松坂城は天正16年(1588)、蒲生氏郷が四五百森の独立丘陵に築いた城で、商都松阪の基盤を築いた。独立丘陵を活かした渦郭式の縄張りと高石垣を備える平山城だ。現在は天守台や本丸・二の丸の石垣が良好に残り、城郭構造を実感できる撮影地としても魅力がある。このページでは松坂城の歴史と構造、見どころや撮影スポット、周辺情報を豊富な写真とともに紹介する。
写真:岡 泰行(城郭カメラマン)
松坂城の歴史・見どころ
伊勢国中央部に位置する松阪の地は、古くから交通と流通の要衝として発展してきた。戦国期には北畠氏の勢力下にあり、天正3年(1575)には織田信長の次男・信雄が北畠氏を継承してこの地域の支配を担った。信雄は当初大河内城を本拠とし、のち田丸城へ移るが、天正8年(1580)には松ヶ島城を築いて移り住んだ。
しかし天正10年(1582)の本能寺の変により情勢は一変する。信雄は清洲城へ移り、松ヶ島城には家臣が置かれたものの、やがて羽柴秀吉の勢力下に組み込まれていく。天正12年(1584)、近江日野城主の蒲生氏郷が松ヶ島に入封し、南伊勢支配の拠点とした。
氏郷は入封後、松ヶ島城の立地に限界を見いだす。海岸に近く防御や発展に不利であるとして、内陸の四五百森に新城を築くことを決断した。天正16年(1588)、丘陵を利用して築かれた新城が松坂城である。築城と並行して城下町の整備も進められ、松ヶ島の住民を移住させるとともに楽市を実施し、商業の自由を認めた。さらに近江日野や伊勢大湊などから商人を招き、松坂は商業都市としての基盤を築いていく。
しかし氏郷は、築城開始から間もない天正18年(1590)、小田原合戦の功により42万石の太守として会津へ転封となる。翌年には服部一忠が入封するが、文禄4年(1595)、豊臣秀次事件に連座して改易となった。同年、吉田重勝が入封し、関ヶ原の戦いでは東軍として戦功を挙げ加増を受ける。重勝の代に城の整備が進み、松坂城はこの頃に完成したとみられる。
元和5年(1619)、松坂は紀州徳川家の領地となり、以後は城代が置かれて統治が続いた。江戸時代前期には天守が存在したが、正保元年(1644)の大風により倒壊した記録が残る。その後再建は行われず、寛政6年(1794)には二の丸に紀州藩の御殿が建てられたが、明治10年(1877)に焼失した。
明治期に入ると城郭建物は次第に姿を消したが、本丸・二の丸を中心とした石垣は良好に残された。松坂城は城郭としての役割を終えた後も、商都松阪の成立を支えた拠点として、その歴史を今に伝えている。
松坂城の特徴と構造
松坂城は四五百森(よいほのもり)と呼ばれる標高約38mの独立丘陵に築かれた平山城だ。丘陵は切通しによって北丘と南丘に分けられ、北丘の最頂部に本丸を置き、その周囲に二の丸・きたい丸・隠居丸を配し、外側を三の丸が囲む構造をとる。本丸を中心に曲輪が渦を巻くように配置される渦郭式の縄張りが特徴だ。なお、南丘は城の鎮守として八幡宮が勧請された。
防御面では、北を流れる阪内川や外郭の水堀・深田堀を取り込み、さらに高石垣を多用して堅固な城郭を形成した。本丸には三層の天守が築かれ、敵見櫓や金の間櫓などの櫓と多聞櫓で連結される連立式天守の構えを備えていた。金の間櫓は2層の櫓で、金箔を貼った「金の間」があったとされる。
また、表門や裏門周辺には枡形が連続して設けられ、侵入経路を折れ曲げることで防御性を高めている。石垣は築城当初の野面積みに加え、後世の改修による打込みハギや算木積みも確認でき、時代ごとの技術の変化を読み取ることができる。築城に際しては古墳時代の石棺の蓋などの石材も転用された。
松坂城の整備状況
