写真・記録:岡 泰行/城郭カメラマン
長篠城の歴史と見どころ
長篠城(ながしのじょう)は、永正5年(1508)、菅沼満成の子・菅沼元成が、荒尾の岩古屋城から当地へ移って築いた城に始まる。城地は、往古より三河と遠江・信濃・美濃を結ぶ交通の要衝にあたり、立地上の重要性を備えていた。築城当初は今川氏親の旗下にあったが、元貞の頃には別所城の伊藤氏を従えるなど、長篠菅沼氏の勢力は伸長した。
しかし桶狭間合戦後、貞景の代になると今川氏に背き、松平(徳川)氏に属する。貞景は遠江掛川城攻めの先鋒として討死し、その子・正貞が家督を継いだ。正貞は元亀2年(1571)、荒尾菅沼氏・田峯菅沼氏らの勧めによって武田氏に属したが、天正元年(1573)の徳川家康による長篠攻略に際しては城を脱し、信濃へ移っている。正貞は天正10年(1582)頃、その地で没した。
この間、長篠城には松平家忠や奥平景忠らが城番として入り、天正3年(1575)、奥平信昌が城将であったとき、武田勝頼の来攻を受けた。これが長篠城攻防戦であり、設楽原における織田・徳川連合軍と武田軍との一大合戦へと発展した。合戦後、信昌は郷ヶ原に城を築いて移り、長篠城は廃城となった。
長篠城の特徴と構造
長篠城は、豊川(寒狭川)と宇連川の合流点に近い河岸段丘上、標高約60mに築かれた平城だ。城域は自然地形を巧みに取り込み、本郭を中心に曲輪を配し、土塁と堀によって防御を固めていた。現在は、南端の本郭と野牛曲輪の境をJR飯田線が東西に走り、北側には国道151号線が通過するため、本郭とその周辺を除いて遺構の残存は限られている。
それでも本郭の土塁には、出隅とみられる形状が明瞭に確認でき、中世城郭でありながら近世城郭に通じる要素がうかがえる点は注目される。昭和46年の豪雨により本郭土塁が崩落した際、堀底から高さ四分の一付近に、数条の段をもって河原石を横列に敷いた遺構が発見された。これは土塁補強のため、内部に石を詰めた工法と考えられ、全国的にも例の少ない構造として知られている。

本丸の北側に残る空掘と土塁。

本丸跡には土塁が残り、天然の地形を取り込んだ縄張りと、籠城戦を支えた堅固な立地を確認できる。
長篠城の整備状況
長篠城跡は国指定史跡として保存され、本郭周辺を中心に史跡としての整備が行われている。城址内には案内板が設けられ散策することができる。また、城内に「長篠城址史跡保存館」、設楽原古戦場跡に「設楽原歴史資料館」があり、城と合戦に関する資料展示が行われている。周辺の関連史跡とあわせ、歴史的景観の理解を深める環境が整えられている。
参考文献:
- 『日本城郭大系9』(新人物往来社)
- 「国指定史跡長篠城跡の案内」新城市Webサイト
長篠城の学びに役立つ本と資料
長篠・設楽原の戦い史跡案内図
お城ファンには『長篠・設楽原の戦い史跡案内図』(新城市教育委員会)がずばり良い。城そのものというより、「設楽原の戦い」全般の動きが詳細な地図にプロットされている優れもの。このマップを見れば、すべてのスポットに足を運びたくなる。
長篠の戦いの書籍
下記、現地の古老からご紹介いただいたので紹介する。
長篠の戦いの史料、鳳来町史『長篠の戦い編』。長篠城趾史跡保存館にてまだ買えるかもしれません。この本は5,000円ちょっとですが、長篠城に興味がある方なら買いでしょう。
『鳥居強右衛門とその子孫』保存館初代館長の丸山彭氏が調査し書き記した本。長篠城趾史跡保存館にて閲覧が可能かも。鳥居強右衛門の子孫を研究した本に、張り付けの旗さしものは、武田方の落合左平治であることが述べられています。これを読めば、あの旗さしものは徳川方ではなくて、武田方の落合左平治のものであることが、納得出来ると思います。なんせ子孫の方から丸山先生に連絡があって調べたのですから。東大資料室の旗さしものが、どのような経緯で東大にいったのかも書かれています(長篠治左衛門 99.04.08)。
