写真:岡 泰行

桑名城の歴史と見どころ

桑名城は、東海道五十三次の要衝で、木曽川、長良川、揖斐川の木曽三川が伊勢湾にそそぐ河口に位置する水城。文治2年(1186)、桑名三郎行綱が支配したことに始まる。天文11年(1542)には、伊藤武左衛門実房の東城、矢部右馬允主繁の三崎城、樋口内蔵介親氏の西城の3つの城があった。このうち、東城がその前身とされる。

木曽三川が伊勢湾にそそぐ河口に位置する桑名城
木曽三川が伊勢湾にそそぐ河口に位置する水城であることが分かる(Google Earth)

天正2年(1574)、織田信長の伊勢侵攻により、桑名は信長配下の滝川一益の所領となる。伊勢長島城を拠点とし三城を支配下に置いた。天正11年(1583)、織田信雄に味方した秀吉配下の天野景俊が入るが、天正12年(1584)には織田信雄と秀吉が対立、信雄に味方した家康の家臣、酒井忠次と石川数正が入った。

その後、天正19年(1591)に一柳右近が桑名に入った時、桑名城を築城した。文禄4年(1595)、美濃三人衆のひとり、氏家ト全の長男である氏家行広が城主となるが、関ヶ原の戦い後、所領を没収され、慶長6年(1601)に本多忠勝が城主となり10万石を領した。忠勝は城を改修、10年の歳月をかけ、慶長15年(1610)に巨大な桑名城を完成させた(同年、忠勝は没する)。桑名城が本多忠勝の城と称されるのは、これが基礎となっている。

大坂の役の後の元和2年(1616)、豊臣秀頼に嫁いでいた千姫と、忠勝の嫡子で「七里の渡し」を警護していた忠刻が船中で会い、恋に落ちたという逸話がある。千姫は忠刻と結婚後、桑名城内に住んだ。元和3年(1617)、父の忠政とは別に新たに10万石を与えられ姫路城に移った。

替わって山城国伏見城より松平定勝が入り、吉之丸・外朝日丸など桑名城を拡張した。寛永12年(1635)、大垣城から三男定綱が桑名に入封し、4重6階の天守を築くなど城を大改修した。

元禄4年(1691)、桑名で一泊し「七里の渡し」を渡り江戸に向かったドイツ人医師ケンペルは次のように、桑名城と城下町について書いている。
「桑名は入り江になった港に臨んだ尾張国(正しくは伊勢の国)の最初の大きな町である。町は三つの地区、すなわち互いに連絡はしているが、別々の小さい町から成っていて、われわれの宿舎がある町はずれまで通りぬけるのに45分以上かかった。最初と最後の地区は、築き上げた低い堤防と堀に囲まれ、立派な門と番所がある。これに対して中の地区は堤防もなく、土地は低く、川がたくさんあり、水に囲まれている。この地区の南側の水中に、松平伊豆守(正しくは松平越中守定重)の居城が高くそびえていて、銃眼のあいた城壁は美しい屋根で覆われ、櫓が近い間隔で建てられている。(中略)城は石垣を築いた深い堀で町と区切られているが、二つの橋で行き来できる。他の側は海に面している。城の中央には日本流に作られた屋根のある四角の白い天守が高くそびえ、見るからに立派である。」

元禄14年(1701)、大火で天守や多くの櫓を焼失、天守は再建されなかった。その後、松平(奥平氏)、松平(久松氏)などが入るなど城主は替わり、二度目に入封した松平(久松氏)定敬のとき明治を迎えることとなる。

慶応4年(明治元年・1868)、戊辰の役で桑名藩は、城主、松平定敬が、尾張名古屋城主の徳川慶勝、会津若松城主松平容保の弟にあたるため官軍に背き、やがて新政府軍に敗北する。このため桑名城は討幕軍から砲撃をうけ壊滅状態となり、開城時に火を放ったため灰燼に帰した。

桑名城の特徴と構造

桑名城の規模は大きく、櫓51(三重櫓3・二重櫓24 ・附櫓24)、多門櫓46、井戸14、水門3があり、城下町を含む総構を有した。また「七里の渡し」も含めた築港工事とともに城下町も整備した。この地理的な広がりから別名「扇城」とも言われている。