現在の松坂城跡は松阪公園として整備され、天守台や本丸・二の丸の石垣が良好に保存されている。建造物は残っていないが、もと隠居丸にあったとされる米蔵が、現在は「御城番屋敷土蔵」として現存している。さらに三の丸跡には、江戸時代後期に建てられた「御城番長屋(東棟・西棟)」が現存し、現存する武家長屋としては最大規模の遺構の一つとされる。曲輪配置や石垣の規模から往時の構造を具体的に読み取ることができる。隠居丸には本居宣長旧宅が移築され、歴史文化の拠点としても活用されている。
近年は史跡としての価値が再評価され、平成23年(2011)には国指定史跡となった。松阪市による保存整備が進められ、石垣の保全や案内表示の充実など、見学環境の整備が継続して行われている。来訪者は城郭構造を辿りながら歩くことができ、往時の姿を具体的に感じ取ることができる。
参考文献:
- 『日本城郭大系10』(新人物往来社)
- 『松阪の城跡めぐり』パンフレット(松阪市)
※「松阪」と「松坂」の表記について
松阪は明治22年(1889)の町制施行に際し、地名表記を「松坂」から「松阪」へ改めた。現在の市名や地名は「松阪」と表記されるが、城郭については史跡名称に従い「松坂城」と記す。
松坂城の撮影スポット・絶景ポイント
松坂城の写真集
城郭カメラマンが撮影した「お城めぐりFAN LIBRARY」には、松坂城の魅力を映す写真が並ぶ。事前に目にしておけば現地での発見が鮮やかになり、旅の余韻もいっそう深まる。
松坂城周辺の観光スポット・史跡めぐり
御城番屋敷
松坂城裏門跡を出た先、石畳の道の両側に武家屋敷が整然と並ぶ一画が広がる。ここはかつて松坂城三ノ丸にあたり、現在も往時の面影を色濃く残す場所だ。槇垣に囲まれた屋敷群は「御城番屋敷」と呼ばれ、城を警護する松坂御城番の武士とその家族が暮らした組屋敷である。
この屋敷は文久3年(1863)、紀州藩への復帰が叶った御城番武士の住居として整えられたものだ。御城番の祖は、徳川家康の先鋒として活躍した横須賀党にさかのぼり、のちに紀州藩に仕え「田辺与力」として各地の警備にあたっていた。江戸時代末期の変転の中で一時は藩を離れるが、その後再び召し抱えられ、この地に住まうこととなった。
約1ヘクタールの敷地には、東棟10戸・西棟9戸の主屋を中心に、前庭や畑地、土蔵などが配置されている。現存する江戸時代の武家長屋としては最大規模の遺構の一つとされ、平成16年(2004)に国指定重要文化財となった。現在も子孫が居住しながら維持管理が続けられており、一部は公開され、当時の武士の暮らしを今に伝えている。
鈴屋(本居宣長旧宅)
江戸時代中期の国学者・本居宣長が、12歳から72歳で没するまで暮らした旧宅。『古事記伝』をはじめ数多くの著作が生まれた書斎を「鈴屋」と呼んだことが建物名の由来で、現在は松坂城跡の二の丸に移築・復元され、国の特別史跡に指定されている。隣接する本居宣長記念館と共通入場料で見学できる。
城下町の見どころ
城の近くには「松阪木綿センター」「松阪商人の館」「岡寺山継松寺」などがある。岡寺山継松寺の郷土玩具「さるはじき」が有名で、駅前の観光案内センターなどで購入できる。
松坂城周辺グルメ・名物料理
松阪牛の王道なら、この2軒「和田金」と「牛銀本店」
松坂城が徳川の世に城下町として栄えた背景には、木綿商人たちが運んだ富がある。その富が育てたのが、地元では「まつさかうし」と呼ばれる松阪牛の食文化であり、その頂点に立つのが「和田金」だ。江戸末期創業、一度の訪問に数万円は覚悟したい。それでも「松阪に来たなら」と人が向かうのは、城を歩いた後の高揚感が、どこかそれを正当化するからかもしれない。
対になる一軒が「牛銀本店」。明治35年創業、すき焼きの割り下は醤油と砂糖のみ。120年以上、それ以上を足さなかった店だ。予算は1万円前後から。和田金が特別な日に、牛銀は松阪の日常の側にいる。
