亀山城は天正18年(1590)、岡本宗憲によって築かれた近世城郭だ。台地上に本丸・二の丸・三の丸を配した平山城で、東海道の要衝に位置する。現在は多門櫓(多聞櫓)や石垣が残り、市街地に外堀や大手門跡など往時の面影を伝えている。このページでは亀山城の歴史と特徴、遺構の見どころを豊富な写真とともに紹介する。
写真:岡 泰行(城郭カメラマン)
亀山城の歴史・見どころ
亀山城(かめやまじょう)は、天正18年(1590)に岡本宗憲によって築かれた近世城郭といえる。その前段には、若山の丘陵に築かれた古城、いわゆる若山城(丹陵城)の存在があり、亀山の地は中世以来、城郭の拠点として受け継がれてきた。古城は文永元年(1264)、関氏の祖とされる平実忠によって築かれたと伝えられ、以後関氏の本拠として機能した。
南北朝期には関盛政が帰還し城を修築、北畠氏と結びついて伊勢の政治・軍事に関わった。関氏は一族を各地に分け、亀山を中心に北伊勢の支配体制を築いていくが、戦国期には近江六角氏や織田信長の勢力に翻弄されることとなる。永禄11年(1568)には織田信長の侵攻を受け、関氏は信長に従属するに至った。
その後、元亀2年(1571)には関盛信が一向一揆と通じたことで幽閉されるなど、城は不安定な状況に置かれる。天正11年(1583)、羽柴秀吉と柴田勝家の争いの中で亀山城は奪い合いの舞台となり、盛信は秀吉の援軍を得て城を奪還した。
天正18年(1590)、豊臣政権の成立に伴い、岡本宗憲が入封する。宗憲は従来の若山城が狭小で老朽化していたことから、豊臣秀吉に願い出て東南の丘陵地に新城を築き、大規模な城郭整備を行った。本丸・二の丸・三の丸を配し、三層の天守を備えた近世城郭としての亀山城がここに姿を現す。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い後、岡本氏は改易され、三宅康貞が入城する。その後、関一政が入るなど城主の交替を経て、松平忠明の時代を迎えるが、元和元年(1615)に忠明が大坂城へ移ると、城は代官支配となった。元和5年(1619)、三宅康信が一万石で再び入封し、その後、康盛へと城主が受け継がれていった。
ここで、亀山城の姿を大きく変える出来事が起こる。寛永9年(1632)頃、幕府は堀尾忠晴に丹波亀山城の修理を命じたが、これが伊勢の亀山城と取り違えられたため、康盛のもとで天守の解体と石垣修理が行われた。誤りはのちに判明したものの、いったん取り壊された天守は再建されることはなかった。
この出来事ののち、本丸東南隅櫓(多門櫓)が築かれ、天守に代わる象徴的建物として機能するようになる。その後、寛永13年(1636)には三河国西尾城より本多俊次が五万石で入封し、城の大規模な修築が行われた。俊次は櫓や塀の整備を進め、本丸北側の三重櫓を天守の代用とした。この頃、城壁が連なる様から「粉堞(ふんちょう)城」とも呼ばれたとされる。
以後、慶安4年(1651)に石川昌勝、寛文9年(1669)に板倉重常が入るなど城主の交替が続くが、延享元年(1744)に備中松山城より石川総慶が入封して以降は、石川氏が亀山藩主として定着する。石川氏は十一代にわたり城主を務め、幕末までこの地を治めた。東海道の宿場町として発展した城下とともに、亀山城は北伊勢の政治・交通の要衝として機能し続けた。
明治6年(1873)、廃城令により亀山城は廃城となる。近世を通じて城の中核を担った建造物の多くは失われたが、多門櫓や石垣はその後も残り、往時の姿を伝える遺構として現在に至っている。
亀山城の特徴と構造
亀山城は、亀山市街北部の台地上に築かれた平山城で、東西約473m、南北約327mの規模をもつ。東海道の宿場町に隣接する要衝に位置し、城下町と一体となった構造が特徴だ。
縄張は本丸を中心に二の丸、東西の三の丸を配した構成で、外郭を含めた広大な城域を形成する。本丸には三層の天守が存在したとされるが、後に取り壊され、以後は三重櫓がその役割を担った。現在確認できる遺構としては、本丸の高石垣上に建つ多門櫓があり、寛永9年(1632)頃に築造されたと見られている。
また、城の北側・南側には堀が巡らされ、防御性を高めている。古城である若山城は西側丘陵に位置し、新城と対をなす存在であり、近世においても外郭的な防備拠点として認識されていた。これら新旧の関係性も、亀山城の構造的特徴の一つといえる。





亀山城の整備状況
明治6年(1873)の廃城令により亀山城は廃城となり、建造物の多くは失われた。その後、城跡は市街地の中に取り込まれ、石垣や多門櫓を中心とした遺構のみが往時を伝える存在となった。大正期には多門櫓以外の遺構はほとんど失われていった。
現在、亀山城跡は市の中心に位置する歴史遺産として保存されている。平成18年(2006)に二の丸帯曲輪及び周辺の整備を行い、平成20年(2008)に「亀山市歴史的風致維持向上計画」を策定、多門櫓保存整備や西の丸外堀の整備を行っている。
