写真・監修:岡 泰行/城郭カメラマン
三田城の歴史と見どころ
三田陣屋は、現在の三田市立三田小学校および県立有馬高校を中心に築かれていた、三田藩の政務を担った陣屋跡にあたる。寛永10年(1633)、志摩国鳥羽から移封された九鬼久隆がこの地に陣屋を構え、以後明治4年(1871)の廃藩置県まで、約240年にわたり九鬼氏の治政が続いた。校地内には内堀や井戸跡が残されており、往時の輪郭を今に伝えている。南側に広がる水堀跡や、近隣に移築された門構えなども、静かに当時の気配を漂わせている。
三田陣屋の歴史
三田の地に築かれた最初の城郭は、中世の戦乱期にあたる南北朝から戦国期にかけてのものであった。三田市教育委員会による発掘調査では、台地上に複数時期の中世遺構が重層して存在することが確認されており、長く軍事的・政治的な拠点であったことがうかがえる。
天正年間(1573〜1592)には、織田信長に従った荒木村重の家臣・荒木平太夫が三田城に入り、当地の支配にあたった。その後、天正6年(1578)に村重が信長に背いたことを契機に、織田方の攻撃を受けて三田城は落城した。これにより荒木氏の支配は終わり、以後は池田氏や三好氏らの入替えを経て、天正10年(1582)には近江出身の山崎片家が入封し、城の修築と支配体制の再編が行われた。
関ヶ原の戦い後には、片家の子・山崎家盛が西軍に属したため所領を失い、有馬則頼が入封する。則頼の在封は短期間にとどまり、元和6年(1620)には久留米へ移封された。続いて松平重直が一時的にこの地に入ったが、寛永年間の早い段階で播磨の龍野城へ転じたことにより、三田の地は再び藩主を迎えることとなる。
寛永10年(1633)、志摩国鳥羽(鳥羽城)から九鬼久隆が3万6000石で三田に移封されると、三田城の城域を用いて三田陣屋が整備され、以後、近世を通じて三田藩の政務の拠点として機能した。これにより、三田は政治と文化の中心地としての役割を本格的に担いはじめることになる。
九鬼久隆は、九鬼水軍の名跡を継ぐ家系にあたるが、山間の三田においては行政に注力し、幕末に至るまでの約240年にわたり九鬼家がこの地を治めた。歴代当主は藩政の安定化に尽くし、藩政期には藩校の設置が検討され、教育への関心もうかがえる。
明治4年(1871)、廃藩置県が施行されると三田藩も廃され、陣屋はその役割を終えた。現在では内堀や水堀、井戸跡などの遺構が点在し、校地や街なかに往時の記憶を静かに残している。中世の城館から始まり、近世の陣屋へと変遷した三田の歴史は、この台地の上に今なお息づいているといえる。
三田陣屋の特徴と構造
三田陣屋は、平山の地形を活かした立地に築かれた。郭構成としては本丸・二の丸があり、それぞれ現在の三田小学校および有馬高校の敷地にあたる。遺構としては内堀、空堀、井戸跡が確認されており、とくに南側に位置する「御池」と呼ばれる水面は、水堀の機能を備えていたとされる。また、かつての城門の一つは市内の金心寺山門として移築されており、陣屋時代の建築の一端を今に伝えている。
御池に響く水軍の記憶 ― 九鬼久隆が託した誇りと哀しみ
この御池には、ひとつの静かな伝えが残されている。鳥羽から三田へと移された九鬼久隆が、かつての水軍の誇りを胸に、舟を浮かべて訓練を行ったという。海を離れ、山の盆地にたどり着いた将が、かつての戦を思い出すように池に舟を浮かべたと語られている。陸にあがった水軍の姿には、どこか哀しみと誇りが入り混じる。その余韻は、今も風のなかにほのかに漂っている。
二の丸西側に残る水堀と空堀
兵庫県立有馬高等学校の西側には、三田陣屋の二の丸の水堀と空堀が残されている。現在も地形に沿ってその痕跡が明瞭に残っており、かつての堀の幅を実感することができる。これらの堀は、本丸との間を隔てる防御線として設けられていたもので、三田陣屋の構造を今に伝える貴重な遺構となっている。また、水堀と空堀の間には、堀を横断する土橋の痕跡と見られる道も確認できる。周辺は学校施設に隣接しているものの、歩道脇からでもその一端を目にすることができる。