蟠龍櫓

桑名城の蟠龍櫓
昭和3年(1928)に、松平定信没後百年祭記念のため桑名城の本丸跡と二之丸跡が九華公園(きゅうかこうえん)として整備された。 ツツジや桜の名所となっている。平成15年(2003)、国土交通省水門統合管理所として蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)(二層櫓)が外観復元された。また、建築遺構として三の丸御殿は浄泉坊に、了順寺にはその山門として城門が移築現存している。

三の丸の堀に当時の石垣

桑名城三の丸の堀と石垣現在の桑名城跡に立つと、本丸、二の丸の曲輪や水堀がそのまま残り、ただ石垣が払い下げられ四日市市築港に用いられたため、かつての威容は感じずらい。三の丸の堀には当時の石垣が残っており(写真)、蟠龍櫓や七里の渡しから見る長良川と木曽川の風景はかつての都市を想像させるに充分な広大さがある。

神戸櫓跡

桑名城神戸櫓跡桑名城本丸の西南には隅櫓があり、これを神戸櫓と称した。伊勢神戸城から移築された三重櫓があった。

天守台跡

桑名城天守台跡鎮国守国神社の北東には桑名城の天守台の痕跡が残る。その頂上には戊辰殉難招魂碑が建つ。鎮国守国神社には、藩祖松平定勝の第3子である松平定綱と9代松平定信が祀られている。明治維新後は城外に移ったが明治40年(1907)に再び本丸跡の現在の場所に移った。

本丸井戸

桑名城本丸井戸(高靇神社)本丸井戸。本丸跡の高靇(たかおかみ)神社には井戸があり説明板には「藩祖松平越中守定綱公本丸に一井を掘り高靇神を崇め、本城(桑名城)鎮護・延命長寿子授け・子育てを願い奉祀る」とある。

刻印石

桑名城跡に残る刻印石桑名城跡(九華公園)の管理事務所付近には、刻印石が5つ屋外展示されている。写真はそのうちのひとつ、蜂須賀家の刻印の可能性があるもの。

辰巳櫓跡

桑名城辰巳櫓跡桑名城本丸の東南隅に位置する辰巳櫓跡。元禄14年(1701)の大火で天守が焼失した後は、辰巳櫓跡がその替わりとなった。辰巳櫓は、明治の開城時に新政府軍に焼き払われた。大砲が置かれているがそのいきさつは解らないらしい。

参考文献:『日本城郭大系10』(新人物往来社)・桑名市Webサイト・『江戸参府旅行日記』(平凡社)

桑名市博物館

寛政の改革で知られる松平定信関係資料、桑名藩関係資料などが豊富。博物館はJR・近鉄桑名駅より東へ徒歩15分。

桑名の寺町

桑名城下には寺町があるが、かつは数多くの寺院が建ち並んでいたそうだ。江戸時代の桑名の人口の多さを感じ取ることができる。第二次大戦の空襲でそのほとんどを消失、戦後、再建できなかった寺が多く現在の数となったそうだ。

桑名城の撮影方法

水堀と曲輪が残る桑名城。各曲輪には当時の石垣がまとわれていない。ということは、その水堀に浮かぶ陸地(曲輪)が美しい状態を捉えたい。この城は概ね午後の撮影が向いているので、夕方で水が鏡面反射する「無風」の日に訪れたい。

桑名城の写真集

城郭カメラマン撮影の写真で探る桑名城の魅力と見どころ「お城めぐりFAN LIBRARY」はこちらから。

桑名城の関連史跡

七里の渡し東海道五十三次の「七里の渡」は見ておきたい。歴史好きなら必ずといっていいほど聞いたことがあるはずだ。桑名城下は東海道が走り、蟠龍櫓付近で海路をゆく「七里の渡」がある。その名の通り、ここから約4時間をかけて7里の距離を渡し船で渡っていた。すぐ近くの道路は東海道で、船津屋(大塚本陣跡・脇本陣「駿河屋」跡)などがある。

付近の有名な城では、桑名城の櫓に転用された神戸城。その他、津城、鳥羽城松坂城なども近い。ちなみに三重県で現存する城郭建築は亀山城の多聞櫓のみ。

桑名城のおすすめ旅グルメ

桑名の蛤

専正寺にある蛤の碑「蛤墳(こうふん)」桑名城の城下に珍しい碑がある。今一色という地域にある専正寺に建つ「蛤墳(こうふん)」だ。これは蛤(はまぐり)の供養墓。揖斐川の住吉浦付近から伸びるまるで外堀のような川があるが、城の堀かどうか確認すべく歩いた。川は荷揚げのための船入堀で現在もその景観のため残されているといった風景に感じた。この地は江戸時代初頭、専正寺付近一帯は漁村で、蛤(はまぐり)の貝殻で地面が厚く覆われていた。

