写真・記録:岡 泰行/城郭カメラマン
横須賀城の歴史と見どころ
遠州灘に迫る小笠山山塊の南端、その枝尾根が平野へと張り出す地点に横須賀城(よこすかじょう)は築かれた。北に小笠山の稜線を背負い、南はかつて入り江を伴う海浜地形で、東は相良、西は浜松、北西は袋井・見付を経て天竜川へ通じる。さらに東北には武田氏の要衝・高天神城が位置し、その喉元を押さえる戦略的立地にあった。
築城は天正6年(1578)。徳川家康が高天神城奪還を企図し、馬伏塚城を廃して家臣・大須賀康高に命じ築かせた城である。松尾城、両頭城とも呼ばれ、中世的要素を色濃く残しつつ近世城郭へ移行する過渡期の姿を示す。初代城主・康高は家康の信任厚く諸戦に転じたが、天正17年(1589)に没し、後嗣問題を経て大須賀忠政が継承する。忠政は関東移封に伴い久留里へ転じ、以後、横須賀城は豊臣政権下の渡瀬繁詮、有馬豊氏を経て、関ヶ原前後の政局変動のなかで城主が交替した。
慶長6年(1601)、大須賀忠政が再び入封し、松平姓を許され近世横須賀藩が成立するが、元和元年(1615)に断絶。その後は松平重勝、井上氏、本多利長、西尾氏へと移り、西尾氏八代が明治元年(1868)まで城主を務めた。こうした頻繁な藩主交替のなかで、城郭と城下町は段階的に整備され、横須賀は遠江東部の政治・軍事拠点として存続した。
横須賀城跡は、掛川市指定を経て、昭和56年(1981)に国指定史跡に指定された。本丸・天守台周辺を中心に公園整備が進められ、近年は三の丸跡を含む発掘調査が継続的に行われ、外堀や石垣構造の解明が進展している。調査成果は現地保存を前提に記録化され、史跡整備計画へ反映されている。解説板や園路整備も段階的に行われ、城郭の立体的理解を促す環境が整えられつつある。
横須賀城の特徴と構造
横須賀城は平山城で、城域は東西約650m、南北最大約350mに及ぶ。全体は東に開いた三味線の撥形をなし、南・西・北の三方を自然の沼淵で囲み、東北側のみを人工の大空堀で遮断する構えが最大の特色だ。
城の中心は標高約25mの天守台で、28m×22mの方形台地を成す。本丸はその裾に65m×30mで配され、西へ舌状に延びる西の丸、さらに二の丸が続き、不開門に至る。一方、東南の眼下には三の丸が広がり、東大手門を構える。北側には北の丸と松尾山が控え、松尾山北東では尾根を断ち切る巨大な空堀が築かれ、防御線を形成した。
堀は自然地形を巧みに利用し、水堀と沼淵を主体とする。南から西にかけては低い大玉石の石塁が巡り、北側は土塁で固められる。三日月池などの水利遺構も良好に残り、中世的地形利用と近世的城郭構成が重なり合う点に、横須賀城の構造的魅力がある。

