写真・監修:岡 泰行/城郭カメラマン
篠山城の歴史と見どころ
篠山城(ささやまじょう)の築城は、慶長14年(1609)、徳川家康の命によって始まった。目的は、豊臣氏の大坂城に対する備えを固めると同時に、西国諸大名への抑えを強化することにあった。この築城は「天下普請」として実施され、浅野幸長、蜂須賀至鎮、加藤嘉明、福島正則など、豊臣恩顧の有力大名を含む15ヶ国20家が動員された。総勢8万人とも7万人以上ともいわれる大工事ながら、わずか半年という短期間での完成が伝えられている。篠山城は、江戸幕府成立初期において徳川政権がいかに迅速かつ強権的に体制を固めていったかを象徴する存在だ。
篠山城の歴史
篠山盆地は、京都・山陰・山陽・大坂を結ぶ複数の街道が交差する交通の要衝にあたる。なかでも平安時代から続く山陰道と、亀岡と和田山をつなぐ篠山街道が交わるこの場所は、古来より重要な位置を占めていた。
戦国時代には、波多野氏がこの要地に八上城を築き、本拠とした。八上城は堅固な山城であり、明智光秀の丹波攻めに対して長く抗戦したが、天正7年(1579)6月、光秀の総攻撃によって落城した。その後、丹波一帯は明智氏の領国として再編され、光秀の死後には支配が交代する。時代が大きく動くのは、関ヶ原合戦を経て徳川政権が確立されてからのことである。
徳川家康は、西国大名への抑えを強化するため、八上城を廃し、篠山盆地の中央に新たな城を築くよう命じた。築城地は「笹山」と呼ばれる小丘陵で、築城は慶長14年(1609)に開始され、1年未満という短期間でほぼ完成を迎えた。普請奉行には姫路城主の池田輝政があたり、縄張り設計には築城の名手・藤堂高虎が起用された。
高虎は正方形に近い縄張りを採用し、各所に枡形虎口を配し、外郭には出丸を設けるなど、防御性の高い構造を設計した。天守台は築かれたが、天守は最後まで建てられていない。こうした設計からは、篠山城が単なる軍事拠点ではなく、政治的象徴としての性格を持っていたことが読み取れる。
その後、篠山城は松平康重が初代城主となり、その後も譜代大名の松平家が続いた後、青山氏が城主となり、篠山藩の政庁として幕末まで使用された。明治期に建物の解体が進んだが、大書院は昭和19年(1944)1月6日に火災で焼失した。しかし、市民の熱意と寄付により平成12年(2000)3月に二の丸に大書院が忠実に復元され、往時の格式を今に伝えている。
余談ながら、最寄り駅であるJR篠山口駅は、城からおよそ7km離れた郊外に位置している。この距離には、明治初期の鉄道敷設をめぐる逸話が背景にある。蒸気機関車が「火車」つまり、「火を吐くもの」として恐れられていた時代、篠山町は鉄道の町内通過を拒否したため、隣町の丹南町(現在の丹波篠山市の一部)に駅が設置され、以後そこが玄関口となった。
この出来事は、文明開化の時代における中央政府の近代化政策と、地域社会の伝統的価値観との間に生じた摩擦を象徴している。鉄道という革新的なインフラが、必ずしも歓迎されなかったこと、そしてその選択が地域の発展に及ぼした長期的な影響を示すものといえる。なお、かつて篠山口駅と城下町中心部を結んでいた「篠山線」は、昭和47年(1972)に廃止されている。
篠山城の特徴と構造
篠山城の最大の特徴は、徳川家康の命による「天下普請」で築かれた点にある。普請総奉行を務めたのは池田輝政で、縄張り設計には築城の名手として知られる藤堂高虎が起用された。彼の築城理念は、この城にも随所に息づいている。
城郭の構成は、東西約400m・南北約400mに及ぶ正方形に近い輪郭式の平城である。本丸と二ノ丸を中心に配置し、二ノ丸の北西には藩主の居所である大書院(二ノ丸御殿)が置かれた。本丸の北端には石垣造りの天守台が築かれているが、天守そのものは最後まで建てられなかった。この事実は、城が軍事的拠点としての実戦性よりも、政治的象徴としての性格を強く意識して設計されたことを示している。