元禄4年(1691)、「七里の渡し」を渡ったドイツ人医師ケンペルは縄生村(桑名の南約3kmにある村)を通過した際に、この村では特筆すべきことは何も無いとしながらも、その特色としてこう書き残している。「ただ一つ言っておきたいのは、縄生村で松かさを燃やしてハマグリという貝を焼いているのを見たことである」それほど他とは異なりを感じた風景だったに違いない。

専正寺のご住職によると、今でも家などを建てる際に地面を掘ると、貝殻が大量に出土するのだそうで、境内のボーリング調査では約1.5mもの貝殻の層が地中に確認されたそうだ。それくらい蛤が獲れた。

「蛤墳」は文政6年(1823)、地元住民の谷氏が無尽蔵の貝殻を見てこれだけ殺生したのかと供養塔を建立した。この時は小規模のものだったらしいが、その後、大正時代に入り「桑名の蛤」の全国的な宣伝が行われ、商売繁盛の御礼にと時雨蛤の業者が現在の姿に改築した。今でも業者さんは年に2回供養に訪れるのだとか。最近も手前の献花台を新しく寄付されたそうだ。上部の石に窪みがあるのは蛤の貝がイメージされており、少し見えにくいが中央に「蛤墳」と刻まれている。上から2つ目の石は、座布団を模している。

桑名城が面する揖斐川と長良川、さらに東の木曽川を合わせ木曽三川という。近年、長良川に河口堰ができてしまい、海水と淡水が入り交じる砂場が減少、干拓事業も影響し、蛤は昔ほど捕れなくなってしまった。ゆえに値段が高い。桑名を訪れると、蛤をどこで食べるといいものかピンと来ないが、桑名城の南にある桑名港(赤須賀港)の「はまぐりプラザ」で気楽にか、最近では蛤のフルコースセットがある「蛤一択」、また、老舗の「魚重楼」や「料亭 日の出」あたりが有名なのだそう。地元では普段あまり蛤は食されず、アサリがめっぽう主らしい。例えば居酒屋でアサリの汁ものが無くなってしまって返す言葉で「蛤の汁ものなら」となるそうだが、財布へのダメージを考えて普段は丁重にお断りするのだとか。

桑名という土地は、大垣城下とも関係が深い。揖斐川の水運で繋がっていたからだ。現在の交通網を見ても養老鉄道で桑名と大垣は結ばれている。大垣にも桑名の蛤が流通したようで蛤の塚があるらしい。が、これは芭蕉が奥の細道の旅を大垣で終わらせ、大垣を離れる際に詠んだ、親しい人と離れることを惜しんだ句「蛤のふたみに別行秋ぞ」が刻まれている句碑らしい。そういえば芭蕉の句碑は各地の城でもよく見かけるが全てスルーしていたのがここにきて少々悔やまれた。

旅の途中、専正寺のご住職とダンディな檀家様にいろいろとご教示いただきました。記して御礼申し上げます。

桑名城のアクセス・所在地

所在地

住所:三重県桑名市吉之丸 [MAP] 県別一覧[三重県]

電話:0594-24-1136(桑名市役所)

開館時間

桑名城跡は散策自由。

アクセス

鉄道利用

JR関西本線、近畿日本鉄道いずれも桑名駅下車、東へ徒歩20分(1.6km)。九華公園が桑名城跡。

マイカー利用

伊勢自動車道、桑名ICから東へ13分(5.4km)。柿安コミュニティパーク有料駐車場(65台・9時〜18時)有り。

城ファンの気になるところ (8)

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    神戸城天守を隅櫓に転用していた。現在はその跡のみ残る。

    ( 半兵衛)

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    城下の七里の渡し跡そばにある、漁船の船溜まりと呼ばれるところがあるが、ここは桑名城の外堀。

    ( 半兵衛)

