手・藤堂高虎による正方形を基調とした堅固な縄張りであった。石垣、堀、枡形、出丸といった構造の随所には、高虎の技と戦後の秩序への意志が見て取れる。威容を誇るというより、治めるための城としての美しさが、静かにたたずんでいる。
篠山城の歴史
篠山盆地は、京都から山城を経て、播磨・但馬・大坂を結ぶ街道が交錯する交通の要衝であった。とりわけ、平安時代からの幹線である山陰道や、亀岡と和田山を結ぶ篠山街道が交わる地に位置し、地政学的な重要性を帯びていたといってよい。篠山街道を見おろす要地に築かれたのが、戦国期に丹波を支配した波多野氏の本拠、八上城である。
八上城は堅固な山城で、波多野氏が明智光秀の丹波攻めに長らく抗した拠点でもあった。しかし天正7年(1579)、ついに光秀の総攻撃によって落城。以後、丹波一帯は明智領として再編された。光秀の死後は城主が度々交代したが、時代が大きく動いたのは徳川政権の確立後のこととなる。
関ヶ原合戦ののち、徳川家康は西国大名への抑えを強化する目的で、八上城を廃し、新たに篠山盆地の中央に築城を命じた。その地は「笹山」と呼ばれる小丘であった。築城は慶長14年(1609)に開始され、翌慶長15年(1610)には完成を見た。まさに天下普請による城づくりであり、普請奉行には姫路城主の池田輝政、縄張り設計には築城の名手・藤堂高虎が起用された。
高虎は、彼が得意とする正方形の縄張りを採用し、要所には枡形虎口を配置、さらに外郭に出丸を設けて防御を強化した。天守台は築かれたものの、天守そのものは築かれなかった。これは軍事拠点というより、政治的な象徴としての城の役割を物語る設計であったといえる。
その後は松平氏が城主を務め、篠山藩の政庁として幕末まで続いた。明治6年(1873)の廃城令により建物の取り壊しが始まるが、大書院は残され、城郭の格式を伝える数少ない建造物となっていた。しかし昭和19年(1944)、火災により焼失。その後、平成12年(2000)に大書院(二ノ丸御殿の一部)が木造で忠実に復元された。
なお、現在の最寄り駅であるJR篠山口駅は、城からおよそ7km離れた郊外に位置している。この距離の背景には、明治初期、蒸気機関車が「火を吐く」ものとして恐れられ、城下町から距離を置いた場所に駅が設けられたという事情がある。文明開化の明暗を感じさせる一幕といえる。
参考文献:
- 『探訪ブックス日本の城5』(小学館)
- 丹波篠山市Webサイト「篠山城跡」
篠山城の特徴と構造
篠山城の最大の特徴は、徳川家康による天下普請によって築かれた点にある。設計を担ったのは、築城の名手として知られる藤堂高虎で、その縄張りには彼の築城理念が色濃く表れている。普請総奉行は池田輝政が担当した。
城郭の全体構成は、東西約400m、南北約400mに及ぶ正方形に近い輪郭式の平城で、これは高虎が好んだ形状といってよい。中心部には本丸と二ノ丸が配置され、二ノ丸の北西部には藩主の居所としての大書院(二ノ丸御殿)が置かれた。本丸の北端には石垣造りの天守台が築かれたが、天守は最後まで建てられることはなかった。
防御構造としては、各所に枡形虎口を配し、要所を巧みに締めた点が挙げられる。さらに東に「東馬出」南東隅には「南馬出」と呼ばれる出丸を設け(かつては大手馬出もあった)、外郭からの侵入に備えた。堀は内堀・外堀ともに総石垣で固められ、平地ながらも堅牢な構えとなっている。構造上、あくまで実戦性よりも政治的象徴としての性格が強く、威容と格式を重視した造りといえる。
城下町の整備も併せて行われ、町割りや街道との接続性も高く、城と町が一体となった近世城郭の典型例として評価されている。石垣の反りや切石の積み上げも丁寧であり、池田輝政らによる普請体制の完成度の高さを今に伝えている。静かな山間に築かれた篠山城は、見れば見るほどにその設計思想の深さが感じられる構造美を湛えている。
篠山城の学びに役立つ本と資料
篠山市の『篠山城跡大書院復元事業、篠山城ものがたり』、『ひょうごの城紀行』(神戸新聞社)などに詳しく掲載されている。
篠山城周辺の史跡を訪ねて
城の西側に武家屋敷、北側に八上城屋敷門、そして、篠山城の前身といってもよい、八上城。波多野氏の城で光秀の攻略を受けて落城している。光秀の母を磔にされたとされる松や、各曲輪郡が残る。篠山城天守台から東に見える山がそれ。
篠山城周辺のおすすめ名物料理
冬は篠山の名物、猪肉のぼたん鍋。んが高い。そんな時は大手食堂を探そう。ここだけのオリジナル「しし丼」が安くてうまい。夏場は「牛とろ丼」。または、知る人ぞ知る蕎麦の名店「一会庵」(篠山市大熊10-2)。築300年の茅葺きの民家で、薬味や山葵はなく、蕎麦本来の味が楽しめる。看板なし、売り切れ次第閉店だが、一度訪れてみては。木曜定休だが、臨時休業もあり。事前に要確認。