防御構造としては、北(大手)、東、南の三ヶ所の入口に枡形虎口と馬出を配して要所を締め、堅固な構えだ。かつては大手馬出も備わっていたが、現在は東馬出と南馬出が遺構として残る。堀は内堀・外堀ともに巡らされ、特に外堀は今も水を湛えている。
篠山城大書院
篠山城大書院は、慶長14年(1609)の築城と同時に建てられた城内最大の建築物。京都二条城二の丸御殿に匹敵する壮大な書院造であった。一大名の書院としては破格の規模と古式の建築様式を備えていた。しかし、昭和19年(1944)に火災で焼失。その後、篠山市民の寄付により、古絵図、古写真、発掘調査等の総合的な学術調査に基づき、平成12年(2000)に木造復元された。床面積は739.33㎡、棟高は12.88m、屋根は入母屋造り、こけら葺き。
内部は8部屋あり、上段の間には、江戸時代初期の狩野派絵師が描いた屏風絵が障壁画として転用され、往時の雰囲気を再現している。現在は展示公開施設として、その豪華な建築様式と歴史を伝えている。また、大書院南側の御殿は、立体的に復元できる資料がなかったことから、平成14年(2002)に最も古い江戸時代中期頃の間取り図をもとに平面復元されている。
本丸と二の丸
篠山城の本丸と二の丸は、城の中心部に位置する内堀に囲まれた主要な曲輪だ。築城当初、現在の二の丸は「本丸」と呼ばれ藩主の御殿が置かれ、現在の本丸は「殿守丸」と呼ばれていた。両曲輪を囲む高石垣の上には長大な多聞櫓が巡らされていた。本丸南東隅の天守台には実際に天守が建造されることはなく、代わりに平櫓が設けられていたと伝わる。
二の丸には藩主の居館である二の丸御殿(大書院)があり、城内における政治・行政の中枢として機能した。現在、本丸・二の丸は広い空間となっており、木造復元された二の丸大書院や御殿の平面図復元などが当時の構造を偲ばせている。
天守台
本丸南東部に築かれた天守台は、一辺約20mの方形で高さ6m余の石垣を持つ土台である。慶長14年(1609)の築城時に造られたが、幕府の意向により天守閣は築かれなかった。理由については、幕府が城の構造が「堅固に過ぎる」ことを懸念したため、あるいは徳川家康が「天守は人目に立って敵方の狙いになるだけで、この城には無用のものである。それよりも優れた城主を置く方が肝要である」と述べたと伝えられている。実戦重視のため篠山城には天守は設けられず、代わりに天守台上の南西隅に一重の櫓が建てられていた。現在も本丸天守台の石垣が残り、その上からは八上城を含む東側に広がる風景を一望することができる。
二の丸搦手口の埋門
二の丸搦手口(城の裏門)には「埋門(うずみもん)」と呼ばれる隠し門が設けられていた。埋門は城外から目立たないよう石垣に埋め込む形で造られた小規模な虎口で、二層の櫓を備えた櫓門であったと伝わる。敵に悟られにくい構造と位置により、緊急時の退出口や連絡路として機能したと考えられている。現在、埋門の木造建築物は現存しないが、搦手口を出た所の石垣には「三左の内」と刻まれた刻印石があり、これは普請総奉行であった池田三左衛門輝政の印で自らの担当工区を示したものではないかと推測されている。
三の丸
三の丸は内堀の外側に配置された広大な外郭部で、篠山城の第三の曲輪にあたる。家老屋敷、馬場、米蔵などが置かれ、城下町と接する外堀内側のエリアとして機能した。三の丸の外縁部(水際)には石垣で補強された高い土塁が築かれ、その上に塀を巡らし四隅に二層または三層の隅櫓を据えるなど、篠山城の主たる防御線を形成していた。しかし廃城後、明治から昭和期にかけて土塁や櫓はほとんど撤去され、現在では三の丸南西隅に土塁の一部がわずかに遺構として残るのみである。三の丸内部は現在、北側と南側が広場として整備されており、夏の「デカンショ祭」やマラソンの会場など地域イベントにも利用されている。
