神戸城は貞治6年(1367)に始まる神戸氏の本拠で、天文年間から弘治年間にかけて築かれた城だ。北伊勢の平野中央部に築かれ、本丸・二の丸を備えた平城として発展した。現在は天守台や堀が残り、公園として整備された城跡を歩きながら往時の規模を感じ取ることができる。このページでは神戸城の歴史や構造、遺構の見どころを豊富な写真とともに紹介する。
写真:岡 泰行(城郭カメラマン)
神戸城の歴史・見どころ
神戸城(かんべじょう)は、伊勢国北部の平野に勢力を築いた神戸氏の本拠として発展した城だ。神戸氏の祖は、貞治6年(1367)、関盛政の長男盛澄が西条に沢城を築いて神戸を称したことに始まる。以後、実重・為盛と続き、為盛の跡を北畠氏の血を引く具盛が継いだことで、神戸氏は北伊勢における有力勢力として地位を確立していく。
16世紀中頃、具盛の時代に神戸城が築かれたとされ、天文年間(1532〜1555)から弘治年間(1555〜1558)頃にかけて整備が進んだとみられる。のち利盛は城を沢から神戸へ移し、岸岡城・高岡城など周辺の支城を配置して防衛網を整えた。利盛は弘治3年(1557)、近江の六角氏に関わる戦いの中で一時神戸城を奪われるが、岸岡城を奪回して拠点を取り戻し、さらに長野城主工藤氏の援軍を得て神戸城を奪還した。
利盛の没後は弟友盛が家督を継ぐ。友盛は永禄年間(1558〜1570)を通じて各地の戦いで武名を挙げ、六角氏と婚姻関係を結ぶことで勢力を維持したが、永禄10年(1567)、織田信長の伊勢侵攻が進む中、情勢は大きく変化する。翌永禄11年(1568)、滝川一益の攻撃を受けた友盛は、信長の三男信孝を養子に迎える条件で和睦し、神戸氏は織田政権の支配下に入った。
元亀2年(1571)、友盛は隠退し、信孝が城主となる。信孝は天正8年(1580)に神戸城の大規模な拡張を行い、本丸・二の丸を備えた城郭へと改修し、天守や二の丸御殿を整備した。しかし天正10年(1582)の本能寺の変後、信孝は織田家中の争いに巻き込まれ、天正11年(1583)に自害する。以後、神戸城は支配者が相次いで交替する状況となった。
天正年間後半には、生駒親正や滝川雄利、水野忠重らが入封するが、関ヶ原の戦い後に大きな転機を迎える。慶長6年(1601)、一柳直盛が入城し、三十五年間にわたり支配したのち、寛永13年(1636)に移封となる。この間に城の一部は破却され、建物は桑名城や亀山城へ移されたと伝わる。
その後、神戸城は一時天領となり、慶安3年(1650)に石川総長が入封するが、享保17年(1732)に転封となる。これに代わって本多忠統が一万六千石で入封し、荒廃していた城の再建が行われた。寛延元年(1748)には櫓や門などが整備され、城としての体裁が整えられた。本多氏は以後明治維新まで続き、廃藩後に城郭の大半は失われた。
神戸城の特徴と構造
神戸城は、北伊勢の平野中央部に築かれた平城で、本丸・二の丸を中心に南北約600m、東西約900mに及ぶ規模を持つ。
天正8年(1580)の拡張によって城郭としての骨格が整えられ、本丸には天守が築かれたと伝わる。五層の天守に小天守を伴う構成だったと伝わる。二の丸には御殿が置かれ、政務と居住の中心を担っていた。
江戸時代中期、本多氏による再建では天守は設けられなかったが、二重櫓・単層櫓・太鼓櫓・大手門・大手橋などが整備された。これにより軍事的機能よりも藩政拠点としての性格が強まった。現在は天守台や堀の一部が残る。



神戸城の整備状況
現在の神戸城跡は公園として整備され、天守台や堀跡を中心に保存が図られている。園内には解説板が設置され、神戸氏の成立や北伊勢における勢力拡大の過程、織田政権との関係などを理解できるようになっている。
三重県の資料でも、神戸氏は北勢地域の有力勢力として位置づけられており、その拠点である神戸城跡は地域史を学ぶ場として活用されている。市街地の中にありながら、かつての城域の広がりを感じ取ることができる場所となっている。
参考文献:
- 『日本城郭大系10』(新人物往来社)