篠山城のアクセス・所在地
所在地
電話:079-552-4500(篠山城大書院)
アクセス
鉄道利用
JR福知山線、篠山口駅下車、バス10分「二階町」降車、徒歩3分。
マイカー利用
舞鶴若狭自動車道、丹南篠山口ICから、東へ約4.6km(約10分)、三の丸西駐車場を利用する(350台有料・7時〜16時)。
※本記事は城郭カメラマン岡 泰行(プロフィール)監修のもと編集部にて構成しました。
篠山城に寄せて
これまでに届いた声:全5件

昭和19年に失火により焼失した大書院が平成11年に復元が完成。全国城郭管理者評議会に加盟している城の一つである。
( 岩峯慎一)さんより
篠山城は、慶長14年に徳川家康が京都から山陰・山陽両道に通じる要衝である篠山盆地に豊臣氏の大阪城と西国諸大名を監視する布石として、築城させた城である。普請総奉行は姫路城城主・池田輝政、縄張は築城家で名高い藤堂高虎。
( 岩峯慎一)さんより
史跡篠山城跡二の丸登り口調査について、篠山町の資料室からご提供いただきました、篠山城発掘の概略を許可を得てご紹介します。
1.調査期間
1998年1月19日〜1月31日
2.調査面積
112平米
3.篠山城について
篠山城は慶長14年(1609)に徳川家康の命により、大阪城攻めの備えと西国大名へのおさえの拠点とし、天下普請によって築城されました。現在の城跡は本丸、二の丸の石垣内濠の一部、外濠、馬出など主要な城郭遺構が良く保存されていることから、昭和31年12月28日国の史跡指定を受けています。
4.調査に至る経過
篠山町では1996年度から99年にかけて、二の丸内に大書院の復元建築工事に伴い二の丸登り口に電気・ガス・水道・下水道等を集約した共同溝を埋設するための工法等を検討する資料とするため、二の丸登り口の遺構の発掘調査を実施しました。
5.二の丸登り口について
二の丸登り口は、三の丸から二の丸の御殿跡に至る最も重要な動線で、絵図によると延長100mの範囲に北廊下門、表門、中之門、鉄門が配置され、篠山城内の動線の中でも特に厳重に造られていたことが分かります。
6.調査結果の概要
今回の調査は、二の丸登り口の共同溝埋設予定部分のごく限られた範囲の調査を実施しましたが、動線の敷石や、鉄門跡、階段跡などが発見され、江戸時代の二の丸登り口の構造が約130年ぶりに明らかになりました。
◎北廊下門跡
内濠部分に建てられた奥行18m、幅約5mの門跡です。調査の結果、江戸時代に盤沈下に伴い約20㎝盛土整地した様子が確認されました。
◎表門跡
廊下門の南側にある櫓門形式の門跡です。大きさは幅5m、奥行5mで上部は渡櫓となっていました。敷石等はすでに抜取られていましたが、段差の状況から階段等の位置も復元できるようになりました。
◎東枡形
大書院の北正面の位置にある枡形で、東西11m、南北16mの広場となっています。調査の結果、動線の敷石と中之門に続く階段跡が発見されました。
◎中之門跡
東枡形と西枡形との間に造られた櫓門形式の門跡です。調査の結果、門跡付近は廃城後に全面的に削平されていたため遺構は残っていませんでした。
◎西枡形
中之門西側に造られた枡形で、東西10m、南北16mの東枡形とほぼ同じ広さとなっています。江戸時代に武士達が歩いた動線部分に敷石が発見されました。
◎鉄門跡
二の丸へ至る最後の門跡で呼び名の通り門扉には鉄板が張られていたと考えられます。調査の結果、門跡は廃城後の明治時代にやく1.5m埋められていましたが、埋土を取り除いたところで、門跡の敷石と階段跡などの遺構が江戸時代の姿で発見されました。これによって鉄門は幅約5m、奥行約4.5mの広さがあり、東側の石垣高さ約4m、西側の石垣高さ4.5mとの間に造られており、二の丸へ至る最後の関門にふさわしい、厳重な造りになっていた様子が確認されました。
( 「丹波篠山へのいざない」植村)さんより
篠山城は四国の今治城も手がけた藤堂高虎の縄張り。広い武者走りが特徴。見所は大書院、全国でもめずらしいとされる東馬出、南馬出。南馬出は土累。大書院内で篠山城の関するビデオは必見。その縄張りの良さが分かりやすく解説されている。春は桜の名所。
( 左近)さんより
篠山城の内堀は埋め立てにより姿を消していたが、2002年から発掘整備され、2014年に南内堀が復元された。篠山市は、搦手の南内堀の復元整備と二の丸石垣の修復に乗り出し、南内堀に沿って広場を造るらしい。
( 城好き匿名希望)さんより