北馬出と東馬出と南馬出
篠山城には、3つの入口があった。この遺構が北馬出と東馬出と南馬出に残っている。篠山城では北(大手)・東・南の三方の虎口に、それぞれ方形の「馬出(うまだし)」と呼ばれる小曲輪を設けて城門の防御を固めていた。三ヶ所の馬出のうち、大手門の北馬出は大正10年(1921)に埋め立てられ、現在は一部の土塁のみとなっているが、東馬出と南馬出が遺構として残存する。近世の城で馬出の残存は全国的にも極めて珍しい。東馬出は外堀に面した石垣と空堀が残り、現在は公園として整備されている。南馬出は土塁と周囲の堀が完全に遺存し、高さ約4mに及ぶ土塁馬出として貴重な存在だ。築城当時、南馬出の内部には火薬庫である焔硝蔵が置かれ、南馬出堀の南側には薪炭蔵が備えられていた。
石垣刻印
篠山城の石垣には「刻印」(石垣石に刻まれた符号)が数多く認められる。確認されている刻印の種類は150種類以上、数にして1,000個以上にも及び、その種類・数の多さは篠山城の規模に比して顕著であり、大坂城・名古屋城に次ぐ規模ともいわれる。こうした刻印は、天下普請による築城の際、石材の採石・運搬や石垣積みに携わった石工集団ごとの目印、あるいは普請に参加した諸大名の家紋や工事担当部署の印であるなど諸説ある。
搦手口の埋門付近の石垣に刻まれた「三左の内」という刻印は、篠山城普請の総奉行を務めた池田輝政(通称:三左衛門)に由来し、池田家が担当した工区を示す符号ではないかと考えられている。築城から400年以上を経た現在も石垣表面に明瞭に残る数々の刻印は、篠山城が諸大名の手により短期間で築かれた歴史を今に伝える貴重な手掛かりとなっている。
参考文献:
- 『丹波篠山ロマン街道 戦国乱世の道』(2020丹波篠山市)
- 『史跡篠山城跡整備基本計画』(2012丹波篠山市)
- 『(続)丹波の城〜篠山城築城400年〜』(2010財団法人兵庫丹波の森協会)
- Webサイト「国指定史跡篠山城跡」丹波篠山市
- 篠山城現地案内板
篠山城の学びに役立つ本と資料
篠山市の『篠山城跡大書院復元事業、篠山城ものがたり』、『ひょうごの城紀行』(神戸新聞社)などに詳しく掲載されている。
篠山城の撮影スポット
篠山城を訪れるなら、天守台を除き、ほとんどの撮影スポットが午後の光で順光となる。とくに大書院内部や埋門の撮影を想定する場合は、35mm換算で20mm以下の広角レンズをぜひ持参したい。その他の見どころは、近世城郭らしく標準ズームの画角で収まりがよく、構図も整えやすい。
篠山城らしさを象徴する風景といえば、表門跡付近の高石垣、木造で復元された大書院、天守台、そして二の丸をぐるりと囲む石垣群だろう。近年は三の丸の整備も進みつつあり、内堀越しに二の丸の石垣をとらえる構図も、今の姿を記録する意味で残しておきたい。
篠山城の写真集
城郭カメラマン撮影の写真で探る篠山城の魅力と見どころ「お城めぐりFAN LIBRARY」はこちらから。篠山城周辺の史跡を訪ねて
かつて天下普請によって築かれた篠山城。その石垣に刻まれた武家の記憶は、今も町の随所に息づいている。城下町に足を延ばせば、御徒士町の茅葺き屋敷や河原町の妻入商家群が往時の暮らしを映し出し、青山歴史村では藩政の記録がその治政の深みを語る。近代建築として移り変わった大正ロマン館や歴史美術館もまた、時代の襞を抱いた遺産である。さらに城の外には、八上城や土居の内跡といった中世の気配も残されている。篠山という町は、単に城をめぐるだけでは味わい尽くせない、層をなす歴史の風景を訪ね歩くことのできる場所だ。