長篠城の撮影スポット
牛淵橋から長篠城を望む
牛淵橋は、豊川(寒狭川)と宇連川が合流する地点に架かる橋だ。鳶ヶ巣砦から西へ歩いて二十分ほど、史実上の出来事と直接結びつく場所ではないが、この橋の上に立つと、対岸正面に長篠城跡を望むことができる。豊川と宇連川を天然の堀とし、切り立った崖の上に構えられた長篠城の立地が、視覚的に理解できる地点といってよい。わずか五百の兵で武田軍の攻撃を耐え抜いたと伝えられる理由が、地形から実感として伝わってくる。
牛淵橋を渡り、そのまま真っすぐ歩けば五分ほどでJR飯田線・鳥居駅に至る。上り列車に乗り、三河東郷駅で下車すれば、設楽原古戦場へと続く。なお、この地域は列車本数が少ないため、下車時に帰路の時刻表を確認しておくと安心だ。城と合戦の舞台を、土地の距離感とともにたどる歩き方として薦めたい。
長篠城の写真集
城郭カメラマンが撮影した「お城めぐりFAN LIBRARY」には、長篠城の魅力を映す写真が並ぶ。事前に目にしておけば現地での発見が鮮やかになり、旅の余韻もいっそう深まる。長篠城の周辺史跡を訪ねて
長篠設楽原古戦場
長篠設楽原古戦場は、天正三年(1575)、武田勝頼と織田信長・徳川家康の連合軍が激突した合戦の地である。長篠城を包囲した武田軍に対し、織田・徳川連合軍は設楽原に布陣し、両軍は連吾川を挟んで対峙した。この戦いは、織田方が鉄砲を効果的に用いた戦法で知られ、戦国史における戦いの様相を大きく変えた合戦として位置づけられている。現在の古戦場一帯には平地が広がり、軍勢が向かい合った距離感や地形の関係を体感しやすい。馬防柵跡や記念碑、解説板も整備され、長篠城跡とあわせて歩くことで、城攻めと野戦が結びついた歴史の流れが立体的に理解できる史跡だ。古戦場跡には信長が武田の騎馬隊を防ぐために作った馬防柵が復元されている。
「長篠城趾史跡保存館」と「設楽原歴史資料館」
資料館は2つある。城跡近くの「長篠城趾史跡保存館」と、JR飯田線、三河東郷駅下車の「設楽原歴史資料館」だ。以下、現地の古老からご紹介いただいたので掲載する。
長篠城趾史跡保存館には、火縄銃は結構所蔵されています。ただ、設立が昭和30年代と古いことと、国の史跡内にあるため、建物を大きく出来なかったことなどから、展示してある数が少ないのです。ここでは火縄銃よりも中津藩奥平家の家宝であった「血染めの陣太鼓」が見物でしょう。これは保存館が出来たときに、奥平家から鳳来町に寄贈されたものです。また、朱色の畳具足が展示されていますが、これは武田の落ち武者のものと伝えられているものです。この具足は乗本の民家に代々伝えられてきたもので、正月には「兜様」「具足様」と祀られていたとのことです。
また、以前は信玄の遺言状(例の3年喪に服せとか、勝頼の息子に家督を継がせるとか書かれたもの)が展示されていましたが、持ち主(山県氏の子孫の方だとおもいました)から返却の要請があったため、現在は所有者の許可を受けて作成した模写が展示されております。また山県氏の子孫から提供された山県昌影所有の畳兜や、設楽が原近くの民家から出てきた血染めの畳兜なども展示されております。
なお、ここで長篠の戦いの資料が購入できます。ひょっとしたら鳳来町史「長篠の戦い編」がまだ買えるかもしれません。この本は5千円ちょっとですが、長篠城に興味がある方なら買いでしょう。山家三方衆の家系とか、長篠の戦いに関する逸話が詳しく載っています。