三田城の石碑
史跡三田城(三田陣屋)の石碑は道路脇にあり、その付近から、大池、二の丸の水濠・空堀が望める。三田小学校が本丸跡。付近は台地となっておりそこから城らしさを感じ取るといった具合の城跡。
井戸跡
有馬高等学校のエリアが二の丸跡で台地となっている。校内には三田陣屋の石組み井戸が残る。また、グランドに続く坂道にも、もうひとつ井戸跡が残る。
三田城の学びに役立つ本と資料
『九鬼義隆』(2011年鳥羽市教育委員会)が良い。大名九鬼嘉隆の生涯がその関係地とともに紹介されている。
三田城の撮影スポット
三田城の石碑は東向きに設置されているため午前中の撮影が良いぞ。
三田城の写真集
城郭カメラマン撮影の写真で探る三田城の魅力と見どころ「お城めぐりFAN LIBRARY」はこちらから。三田城周辺の史跡を訪ねて
三田陣屋の遺構に触れたあとは、周囲に静かに点在する九鬼家ゆかりの史跡を辿ってみたい。かつて三田藩政を支えた家老の屋敷や、陣屋の門を移築した寺院、そして歴代藩主の墓所まで、歩いて訪ねられる範囲に歴史の息づかいが残っている。風習とともに受け継がれてきた地元の暮らし、桃山の風を今に伝える寺の伽藍、そして遠く海を越えて伝わる九鬼嘉隆の終焉地もまた、この静かな物語の一部として響いてくる。陸にあがった水軍の記憶が、三田の町にそっと溶け込んでいる。
旧九鬼家住宅
三田藩の家老4人のうちのひとり、九鬼氏(藩主と同姓)の家老屋敷。明治初期に建てた屋敷で、擬洋風建築という珍しい建物。開館日には1階を見ることができ、2階部分は年に数回、特別公開がある。館内は資料が豊富でその後の九鬼家が分かる。また、5月5日「端午の節句」には、この地方では菖蒲とよもぎ(だと思う)を、屋根に投げ上げておく風習があり、地元の方が旧九鬼家住宅の屋根に投げ上げる姿を目にすることがある。旧九鬼家住宅は、10時〜16時まで。月曜・年末年始休館だが季節により開館日が異なるので要チェック。入場無料。
移築城門と九鬼家菩提寺
「金心寺(こんしんじ)」の山門は、三田陣屋の黒門が移築されている。ちなみにそのすぐ東に丘があり、古城公園と呼ばれている。遺構らしきものは無く、公園名にその名を残すのみ。
「心月院」は三田藩主九鬼家の菩提寺で、その総門などは、桃山時代の建築物で見応えがあるぞ。ここに九鬼氏歴代藩主の墓がある。(いずれも詳しい場所は、上記Googleマップでチェック)
九鬼嘉隆の墓は鳥羽の答志島
ちなみに、九鬼嘉隆の墓は、鳥羽城に面する鳥羽湾に浮かぶ離島「答志島」にある。関ヶ原の戦いで敗れ答志島の曹洞宗という寺で自刃した。現在、曹洞宗は石碑のみで、付近に、血洗い池と胴塚、鳥羽城を望む築上岬山上に首塚がある。
三田城のアクセス・所在地
所在地
住所:兵庫県三田市屋敷町2-20 [MAP] 県別一覧[兵庫県]
電話:079‑559‑5144(三田市まちづくり部 生涯学習支援室)
アクセス
鉄道利用
JR福知山線、三田駅下車、または、神戸電鉄三田駅下車、いずれも西へ徒歩15分(1.2km)三田小学校を目指す。
マイカー利用
中国自動車道、神戸三田ICから東へ約17分(5.9km)、三田小学校を目指す。旧九鬼家住宅前のコインパーキング、または、旧九鬼家住宅前西側の駐車場を利用する。
※本記事は城郭カメラマン岡 泰行(プロフィール)監修のもと編集部にて構成しました。
三田城に寄せて
これまでに届いた声:全1件

三田小学校のエリアが本丸で、道を挟んで有馬高等学校が二の丸。三田小学校の校長室の下には、台所跡の一部が調査時のまま保存されているのだとか。
( shirofan)さんより