御徒士町武家屋敷群
篠山城西側の外堀沿いに整備された武家町で、下級武士・御徒士たちの住まいが南北400mにわたって連なる。茅葺の主屋や白壁の土蔵、棟門と土塀が連なる景観は、天保の大火後の復興形式をよく伝えている。篠山城下町、ここ御徒士町武家屋敷群を含む城の周囲の武家屋敷群と、東に展開する商人の町、河原町妻入商家群が、平成16年(2004)に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されており、城下の生活文化を色濃く残している。
武家屋敷 安間家史料館
御徒士町に現存する旧安間家住宅(天保元年以降の再建)は、茅葺・曲り屋形式の主屋と瓦葺土蔵を備え、典型的な徒士クラス武家屋敷の姿を残す。平成6年(1994年)に全面改修され、篠山市立武家屋敷安間家史料館として一般公開されている。禄高12石3人扶持の下級武士の家で、館内には安間家伝来の古文書や家具調度のほか、寄贈を受けた篠山藩ゆかりの甲冑や武具・資料が展示されている。旧安間家住宅そのものも篠山市指定文化財に指定されており、江戸後期の武家屋敷の構造と暮らしを現代に伝える貴重な建築物だ。
御徒士町の武家屋敷そのほか
「原家住宅」は、江戸中期の武家屋敷で、天保元年(1830)の大火で焼け残った(写真)。主屋・土蔵・門が残されている。「佐藤家」は、天保年間の築と伝わる徒士住宅で、茅葺の主屋に門と土蔵を備える。御徒士町には、ほかに「城戸家」「中村家」などがある。いずれも道路上から外観を見ることができるが、内部は非公開で一般公開はされていない。
小林家長屋門
篠山城下にある小林家長屋門は、城の西外堀沿いに位置する。現地案内板によると、文化年間(1804~1818)に、当時の藩主青山忠裕が長年仕えた老女小林千枝の功労に報いるため修築したと伝わる。茅葺き入母屋造りの住居兼用の長屋門で、内部には上段の間や、物見の窓を備える。その格式と機能性から、篠山城下の武家屋敷門を代表する貴重な遺構だ。昭和54年(1979)に兵庫県指定文化財に指定された(内部非公開)。
丹波篠山市立青山歴史村(武家屋長屋門・金櫃・刻印石)
青山家の別邸「桂園舎」を中心とした施設で、藩政文書や漢籍版木、藩窯資料などを展示している。その門は、旧澤井家武家屋敷門の移築。敷地内には市指定文化財の「金櫃(かなびつ)」が展示されている。篠山城大手馬出北側の藩貨幣司の掛所の土蔵床下から発見されたもので、石を組んで造られた堅牢な構造が特徴だ。また、篠山城の刻印石も展示されている。
河原町妻入商家群
旧山陰道沿いに展開する商家町で、妻入の商家が約600mにわたり並ぶ。建物の正面に見られる千本格子やむしこ窓、うだつなどの伝統的な意匠が特徴的で、往時の商いの気配を漂わせる。令和3年(2021)には電柱が撤去され、より一層美しい景観が整えられた。地区内には丹波篠山市指定文化財の西坂家住宅(醤油屋として使われていた妻入りの典型例)や川端家住宅(入母屋造の平入り商家建築)もある。このエリアは重要伝統的建造物群保存地区に選定され、篠山城下の商人文化を今に伝えている。城から少し離れてはいるが、是非訪れてほしい歴史景観だ。
高城屋敷門
高城屋敷門は、戦国時代の領主波多野氏の居城であった八上城内の屋敷門を、後に篠山城下の武家屋敷門として移築されたと伝わるものだ。創建は室町期を下らないとされ、切妻造の薬医門で、当初は茅葺であったが移築後に瓦葺に改装された。八上城に関わる唯一の残存建物として価値が高く、平成9年(1997)に現在地に移された。丹波篠山市指定文化財となっており、往時の武家の風格を今に伝えている。