また、保存館初代館長の丸山彭氏(彼は長篠村最後の村長でもありました)が調査し書き記した本が売られています。もし、閲覧が可能でしたら、「鳥居強右衛門とその子孫」をご覧ください。そこに「磔の旗印」は武田方の落合左平治のものであることが断定されています。じつは子孫の方から丸山氏に連絡があり、共同で調べた結果断定したものです。その子孫の方のところには、絵柄の違う「磔の旗印」がまだ2つほど残っており、有名な東大資料編纂室の旗印も、もとはその家のものであったことも記されています。
何故これを見て欲しいかというと、名和弓雄さんの書かれた「長篠の戦いの真実」(書名が間違っているかもしれませんが)では、武田方の落合左平治か徳川方の左平治か不明となっていたからです。まぁ、これは武田、徳川両方に落合左平治がいて、しかも二人とも紀伊徳川家に後に使えていることから、混乱していたのですが。
どうも、名和氏は設楽が原の資料館に協力して貰ったようですが、もし保存館の協力も仰げば、そんなミスはしなかっただろうと思うと、やるせない気持ちがします。名和氏の本は全国の書店でうられ、丸山氏の本はほとんど出回らないことを考えれば、事実よりも間違った認識の方が世に広まってしまいますから。
設楽が原の資料館は、私もオープンしたての頃行きましたが、ほとんどが火縄銃の展示でした。これはそもそも火縄銃の個人収集家(この方の実家は、馬場美濃守戦死の地である新城市出沢にあります)のコレクションを元にしたもので、長篠の戦いそのものに関連したものではなかったと記憶してます。
ということから、私は展示品から考えると、設楽が原の資料館より、長篠城趾史跡保存館の方が、長篠の戦いに直接関連するものが展示されている印象があります(長篠治左衛門 99.04.08)。
大通寺
長篠城跡から北に3分。負けると分かった戦さを前に家臣が別れの水杯をかわしたという井戸が残ります。山号は達磨山。馬場美濃守の陣があったところと言われています。内藤、山県、馬場、ともう一人(秋山だったか、土屋だった忘れました)の4将が「これが武田家への最後の奉公となるだろう」と馬場に誘われて水杯を交わした「水杯の井戸」が本堂裏手にあります(この井戸ではなく、新城市清井田付近の清水で交わしたとの説もあります)。また、大通寺からのびる山のあたりに、菅沼氏が長篠城を築く前に、長篠氏が築いた古い長篠城があったという話がありますが、おそらく遺構は残ってないと思います(長篠治左衛門 99.04.08)。
長篠山医王寺
武田勝頼の本陣跡。大通寺から更に北に3分。門前の弥陀池には”片葉の葦”の伝説が残っています。合戦前夜、合戦の不利を説いた家臣団の忠告を聞かず開戦に踏み切ると言った勝頼の夢枕に、弥陀池の仙人が立ち、合戦の無謀さを説いたそうです。しかし勝頼は、言を入れずその仙人の片腕を切り落としたそうです。以来、この池の葦は片方にしか葉が出ないという言い伝えが残っています。
現在、この葦は残念ながら枯れています。でも私が中学の頃までは生えており、ホントに片方にしか葉がなかったんです。ある種の変異体だと思いますが、地元の百姓は戦さの虚しさをこういう言い伝えに託して、子や孫に伝えていったんでしょうね。あと全く信憑性にかける話で申し訳在りませんが、わが家の田んぼ(県道69号線沿い)の1枚目のたんぼの水路の辺りは、徳川家康が尻まくってウンコした所と伝わっています(長篠村の田吾作 99.03.24)。
実は実家の菩提寺。先祖代々の墓や位牌があります。「方葉の蘆」の伝説とは、勝頼の枕元に白髪の老人が立ち「私はこの池の蘆の精霊である」「この戦は武田が負ける。だから退却せよ」と告げたところ、勝頼は妖怪と思い、斬りつけ、片手を切り落とした。翌朝池の蘆をみると、すべて方葉になっていた。それ以来この池の蘆は、小さいときは両方に葉がでるが、やがて片葉になった、と言うものです。今から10年ほど前までは、幾らでもあったのですが、最近は少なくなりました。また、医王寺には先代住職が集めた民俗資料が展示されています。たぶん寺の人に言えば閲覧可能かと思います。また、本堂には勝頼が裏山に本陣を築いたことから寺に残されている武田方の遺品(兜や鏃など)が展示されています(長篠治左衛門 99.04.08)。