一升びん 本店
松阪牛を聖域にしない、という店がある。A5ランクを一頭買いして焼肉で出す。それが一升びんの流儀で、地元の人間が普通に通う理由でもある。4,000円前後あれば松阪牛をしっかり味わえる、この街では貴重な一軒。城下の格式より、今夜の満足を取る人へ。
とんかつ野崎
松阪牛なのに、なぜとんかつ屋なのか。答えはA5ランクの松阪牛を氷温熟成させたカツレツにある。揚げることで脂の甘みが閉じ込められ、ステーキとは別の顔を見せる。城跡で「知らなかった歴史」に出会うように、この一皿にも予想を裏切る発見がある。価格はランチなら3,000〜4,000円台と、松阪牛としては試しやすい部類だ。
松坂城アクセス・駐車場・営業時間
所在地
住所:三重県松阪市殿町
県別一覧:[三重県の城]
電話:0598-23-7771(松阪駅観光情報センター)
アクセス
鉄道利用
JR紀伊本線、または近鉄山田線、松阪駅下車、西へ徒歩約18分(1.2km)。
マイカー利用
東名阪自動車道、松阪ICから、東へ約10分(5.7km)、松坂城の北にある松阪市駐車場(無料)を利用する。
松坂城周辺ホテル・宿泊情報
JR松阪駅周辺にはビジネスホテルが点在し、いずれも手頃な価格で利用しやすい。一方、城跡のほど近くに佇む「割烹旅館 八千代」は、趣の異なる一軒だ。大正4年(1915)創業の割烹旅館で、建物は国の登録有形文化財に指定されている。松阪で料理屋と宿屋を兼ねる数少ない宿であり、全室個室のため落ち着いた空間で食事を楽しめる。料金は決して安くはないが、松阪牛を主とした牛肉懐石に舌鼓を打ちつつ歴史ある建物に泊まるひとときは、旅の締めくくりにふさわしい。
松坂城をより深く学ぶ展示・資料館・学習スポット
古文書関係は松阪市図書館2階の郷土資料室に、埋蔵文化財資料は文化財センターに収蔵されている。城跡周辺では、松阪市立歴史民俗資料館に金箔瓦が展示されているほか、市役所内には想像復元による天守模型がある。なお、甲冑や刀剣の展示はない(加納覚1999)。
松坂城:城ファンの知見と記録
松坂城を訪ねた人たちが残してきた記録です。現地での発見や知見が寄せられ、城歩きの文化の中で育まれてきた経験がここに蓄積されています(全5件)。
松坂城でのひとときを、そっと記録に残す





松坂城は非常にきれいな野面積みの石垣です。発掘調査の結果、天守閣を支える基礎部分に割石が敷き詰められていたことが解ったそうです。
記録:Haru 2021
松阪城跡の石碑は、実は要チェック。裏千家の千宗室氏自筆による書が刻まれている。秀吉によって自刃させられた千利休の弟子、蒲生氏郷が千家を保護し、その感謝として、刻まれた文字だ。
記録:いずみ 2014
平成の石垣大改修完成を記念した松阪城跡ガイドブック「松阪城再発掘 氏郷天正1588年の都市計画とその後」が発行されています。定価780円。カラーではないのですが、天守復元図や総構え発見された古写真、石に刻まれた文字などが載っています。
記録:加納 覚 2005
1584(天正12)年、蒲生氏郷は、松ヶ島の領主に任じられた。しかし、不便なため、四五百森に三層の天守閣を中心に金の間櫓等11棟の建物を建造。そして、吉祥の木「松」と秀吉の大坂(大阪)から「松坂」と名づけた。近江日野から商人を呼び寄せ楽市楽座をしいたが、2年で会津若松へ。その後、服部一忠,古田重勝・重治が領し、1619(元和5)年から明治維新まで紀州藩に統治、城代がおかれた。城の完成は、古田重勝時代だそうだ。
記録:加納 覚 1999
今は公園になっている。桜と藤が有名。
記録:加納 覚 1999