丹波篠山市立歴史美術館(篠山城の鯱)
明治24年(1891)に竣工した旧篠山地方裁判所を転用した施設で、和洋折衷の木造建築として貴重な文化財だ。青山家ゆかりの美術品や藩窯・王地山焼、篠山の考古遺物などを収蔵する。門脇(門内)には篠山城のものと伝わる鯱(高さ85.5cm)が据えられている。平成6年(1994)に地域住民から寄贈されたものだ。美術館によると、篠山城のどこに使われていたかは不明とのこと。
近郊の城
丹波篠山市大渕麓にある「土居の内跡(大淵館)」は、波多野氏の一族である畑氏の居館跡とされ、兵庫県指定史跡に登録されている。土塁と堀に囲まれた方形の構えがよく保存されており、中世武士の館構造を現在に伝える貴重な遺跡だ(写真)。また、八上城は、戦国期に波多野氏の本拠となった山城で、篠山城の築城以前に当地を支配していた。現在は国指定史跡となっており、尾根上に本丸・空堀・虎口などの遺構が残る。この2城は見ておきたい。そのほか、丹波の名城は、福知山城、周山城、黒井城、丹波八木城は、見応えありなので、時間があれば訪れると良い。
篠山城周辺のおすすめ名物料理
篠山には、城とともに育まれてきた素朴で奥深い味がある。丹波栗や黒豆は、風土と歴史の恵みそのもの。山の蕎麦は静かな一軒家で味わい、寒さ深まる季節には猪肉料理が食卓を温める。歩いて味わう篠山の旅に、地の食は欠かせない。
丹波栗
「丹波栗」は丹波地域で栽培される大粒で甘く柔らかな和栗。平安時代から宮中献上品とされ、江戸時代には参勤交代の武士によって全国に広まった。美味しさの秘密は昼夜の寒暖差にもあるらしい。秋の篠山で多彩に楽しまれる季節の贈り物。
丹波黒豆
全国的にも名高い「丹波黒」の名で知られる丹波黒豆は、その大粒と高品質が特徴で江戸時代中期には幕府へ献上された。余談ながら、丹波大納言は小豆の品種であり、黒豆とは異なる。秋には畑に干された黒豆の枝が並ぶ風景が、篠山ならではの農と食の風物詩となっている。
蕎麦の名店
知る人ぞ知る蕎麦の名店「一会庵」篠山城から北東へ約3kmの距離にある(篠山市大熊10-2)。築300年の茅葺きの民家で、薬味や山葵はなく、蕎麦本来の味が楽しめる。看板なし、売り切れ次第閉店だが、一度訪れてみては。木曜定休だが臨時休業もあり。事前に要確認。
猪肉
冬は篠山の名物、猪肉の「ぼたん鍋」を。んが、ちょっと高い。そんな時は気軽に食す「しし丼」を。篠山城から徒歩圏内の大手食堂で味わえる。夏場は「牛とろ丼」を。
篠山城のアクセス・所在地
所在地
電話:079-552-4500(篠山城大書院)
- 篠山城大書院(一般社団法人 ウイズ ささやま)
- 史跡篠山城跡について(丹波篠山市)
アクセス
鉄道利用
JR福知山線、篠山口駅下車、バス10分「二階町」降車、徒歩3分。
マイカー利用
舞鶴若狭自動車道、丹南篠山口ICから、東へ約4.6km(約10分)、三の丸西駐車場を利用する(350台有料・7時〜16時)。
※本記事は城郭カメラマン岡 泰行(プロフィール)監修のもと編集部にて構成しました。
篠山城に寄せて
これまでに届いた声:全6件
昭和19年に失火により焼失した大書院が平成11年に復元が完成。全国城郭管理者評議会に加盟している城の一つである。
( 岩峯慎一)さんより
篠山城は、慶長14年に徳川家康が京都から山陰・山陽両道に通じる要衝である篠山盆地に豊臣氏の大阪城と西国諸大名を監視する布石として、築城させた城である。普請総奉行は姫路城城主・池田輝政、縄張は築城家で名高い藤堂高虎。
( 岩峯慎一)さんより
史跡篠山城跡二の丸登り口調査について、篠山町の資料室からご提供いただきました、篠山城発掘の概略を許可を得てご紹介します。