鳶が巣砦
長篠城跡から川を渡った対岸にあります。駅から徒歩30〜40分。篭城戦の長篠城を対岸のこの山の上から見張りました。城跡はよく見えます。飯田街道(現在の151号線沿いの旧道)もはっきり見えます。城回りのみならず、設楽が原方面まで、敵の動きを知るには完璧な見張り場所といえるでしょう。車・バイクの方。砦のすぐ横までアクセス可能です。県道69号線沿いに看板が出ています。それを指標に上って下さい(長篠村の田吾作 99.03.24)。
逆さ桑
長篠駅・公衆電話横に「逆さ桑」がある。合戦に敗れた勝頼が落ちる途中、民家で粥を馳走になったがその時箸代わりに庭先の桑の枝を折った。食べ終わったあと、桑を逆さに庭先に差したところ逆さに生えてきたという言い伝えがある。それを駅横に移植したものらしい(長篠村の田吾作 99.03.24)。
これは、勝頼が敗走途中で小松ヶ瀬にて寒狭川を渡ったあたりで食事をとった時の話です。ただし、勝頼本人かどうかは解りません。ただ、目撃者(見ていた住人)は、体格の良い若武者が箸を地面に差して置いたところ、やがてその箸が根付き桑の木になった。しかし、その枝が下へ下へとのびることから逆さ桑と名付けられた。後に住民達はその若武者を勝頼だろうと噂した、とのことだったと思います。で、その桑を確か挿し木で長篠城駅前に植えたのだと記憶しています(長篠治左衛門 99.04.08)。
長篠城の周辺おすすめ名物料理
このあたりは夏だと鮎かアマゴ。「川魚料理 鳳城苑」愛知県新城市横川字追分270-6(TEL:0120-48-9140)。その他、農産物の直売所「こんたく長篠」。また、武田勝頼が本陣を敷いた医王寺入り口に「本陣」なる食べ物やがありますが、あまりお奨めではないですね(長篠村の田吾作・長篠治左衛門の弟 00.09.29)。
長篠城観光のおすすめホテル
JR飯田線長篠城駅から下りで3駅。湯谷駅でおりれば湯谷温泉。
長篠城の観光情報・アクセス
所在地
住所:愛知県新城市長篠市場22ー1 [MAP] 県別一覧[愛知県]
TEL:0536-32-0162(長篠城址史跡保存館)
- 公式サイト:「長篠城址史跡保存館」(新城市)
アクセス
鉄道利用
JR飯田線、長篠城駅下車、徒歩10分。
マイカー利用
新名神高速道路、新城ICから東へ5分(2.8km)、長篠城に無料駐車場(20台)有り。
岡 泰行 | 城郭カメラマン [プロフィール]
1996年よりWebサイト「お城めぐりFAN」を運営し、日本各地の城郭を訪ね歩いて取材・撮影を続けている。四半世紀にわたる現地経験をもとに、城のたたずまいと風土を記録してきた。撮影を通して美意識を見つめ、遺構や城下町の風景に宿る歴史の息づかいを伝えている。その作品は、書籍・テレビ・新聞など多くのメディアで紹介され、多くの人に城の美しさと文化を伝えている。
長篠城:城ファンたちの記憶
実際に長篠城を訪れた城ファンの皆さまが綴る、印象に残った景色、人との出会い、歴史メモ、旅のハプニングなど、心に残る旅の記憶を共有しています(全17件)。







長篠城は、まず立地を確認したくて歩いた。寒狭川と宇連川の合流点に張り出す段丘は、地図で見る以上に切り立っており、城が地形に支えられていたことがよく分かる。本郭の土塁を一周したあと、設楽原へ移動した。古戦場では連吾川との位置関係や距離感を意識して歩くと、城での籠城と野戦が別の場所で起きた意味が整理できた。順に巡ることで理解が深まる城跡だと思う。
( 城あるき父さん)