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    51の櫓、46の多聞・城門を有する大城郭。慶長6年(1601)、本多忠勝の築城。幕末の政府軍の攻撃で落城。残った資材は、石垣を港建設の材に用いたりするなどされ、現在はその面影を一部の水堀からしかしのぶこができない。

    ( 半兵衛)

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    「歌行燈」釜揚げうどんは絶品。桑名名物のはまぐり御前も。

    ( 半兵衛)

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    桑名城は城の本で見かける写真では水堀が印象的ですが、実際に行ってみると水堀がとても大きくてきれいでした!今回は九華公園グラウンド側から入城したので、桑名城に着くといきなり大きな水堀が目に映りました。橋を渡って吉之丸に行くのは湖の上を歩いているみたいで、ほかの城ではあまり経験できない感じです。さらに大砲が置かれている辰巳櫓跡から水堀を見下ろす風景はいいです。本丸西南部分のトイレの脇に神戸櫓跡があって、ここには伊勢神戸城の天守が移築されていたようです。またこのあたりには戦国時代に伊藤氏の桑名東城があったそうです。神戸櫓跡の北10mぐらいに「三重県指定史跡桑名城跡」の石碑がありました。本丸跡にある鎮国守国神社にお詣りした後、九華橋を渡って二の丸を北上し、本多忠勝の銅像を見ました。岡崎城の本多忠勝像は蜻蛉切を持っていましたが、桑名城の本多忠勝像は蜻蛉切が背後に立てかけられているのですね。どちらもかっこいいです!このとき天守台跡を見忘れたのに気付いたので、引き返して天守台跡と剣型の碑を見ました。剣型の碑を見ていると遠く北方に二層櫓風の建物が見えたのですが、よくあるバッタモン櫓だと思いました。でも七里の渡しの方向なので、三の丸御殿跡を経由して行ってみました。近づくと工事中で、上層はほぼ完成し、下層と入口の工事中でした。完成予想図や工事の解説板があり、一応復元の蟠龍櫓だとわかりました。その後、七里の渡し跡や三の丸堀の石垣を見ました。三の丸堀の石垣の脇にはボートがたくさん泊めてあって壊れている部分もあり、管理は大丈夫なのかと思いました。時間がまだあったので博物館に向かいましたが、残念ながら休館でした。それで近くの京町見附跡を見ましたが、ほかの見附跡までは行けませんでした。春日神社に参詣して大鳥居を見ました。さらに桑名城方面に戻り、中橋を渡るとまた三の丸堀の石垣がありました。七里の渡しからずっと石垣が続いているのはすごいです。結局、桑名城に戻り、見忘れていた扇橋の前の桑名城絵図を見ました。なんかやたら遠回りをした気をしつつ桑名駅に行って田丸城に向かいました。

    ( Sugawara)

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    桑名城は「東海道五十三次」に、ムチャクチャヘンなカッコした櫓が描かれていたのにものすごいインパクトをうけ、更に正保城絵図に松本城ガン似な連立天守が描かれていたのを見た小学生時代、一度は見てみたい!と思ったものです。モチロン今や内堀しか残ってないそうですが。ただ、手元にある昭和35年日本城郭協会発行の「日本城郭全集」によると内堀の石垣は残っている・・冷静に考えれば数十年前だ、今と混同してはイカン。果たして、広大な水濠に幾多の櫓を連ねた往時の桑名城の姿やいかばかりであったか、天守は正保城絵図にあるごとく層塔式の背の高い天守であったか、あるいは望楼式の末広がりの概要であったか。揖斐川沿いの長塀、単層櫓が立ち並ぶ様は如何ばかりなものであったか。いずれも想像の彼方ですね。

    ( Akira)

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    桑名城は石垣はほとんど残っていませんが、堀は残っております。三の丸の堀は一部ですが往時の姿をとどめております。また、近くには桑名市立博物館(そんなに大きくないですが)があります。あと、城から少し離れたところ(揖斐川沿い)に六華苑というところがあります。ここは明治時代にたてられた地元のお金持ちのお屋敷で大名屋敷のような門をくぐると西洋屋敷(明治村にあるような)と純和風屋敷があります。お時間がありましたらここも行ってみるとおもしろいと思いますよ。

    ( Haru)

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    明治時代に四日市港の築港工事のために石垣を取り壊して持っていってしまったそうです。ちなみに神戸城の天守が「神戸櫓」として移築されたそうです。

    ( カンダタ)

城の情報

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