写真:岡 泰行

篠山城の歴史と見どころ

篠山という地は、京都の山城、播磨や但馬、大坂への街道が通る交通の要衝である。代表的な街道に平安時代の山陰道があり、亀岡から和田山を結ぶ篠山街道が通る。この街道と篠山盆地を見おろす地点にはかつて波多野氏の八上城があった。波多野氏は明智光秀の丹波侵攻を食い止めていた一大勢力で八上城はその本城にあたる。天正7年(1579)、八上城は光秀により攻め落とされた。本能寺の変の後は度々城主が入れ替わり、徳川家康の命で八上城を廃し、盆地中央の小さな丘「笹山」に新たに天下普請で城を築いた。慶長14年(1609)から築城が始まり、翌年に完成した。これが篠山城となる。普請奉行は姫路城主の池田輝政、縄張りは藤堂高虎が行った。正方形のかたちは高虎が得意とする縄張りだ。重要な箇所を枡形虎口で固め、さらに外側に出丸を設けた。天守は天守台は設けられるも建てられることはなかった。以後、松平家を中心に幕末まで続き明治を迎えた。明治6年(1873)に、建物の取り壊しが始まるも、大書院は存続していたが、昭和19年(1944)、火事により焼失、平成12年(2000)に大書院(二ノ丸御殿の一部)が木造復元された。城は最寄りのJR篠山口駅から遠い。城から約7km離れた郊外に、JR篠山口駅を設けた理由は、汽車は当時、見慣れたものではなく、火を吐くことから火車と忌み嫌われ、城下町から離れた場所に駅を設けたためと言われている。

篠山城の関連書籍

篠山市の『篠山城跡大書院復元事業、篠山城ものがたり』、『ひょうごの城紀行』(神戸新聞社)などに詳しく掲載されている。

篠山城の関連史跡

城の西側に武家屋敷、北側に八上城屋敷門、そして、篠山城の前身といってもよい、八上城。波多野氏の城で光秀の攻略を受けて落城している。光秀の母を磔にされたとされる松や、各曲輪郡が残る。篠山城天守台から東に見える山がそれ。

篠山城のおすすめ旅グルメ

冬は篠山の名物、猪肉のぼたん鍋。んが高い。そんな時は大手食堂を探そう。ここだけのオリジナル「しし丼」が安くてうまい。夏場は「牛とろ丼」。または、知る人ぞ知る蕎麦の名店「一会庵」(篠山市大熊10-2)。築300年の茅葺きの民家で、薬味や山葵はなく、蕎麦本来の味が楽しめる。看板なし、売り切れ次第閉店だが、一度訪れてみては。木曜定休だが、臨時休業もあり。事前に要確認。

篠山城のアクセス・所在地

所在地

住所:兵庫県篠山市北新町2 [MAP] 県別一覧[兵庫県]

電話:079-552-4500(篠山城大書院)

アクセス

鉄道利用

JR福知山線、篠山口駅下車、バス10分「二階町」降車、徒歩3分。

マイカー利用

舞鶴若狭自動車道、丹南篠山口ICから、東へ約4.6km(約10分)、三の丸西駐車場を利用する(350台有料・7時〜16時)。

城ファンの気になるところ (5)

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    昭和19年に失火により焼失した大書院が平成11年に復元が完成。全国城郭管理者評議会に加盟している城の一つである。

    ( 岩峯慎一)

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    篠山城は、慶長14年に徳川家康が京都から山陰・山陽両道に通じる要衝である篠山盆地に豊臣氏の大阪城と西国諸大名を監視する布石として、築城させた城である。普請総奉行は姫路城城主・池田輝政、縄張は築城家で名高い藤堂高虎。

    ( 岩峯慎一)

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    史跡篠山城跡二の丸登り口調査について、篠山町の資料室からご提供いただきました、篠山城発掘の概略を許可を得てご紹介します。

    1.調査期間
    1998年1月19日〜1月31日

    2.調査面積
    112平米

    3.篠山城について
    篠山城は慶長14年(1609)に徳川家康の命により、大阪城攻めの備えと西国大名へのおさえの拠点とし、天下普請によって築城されました。現在の城跡は本丸、二の丸の石垣内濠の一部、外濠、馬出など主要な城郭遺構が良く保存されていることから、昭和31年12月28日国の史跡指定を受けています。

    4.調査に至る経過
    篠山町では1996年度から99年にかけて、二の丸内に大書院の復元建築工事に伴い二の丸登り口に電気・ガス・水道・下水道等を集約した共同溝を埋設するための工法等を検討する資料とするため、二の丸登り口の遺構の発掘調査を実施しました。

    5.二の丸登り口について
    二の丸登り口は、三の丸から二の丸の御殿跡に至る最も重要な動線で、絵図によると延長100mの範囲に北廊下門、表門、中之門、鉄門が配置され、篠山城内の動線の中でも特に厳重に造られていたことが分かります。

    6.調査結果の概要
    今回の調査は、二の丸登り口の共同溝埋設予定部分のごく限られた範囲の調査を実施しましたが、動線の敷石や、鉄門跡、階段跡などが発見され、江戸時代の二の丸登り口の構造が約130年ぶりに明らかになりました。

    ◎北廊下門跡
    内濠部分に建てられた奥行18m、幅約5mの門跡です。調査の結果、江戸時代に盤沈下に伴い約20㎝盛土整地した様子が確認されました。

    ◎表門跡
    廊下門の南側にある櫓門形式の門跡です。大きさは幅5m、奥行5mで上部は渡櫓となっていました。敷石等はすでに抜取られていましたが、段差の状況から階段等の位置も復元できるようになりました。

    ◎東枡形
    大書院の北正面の位置にある枡形で、東西11m、南北16mの広場となっています。調査の結果、動線の敷石と中之門に続く階段跡が発見されました。

    ◎中之門跡
    東枡形と西枡形との間に造られた櫓門形式の門跡です。調査の結果、門跡付近は廃城後に全面的に削平されていたため遺構は残っていませんでした。

    ◎西枡形
    中之門西側に造られた枡形で、東西10m、南北16mの東枡形とほぼ同じ広さとなっています。江戸時代に武士達が歩いた動線部分に敷石が発見されました。

    ◎鉄門跡
    二の丸へ至る最後の門跡で呼び名の通り門扉には鉄板が張られていたと考えられます。調査の結果、門跡は廃城後の明治時代にやく1.5m埋められていましたが、埋土を取り除いたところで、門跡の敷石と階段跡などの遺構が江戸時代の姿で発見されました。これによって鉄門は幅約5m、奥行約4.5mの広さがあり、東側の石垣高さ約4m、西側の石垣高さ4.5mとの間に造られており、二の丸へ至る最後の関門にふさわしい、厳重な造りになっていた様子が確認されました。

    ( 「丹波篠山へのいざない」植村)

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    篠山城は四国の今治城も手がけた藤堂高虎の縄張り。広い武者走りが特徴。見所は大書院、全国でもめずらしいとされる東馬出、南馬出。南馬出は土累。大書院内で篠山城の関するビデオは必見。その縄張りの良さが分かりやすく解説されている。春は桜の名所。

    ( 左近)

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    篠山城の内堀は埋め立てにより姿を消していたが、2002年から発掘整備され、2014年に南内堀が復元された。篠山市は、搦手の南内堀の復元整備と二の丸石垣の修復に乗り出し、南内堀に沿って広場を造るらしい。

    ( 城好き匿名希望)

城の情報

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