特に多門櫓(多聞櫓)は昭和28年(1953)に県指定史跡となり、三重県内で唯一現存する城郭建造物として重要視され、平成23~25年(2011~2013)には、総事業費約7,800万円をかけ「平成の大修理」にて半解体修理が行われ、創建当時の姿へと復原された。そのほか、市街地には、大手門跡、太鼓門跡、石坂門跡などが残り、かつての亀山城の規模を体感することができる。
参考文献:
- 『日本城郭大系10』(新人物往来社)
- 『亀山市史 考古編』(亀山市)
- 『亀山市歴史的風致維持向上計画』(亀山市2021)
亀山城の撮影スポット・絶景ポイント
現存する多門櫓は本丸東南隅に位置する櫓だ。石垣と櫓の姿を収めるなら、光が回り込む午前中の撮影が適している。周囲の桜は成長し、高石垣に迫る高さとなっているため、視界が開ける落葉期、あるいは花を添える桜の時期に訪れると、より印象的な一枚が狙える。
亀山城の写真集
城郭カメラマンが撮影した「お城めぐりFAN LIBRARY」には、亀山城の魅力を映す写真が並ぶ。事前に目にしておけば現地での発見が鮮やかになり、旅の余韻もいっそう深まる。
亀山城周辺の観光スポット・史跡めぐり
亀山市歴史博物館
門前に石坂門の石垣が移築されているほか、常設展では、亀山の中世城館のパネル展示、広範囲に造られた亀山城下復元模型(1/180)がある。旧天守台に建つ多門櫓とその代用とした三重櫓が建つ本丸の姿を知ることができる。
二の丸御殿の式台・書院移築(遍照寺)
亀山城の二の丸御殿にあった式台と書院は、廃城後に遍照寺へ移築されたと伝わる。
加藤家屋敷跡・長屋門および土蔵
亀山藩主石川家に仕えた家老加藤家の屋敷跡には、威風堂々とした長屋門と土蔵が残る。長屋門は武家屋敷の正面構えを示す建築であり、城下町における家格を今に伝える貴重な遺構だ。
羽柴秀吉亀山城攻め本陣跡
天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いの前哨戦ともいえる戦いで、羽柴秀吉が織田信孝勢の守る亀山城を攻めた際、本陣を置いたと伝わる場所。特に遺構は無いが、東海道など城下の散策ついでに寄ると良いだろう。
東海道亀山宿・旧舘家住宅(枡屋)
旧東海道亀山宿を代表する商家建築で、屋号を「枡屋」という。江戸時代後期に建てられたこの建物は、広い土間や重厚な梁、そして街道に面した格子など、宿場町の一端を感じることができ、城と街道が結びつく地点だ。亀山を散策すると東海道沿いに「ちょうしや跡」「だいさく跡」などの表札が掲げられており、亀山宿の風情を感じることができる。
近郊の城
亀山城アクセス・駐車場・営業時間
所在地
住所:三重県亀山市本丸町 [地図を見る]
県別一覧:[三重県の城]
電話:0595-84-5078(亀山市役所文化部)
開館時間
亀山城は散策自由。現存の多門櫓は、土・日・祝開館(年末年始除く)、10時〜16時、入城無料。
アクセス
鉄道利用
JR関西本線、亀山駅下車、北へ徒歩10分。
マイカー利用
東名阪道、亀山ICから東へ3.5km(約6分)。亀山公園駐車場(無料)を利用する。
地図
亀山城周辺ホテル・宿泊情報
亀山城から近い順に「ホテル亀山ヒルズ(旧:亀山第一ホテル)」、「ホテル エコノ亀山」「アパホテル三重亀山」の3軒のビジネスホテルがある。
亀山城:城ファンの知見と記録
亀山城を訪ねた人たちが残してきた記録です。現地での発見や知見が寄せられ、城歩きの文化の中で育まれてきた経験がここに蓄積されています(全5件)。
亀山城でのひとときを、そっと記録に残す






亀山城天守台の石垣は野面積みなのですが神戸城天守台よりも丁寧に積んであります。神戸城天守台築造から約20年後の築造だからでしょうか。
記録:Haru 2021
多門櫓(ページ冒頭の写真)は、平成の大修理(H25年/2013年)前のものです。復原後の外観は白壁になっていました。
記録:大吉 2019
2006年4月、江戸末期の二之丸帯曲輪が、1億3千万円をかけ復元されたそうな。埋門や土塀、石組み排水溝などらしい。ちなみに、礎石付近の玉石は発掘された昔の石をそのまま使用しているのだとか。
記録:半兵衛 2006
天守閣は有りませんが多門櫓と石垣が残っています。土塀もありますがこれは再建です。復元と称しておりますが、他の城のものを参考にしたものです。また、石坂門跡は、きれいに舗装されました。案内柱が残るのみです。案内柱は三重櫓跡や門跡にも建っていて親切です。
記録:りんむう 2000
亀山城は宿場町。大きな台地の上に城と城下町がある。この様子がすぐ近くの歴史博物館にいくと巨大な城郭模型があり、当時の宿場町の機能やお城の縄張りなどが手にとるように分かる。
記録:半兵衛 1999