戦国期の城が好きで旅行のついでに見ては写真など撮っております。長篠城を見物したあとに道の両側に徳川・織田・武田の旗印の幟が有りました。いいなぁ欲しいナァと思っていたのですが土産物ではないと一目で分かります。そこで近くの雑貨屋さんで聞いて見ると地元の人が祭りの時に作ったものだそうでした。どこかに売ってないかと尋ねると町の人の献金で作ったものなのでと言われたのですが、家にもあるからヤルと言われ三種類頂いたのでした。言って見るもんだとつくづく思いました。
( 黒とら)
奥三河の城を巡りつつ、国道151号線を走りますと設楽原は再び立ち寄りたくなりました。前回は新城市設楽歴史資料館は休館日でしたので入館できませんでした。まずここから見て行きました。たくさんの鉄砲が展示してあります。信長が使用した主力の鉄砲はどれであったろうかと思いつつ廻りました。
資料館を出て、公園を東に歩けば信玄塚があります。そして、畑を進むと原隼人佐昌胤之碑があり、碑の裏に石祠が安置されています。長篠の戦の後、33年後に金子藷山が古戦場を巡り随筆として著わし、尋ねた時に土饅頭があり、その上に石があり原隼人佐昌胤の墓と記されていたと書いています。
またもう少し東に畑を進むと山県昌景の碑の案内があり、案内の通り林に分け入ると墓がありました、諸記録によれば昌景は弾正山に本陣を構える家康に向かい攻撃を仕掛け、何度も柵に突きかかる中、鉄砲隊によって討ち死にした。従者志村又右衛門は首をめざし殺到してくる家康軍を見て、首は渡すまいと切り落とし甲州へ持ちかえったとされています。竹広の里人は、残された遺骸を懇ろに葬り、この地に松を植えて「胴切りの松」と名付け、塚の供養を続けてきたという。墓の前で手を合わせると気のせいか何か物悲しくなります。合掌!
( 横尾)
長篠城址での試掘調査現地説明会に行ってきました。現在、保存館から向かって左側に内堀とその内側に土塁が残っていますが、今回の試掘調査している場所は保存館のすぐ前(南側)。現存する内堀と同じ規模の堀が発見されました。幅13m、深さ4m。左手(東側)の堀とつながっていただろうとの考察で、土橋、または橋を架けて渡る構造であったのだろうとの説明でした。発見された堀の内側には、現存する土塁と虎口をはさんで食い違いの位置関係に土塁跡が確認されました。現在では削平されていますが、ここに土塁を復元する計画だそうです。そして、その土塁跡の内側に、発見された堀と暗渠でつながっている三日月堀の跡も確認されました。試掘の課程で皿類といっしょに火縄銃の弾もたくさん出土したそうです。
( amano)
豊川の対岸に「鳥居強右衛門磔死之趾」の大きな石碑が立っています。大手門址の碑が本丸から北西方向200メートル以上先にあります。その間にも外堀がありました。また、少なくとも内堀には水が満ちていたのではないでしょうか。堀自体も現在よりも深かったと思います。つまり、南側の守りは現在の地形では推し量れないくらい固い防御となっていたと思います。何よりも、奥平父子は少し前まで、長篠城より西方20キロ位の作手村の亀山城で、山家三方衆の一方として武田方に属しており、家康方に寝返ったばかりであり、鳥居強右衛門のごとく城兵の士気は尋常ではなかったと思います。ちなみに、合戦後、信昌は城を守り通した功により家康の長女亀姫を娶っており、松平姓を許されています。いかに重要なポイントになったかが分かります。
長篠の合戦に至る過程で、陰に隠れていますが、奥平家が武田方に人質として出していた3人(若君の仙千代、分家の姫のおふう、おふうの祖母)が勝頼の本陣近くの鳳来口で磔にあっています。後日、ひそかに首が取り戻されてある地に葬られたのですが、私は長年その墓を探していました。先日、偶然発見しました。後日、違う機会に投稿したいと考えております。
( 天野)