- Webサイト「歴史の情報蔵 神戸氏の盛衰」(三重県環境生活部文化振興課)
神戸城の撮影スポット・絶景ポイント
神戸城の写真集
城郭カメラマンが撮影した「お城めぐりFAN LIBRARY」には、神戸城の魅力を映す写真が並ぶ。事前に目にしておけば現地での発見が鮮やかになり、旅の余韻もいっそう深まる。
神戸城周辺の観光スポット・史跡めぐり
蓮花寺に移築櫓「太鼓櫓」
三重県鈴鹿市東玉垣町の蓮花寺に立つ鐘楼は、かつて神戸城二の丸にあった太鼓櫓を移築したものだ。太鼓櫓は城内で時刻を知らせる役割を担った建物で、江戸時代の再修築時の姿を伝えている。廃城後に寺院へ移され、現在もその構造を残す貴重な遺構として鈴鹿市の指定文化財となっている。
顕正寺に移築城門「大手門」
神戸城の大手門を移築したと伝わる顕正寺山門は、四日市市指定有形文化財に指定されている。冠木門に切妻屋根を重ねた高麗門形式で、太い角柱と腕木で出桁を支える構造を持つ。本瓦葺・一軒半繁垂木、雁股懸魚などの意匠が見られ、江戸時代中期の建築と考えられている。
神戸城大手門鬼瓦
同顕正寺には、神戸城大手門鬼瓦が保存されている。明治9年(1876)2月、神戸城より移築されるも、平成6年(1994)の26号台風により被災、平成8年(1996)の屋根葺替により顕正寺境内に保存されている。
近郊の城
神戸城近郊で有名な城は、桑名城、津城、田丸城、鳥羽城、松阪城なども近い。ちなみに三重県で原位置にて現存する城郭建築は亀山城の多門櫓のみだ。
神戸城アクセス・駐車場・営業時間
所在地
住所:三重県鈴鹿市神戸5丁目10-22 [地図を見る]
県別一覧:[三重県の城]
電話:059-382-9031(三重県鈴鹿市文化スポーツ部文化財課)
アクセス
鉄道利用
近鉄鈴鹿線、鈴鹿市駅下車、徒歩約10分。
マイカー利用
東名阪自動車道、鈴鹿ICから24分(13.2km)。神戸公園駐車場(無料)有り。
地図
神戸城周辺ホテル・宿泊情報
観光地ではないため、近鉄平田市駅等、鈴鹿サーキット寄りにホテルがあるのでそちらを利用すると良い。
神戸城:城ファンの知見と記録
神戸城を訪ねた人たちが残してきた記録です。現地での発見や知見が寄せられ、城歩きの文化の中で育まれてきた経験がここに蓄積されています(全7件)。
神戸城でのひとときを、そっと記録に残す







神戸城の天守台は切り出した石材じゃなくて(多分)あちこちの河原から転がってた石を運んできて積んだようですね。中には墓石や灯籠なんかも混じってます。付け櫓か宇和島城天守のように玄関があったような構造になってます。
記録:Haru 2021
大手門が顕正寺山門として移築されています。境内には使用されていた鬼瓦もあります。
記録:半兵衛 2010
公園になっている為、駐車場もあり。城址の周りの城下町には寺が複数あるが、神戸城に本多家が入った時に近隣の寺家を集めたそうです。神戸公園から鈴鹿市駅の方面の道は当時の防御的な入り組んだ道が当時の町の情景を思わせます。隣の神戸高校校内のテニスコートあたりが藩校址で、その当時からある楠が今もあります。資料としては、高校に以前まであった郷土史研究部が集めたものがありましたが、今は残っているかどうか。私も通った母校です。
記録:武田勝頼 2002
神戸城は、桑名城の隅櫓へ転用されたと言われています。
記録:光秀 1999
かつては5層の天守があったと推測されています。東玉垣町蓮華寺に太鼓櫓、四日市市顕正寺に神戸城大手門が移築され残っています。
記録:半兵衛 1998
城址には神戸(織田)信孝築造の天守台と本丸の堀及び土塁の一部が残っています。天守台は野面積みで石材の一部に墓石なども使われています。
記録:Haru 1998
神戸(かんべ)氏の居城を神戸氏の養子となった織田信長の三男信孝が大改修して天守をあげた。この天守は後に桑名城に移築された。江戸時代に再修築され二重櫓(鯱が市役所に現存)、二の丸太鼓櫓(蓮花寺に移築現存)などが作られた。
記録:Haru 1998