1.調査期間
1998年1月19日〜1月31日
2.調査面積
112平米
3.篠山城について
篠山城は慶長14年(1609)に徳川家康の命により、大阪城攻めの備えと西国大名へのおさえの拠点とし、天下普請によって築城されました。現在の城跡は本丸、二の丸の石垣内濠の一部、外濠、馬出など主要な城郭遺構が良く保存されていることから、昭和31年12月28日国の史跡指定を受けています。
4.調査に至る経過
篠山町では1996年度から99年にかけて、二の丸内に大書院の復元建築工事に伴い二の丸登り口に電気・ガス・水道・下水道等を集約した共同溝を埋設するための工法等を検討する資料とするため、二の丸登り口の遺構の発掘調査を実施しました。
5.二の丸登り口について
二の丸登り口は、三の丸から二の丸の御殿跡に至る最も重要な動線で、絵図によると延長100mの範囲に北廊下門、表門、中之門、鉄門が配置され、篠山城内の動線の中でも特に厳重に造られていたことが分かります。
6.調査結果の概要
今回の調査は、二の丸登り口の共同溝埋設予定部分のごく限られた範囲の調査を実施しましたが、動線の敷石や、鉄門跡、階段跡などが発見され、江戸時代の二の丸登り口の構造が約130年ぶりに明らかになりました。
◎北廊下門跡
内濠部分に建てられた奥行18m、幅約5mの門跡です。調査の結果、江戸時代に盤沈下に伴い約20㎝盛土整地した様子が確認されました。
◎表門跡
廊下門の南側にある櫓門形式の門跡です。大きさは幅5m、奥行5mで上部は渡櫓となっていました。敷石等はすでに抜取られていましたが、段差の状況から階段等の位置も復元できるようになりました。
◎東枡形
大書院の北正面の位置にある枡形で、東西11m、南北16mの広場となっています。調査の結果、動線の敷石と中之門に続く階段跡が発見されました。
◎中之門跡
東枡形と西枡形との間に造られた櫓門形式の門跡です。調査の結果、門跡付近は廃城後に全面的に削平されていたため遺構は残っていませんでした。
◎西枡形
中之門西側に造られた枡形で、東西10m、南北16mの東枡形とほぼ同じ広さとなっています。江戸時代に武士達が歩いた動線部分に敷石が発見されました。
◎鉄門跡
二の丸へ至る最後の門跡で呼び名の通り門扉には鉄板が張られていたと考えられます。調査の結果、門跡は廃城後の明治時代にやく1.5m埋められていましたが、埋土を取り除いたところで、門跡の敷石と階段跡などの遺構が江戸時代の姿で発見されました。これによって鉄門は幅約5m、奥行約4.5mの広さがあり、東側の石垣高さ約4m、西側の石垣高さ4.5mとの間に造られており、二の丸へ至る最後の関門にふさわしい、厳重な造りになっていた様子が確認されました。
( 「丹波篠山へのいざない」植村)さんより
篠山城は四国の今治城も手がけた藤堂高虎の縄張り。広い武者走りが特徴。見所は大書院、全国でもめずらしいとされる東馬出、南馬出。南馬出は土累。大書院内で篠山城の関するビデオは必見。その縄張りの良さが分かりやすく解説されている。春は桜の名所。
( 左近)さんより
篠山城の内堀は埋め立てにより姿を消していたが、2002年から発掘整備され、2014年に南内堀が復元された。篠山市は、搦手の南内堀の復元整備と二の丸石垣の修復に乗り出し、南内堀に沿って広場を造るらしい。
( 城好き匿名希望)さんより
篠山城に来ると、つい足がゆっくりになる。石垣のそばを歩いているだけで、なんだか昔の人の気配がするから不思議だ。馬出のあたりをぐるっとまわって、本丸跡に上がると、風がいい。ああ、ここは街とお城が一緒に時を重ねてきたんだなって、そんな気がしてくる。いい場所です、ほんとに。
( 夕凪ゆく)さんより