2000年2月の新聞に載った長篠城で中掘発見の記事を憶えていますか。私は今年、2月の連休に長篠城を訪れたのですが、ここで偶然発掘担当の主任に会いお話が聞けました。話の要点は以下の通りです。
1)外堀は内堀に平行して屈曲していず、直線的に出来ている。
2)碁石川の方の内堀は現在ある堀とは位置が違った。
3)虎口には枡形があったらしい。
4)本丸の土居のほぼ中央に柵穴があった。
5)本丸は豊川側の土居を崩した為いまは高くなっている。
6)中堀は帯郭、外堀に近いほうにあり、外堀・土居・中堀と連続していた。
そして、堀と土居の構築方法が特殊だったことを強調していらしたのですが、聞いていた時はどんなものか分からず、気にもしていなかったのです、でもその時もらった報告書を今になって読み返して分かりました。このあたりには黒ボクと言われる黒く石の少ないサラサラした土がとれ、それを土居や堀の表面に敷き詰めて、すべりやすくしていたのだそうです。長篠城は訪れましたが、医王寺の本陣、鳶ヶ巣の付城は未踏査です。この戦い、奥が深いです。
( Haru)
県道69号線沿い、鳶ヶ巣砦へ向かう地点から上流へ数百mのところ(姥ヶ懐と呼ばれる)に、武田の鳶ヶ巣砦守備隊「守将、武田兵庫助信実(信玄の異母弟)」の遊軍(浪人衆かな?)を率いて討死にした三枝勘解由左衛門兄弟の石碑がある。そこから山の中にひっそりと墓が残されてある。鳥居駅から大海へ向かう途中に織田・徳川連合軍唯一の城主級戦死者の深溝城主松平尹忠の戦死の地がある。
また、鳳来寺には東照宮と呼ばれるものがあり、なんでもココで祈願したから松平竹千代(家康)が生まれたって話で、徳川幕府が大事にしたそうな。新城(しんじょう)の現小学校は、20年くらい前までは木造校舎だった(城ではなく木造館でそのまま使ってたらしい)。だから造りも複雑で広く、教室に帰るまでに迷子になる1年生もいたらしい。校門は、今でも当時の城門のハズ。あと新城の近くに、家康の長女、奥平信昌の室、亀姫の菩提寺があるらしい。
( 長篠治左衛門の弟)
長篠城は三方を川に囲まれた小城です。史料館以外は、見るべきものは少ないですが、土塁や主郭跡などをご覧ください。近辺にある設楽原古戦場では、馬防柵が再現されていますが、その西の丘の上の工場前に部隊配置等を示した説明用看板(っていうのかな?)があります。軍事に興味ある向きには是非。
( Spock)
長篠城に密接に関係する旧街道の名称は「別所街道」です。飯田街道は確か名古屋から飯田へ抜ける国道153号線ではなかったかと思います。勝頼が落ち延びた伊那街道は寒狭川を渡った新城市大海から寒狭川沿いに北上し、稲武あたりで飯田街道と合流したと思います。
また、長篠城の形は三輪川と寒狭川の合流点を頂点とする扇形をしていて、その頂点のところに本丸があります。従いまして、攻めてが本丸に近づくにつれ、防衛ラインが狭くなり守りやすくなります。また川の崖も風化した頁岩であるため、非常に崩れやすく攻めてにとっては登りにくい崖になっています。そして、長篠合戦屏風図には三輪川に橋が架かっていますが、当時から今日まであの場所に橋が架かっていたことはありません。
なお、本丸には天守台跡はありません。何故なら長篠城には天守は無かったからです。本丸跡から飯田線を越えて三輪川へ向かう道筋に、殿井戸と呼ばれる井戸の跡があります。本丸土塁にある城藪稲荷は民話「おとら狐」に出てくるおとら狐がいたところで、おとら狐はこの稲荷の使いとされていました。また、城兵500ですが、奥平の家来は250ほどで、残りは徳川家康からの応援部隊です。鉄砲は城内に50あり、内2挺は大鉄砲といわれる、口径の大きなものでした。
( 長篠治左衛門)