本丸門から続く本丸南下門跡(櫓門跡)。正面は中段に枡形があり上段が本丸となっている。横須賀城にはかつては27基の城門があった。

本丸南斜面中段。右手は本丸玉石垣(復元)。大手門から本丸へのルート上、城下町や街道から見える場所に石垣が用いられた。

横須賀城は4層の天守があった。本丸高所に礎石跡が27箇所検出され天守跡と考えられている。

横須賀城の主要部の南東には、三日月池が残る。
参考文献:
- 『日本城郭大系9』(新人物往来社)
- 「横須賀城跡」掛川市Webサイト
横須賀城の撮影スポット
横須賀城の顔となる本丸南下門跡は、南向きのため、日中どの時間帯でも順光になりやすいが、例えば西の丸の影が夕方になると、本丸南下門跡に入り込むため、できれば、お昼頃に訪れたい。
横須賀城の写真集
城郭カメラマンが撮影した「お城めぐりFAN LIBRARY」には、横須賀城の魅力を映す写真が並ぶ。事前に目にしておけば現地での発見が鮮やかになり、旅の余韻もいっそう深まる。横須賀城の周辺史跡を訪ねて
横須賀城の移築建築物と歴代城主の墓
撰要寺に不開門(あかずのもん)が残り、初代城主、大須賀氏の墓がある。城のすぐ北側なので訪れておきたい。また、本源寺に搦手門と横須賀城第10代城主井上氏の墓が、龍眠寺には横須賀城第13代より19代までの西尾氏の墓がある。その他、油山寺に白書院が移築現存、恩高寺に鯱瓦・鬼瓦が保管されている。
近郊の城
付近にビジネスホテルは無い。掛川や焼津をベースキャンプとして、諏訪原城、高天神城、黒田代官屋敷、相良城、小山城、田中城、掛川城、掛川古城などをめぐるのも良し。
横須賀城の観光情報・アクセス
所在地
電話:0537-21-1125(掛川市産業観光課)
- 公式サイト:「横須賀城跡」(掛川市産業観光課)
アクセス
鉄道利用
JR東海道本線、袋井駅下車、静鉄バス秋葉中遠線、静鉄横須賀車庫・浜岡営業所方面行き20分「七軒町」降車、徒歩10分。
マイカー利用
東名高速道路袋井IC、県道61号から県道41号へ。無料駐車場(15台)有り。
岡 泰行 | 城郭カメラマン [プロフィール]
1996年よりWebサイト「お城めぐりFAN」を運営し、日本各地の城郭を訪ね歩いて取材・撮影を続けている。四半世紀にわたる現地経験をもとに、城のたたずまいと風土を記録してきた。撮影を通して美意識を見つめ、遺構や城下町の風景に宿る歴史の息づかいを伝えている。その作品は、書籍・テレビ・新聞など多くのメディアで紹介され、多くの人に城の美しさと文化を伝えている。
横須賀城:城ファンたちの記憶
実際に横須賀城を訪れた城ファンの皆さまが綴る、印象に残った景色、人との出会い、歴史メモ、旅のハプニングなど、心に残る旅の記憶を共有しています(全7件)。







2025年12月、横須賀城跡三の丸の発掘調査で、江戸時代末期に築かれた玉石積みの石垣が確認されたらしい。出土状況や瓦の年代から、嘉永7年(1854)の安政東海地震で倒壊した石垣を築き直したものと考えられている。現存する絵図と一致する石垣が実際の調査で確認された点も大きな成果で、石の据え方や積み方といった具体的な工法も明らかになった。
( 安国寺AK)
三の丸・二の丸・西の丸・本丸などの主郭部分が綺麗に整備され公園となっています。芝生がひかれていて綺麗です。石垣には天竜川から運ばれた石が使われているため玉石垣の珍しい石垣です。二の丸・西の丸・本丸・北の丸・三の丸と典型的な一二三段に配置された縄張りとなっています。東西に細長い縄張りからか、東大手門、西大手門と2ヶ所の大手門が南面して開かれているのが特色です。
( いまじゅん)
本来、門があったところなどには、植木でそれを表すなど、不自然ではない城跡整備で好感が持てる。
( 静岡観光おすすめ隊)
関東の横須賀ではなく、大須賀町の横須賀。「須賀」という地名は、砂丘だったことを指すらしく、天竜川から流れ出た砂で形成された地らしい。
( 静岡観光おすすめ隊)
天正6年(1578)、徳川家康が武田氏の遠江の拠点、高天神城を落とす拠点のために家臣の大須賀康高に築かせたのが最初で、慶長5年(1600)に近世城郭へと改築された。
( 半兵衛)
歴史民俗資料館は、町番所の建物を移築したもの。もとは横須賀城の東側の入口付近にあり、出入りする人を監視していたそうな。
( 右近)
横須賀城は高天神城を家康が攻めるに当たり、対の城として増強した平山城。その後明治維新まで20代の藩主を向かえ、藩の政庁として活用され四層の天守があったといわれています。二の丸は幼稚園が建ち、築城時には海であった場所も田んぼになり、今では守りが甘そうな城におもえるものの、当時の地形を思えば十分な城郭だと思われます。高天神城を取られた家康が、この地で武田方を防ぐには、当然強固な縄張りだったのでしょう。築城時の面影が無い城ではありますが、東面の尾根を分け、南北の堀を結ぶからぼりの堀切の深さ、大きさを見るときに守りの堅さが偲べるものです。
民俗資料館にて横須賀城跡のパンフレットを貰えますので、登城する時は貰ってからの方が良いでしょう。横須賀町番所の移築復元が大須賀支所の隣りにあるそうです。明治6年払い下げとなり、撰要寺に不浄門 当時西北隅、恩高寺に鯱瓦・鬼瓦が保存されているとの事。天守閣復元計画があるとの事だが、どのような建築物か分からず、空襲で燃えた?落雷にて炎上?地元の人も知らない様子であった。
( 桔梗)