鳥居駅から牛渕橋方面に進むと田圃の向こうにの寒狭川沿いに、鳥居強右衛門磔刑の地の碑があります。鳥居駅から飯田線を渡ったところから清井田に抜ける坂道は、武田軍が設楽が原へと進軍した来光坂(ころみつざか)であると思います。保存館前の旧道を矢沢川渡ったところの民家のところに、鳥居強右衛門が、「助けは来るぞ!」と場内に向かって叫んだとされるところがあります。確か看板が出ていたと思います。長篠城周辺にはいろいろなものがありますが、詳しくは史跡保存館にてパンフレットを貰ってください。
( 長篠治左衛門)
こんたく長篠の道を挟んだ反対側の畑の中に「馬場美濃守」の墓があります。
( 長篠治左衛門)
長篠城北にあるサークルKの裏手が大手門跡で、近くに戦後蟻となって出てきて農作物を荒らした武田の戦死者を封じたといわれる「蟻塚」または「蟻封塔」とよばれるものが有ります。これは武田の戦死者が蟻となって化けて出てきたので、それを封じ込めた場所ということ。長篠城駅近くに「やすら姫」の塚があるはずですが、これは城藪稲荷の「おとら狐」とともに愛知の民話の本で調べられた方がいいかも。説明し出すと長くなるので ^^;。
( 長篠治左衛門)
牛淵橋から長篠城を狙うアングルは美しいものです。やっぱ城跡じゃ、ただの原っぱですからね。秋には紅葉がきれいです。梅雨時の土砂降りの頃(合戦の季節)いらっしゃった方、川の様子を御覧下さい。城を抜け岡崎に援軍を頼みに走った鳥居強右衛門はこの濁流を泳いで下ったんですよ。死んじゃうよな。
( 長篠村の田吾作)
長篠城に一日使ってもらえるんなら、おすすめコースをご紹介します。
「鳶が巣砦」
三方を川に囲まれた長篠城を対岸の山の上から見張った砦です。
「牛淵橋」
長篠城の三方を囲む豊川・宇蓮川の合流点に架かる橋です。どういう立地に長篠城が在ったかが窺えます。
「鳥居強右衛門 磔の跡」
武田軍に囲まれた長篠城から織田徳川連合軍に援軍を求めに走った鳥居強右衛門が、援軍来るの報を城中に知らせ、武田軍に処刑されたところです。
「長篠山医王寺」
武田勝頼が本陣を敷いた場所。門の前には弥陀の池があり、片葉の葦の伝説が残っています。
ちょっと長篠城からは遠いですが、長篠の戦いや山家三方衆に関するとこでは、以下の場所が見所です。
「煙岩山 勝岳院 鳳来寺」
東三河の歴史の話では必ず出てくるところ。信玄や勝頼も逗留。
「田峰城(設楽町)」
菅沼一族の宗家である、田峰菅沼氏の居城。近年館が復元されました。
「亀山城(作手村)」
山家三方衆の奥平氏の居城。遺構は残っている模様。
「新城(新城市)」
読み方は「しんじょう」。奥平氏、後に菅沼氏の居城。現在新城小学校。
「野田城(新城市)」
菅沼一族の野田菅沼氏の居城。現在藪の中。一応遺構は残っている模様。
( 長篠村の田吾作)
この城では毎年ゴールデンウィークに、のぼり祭という祭が行われ、火縄銃の演武も行われます。
( 近藤史隆)
長篠城は、信長の3,000丁の鉄砲隊と武田の騎馬隊の戦で有名な長篠設楽原の合戦であまりにも有名です。天守台は予想していたより小さく、武田勝頼の大軍を500の兵で防ぐには小さすぎると思いました。
( 近藤史隆)
近年の研究、調査によると、長篠合戦において特筆すべき事は鉄砲の大量投入もさることながら、史上初めての野戦における大規模な陣地の構築にあると言われていますね。鉄砲に関しては、織田軍で使用した数が3千挺と巷で言われていますが、どうもこれは後世の改竄によるもので、もともとは1千挺ほどだったようです。ここからさらに鳶の巣砦の奇襲に5百挺が割かれていますから、長篠に使用されたのは5百挺という計算になるかと思います。ここで重要なのは、従来までは各部隊にせいぜい数十挺ずつの鉄砲を分散して配置していたのを、各部隊から引き抜き集中投入したことだろうとも言われていますね。実際に長篠に行ってみると、織田・徳川の本陣と武田の本陣が指呼の間にあることに驚きました。
( 地蔵)