写真・記録:岡 泰行/城郭カメラマン
田中城の歴史と見どころ
田中城(たなかじょう)は、現在の静岡県藤枝市西益津に所在した丘城だ。もとは今川方の属城であった徳之一色城を前身とし、永禄13年(1570)正月、駿河国西部に残る今川方の諸城を制圧するため侵入した武田信玄の軍勢によって攻略された。守将は長谷川紀伊守正長であったと記されている。信玄はこの地を「堅固の地」と評価し、馬場美濃守に命じて馬出しを設けさせ、城名を田中城と改めたことが『甲陽軍鑑』に見える。
その後、田中城は徳川氏に対抗する西駿河支配の拠点として整備が進められ、同年9月には増築工事が一応の完成をみた。信玄は山県昌景に高草山西方一帯の支配を任せ、田中城に在城させている。さらに元亀3年(1572)、西上作戦を前に板垣信安を山県昌景と交替させた。
天正元年(1573)には、大井川を境とする徳川氏領に圧力をかけるため、牧野原台地北端に諏訪原城、南端に小山城を築き、旧今川期の城塁を改修して支城網を形成した。この支城群の中心的役割を担ったのが田中城であった。
しかし天正3年(1575)、武田勝頼が長篠で敗北すると、徳川軍は反攻に転じ、同年8月24日には諏訪原城を攻略する。これにより西駿河の武田方諸城は孤立し、田中城も徳川軍の波状攻撃を受けるようになった。天正6年(1578)以後、徳川勢は掛川・牧野原を拠点として大井川を渡河し、戦線を持舟城付近まで進めていることが『家忠日記』に記される。
天正10年(1582)2月20日、徳川軍は依田信蕃(よだのぶしげ)・三枝虎吉(さいぐさとらよし)を主将とする田中城を包囲したが、穴山信君の離反によって城は完全に孤立し、3月1日、依田信蕃は開城した。以後、関ヶ原合戦後の慶長6年(1601)に酒井忠利が入城し、江戸時代を通じて譜代大名が交替で城主を務めた。享保15年(1730)に本多正矩が入封して以降は本多氏が藩主として定着し、明治元年(1868)の転封まで続いた。
田中城の特徴と構造
田中城は、低丘陵の頂部に方形の本丸を据え、その周囲を二の丸・三の丸が同心円状に取り巻く、きわめて特異な縄張構造をもつ城郭であった。城域はおおよそ600m四方、標高は約15mとされる。最外郭である三の丸の全体形状が亀の甲に似ていたことから、亀甲城・亀井城の別名が生じた。
各曲輪の虎口外には、武田氏の築城技法の特色である馬出しが設けられており、とくに二の丸・三の丸の防御を強化していた。大手口は北東の平島口とされ(江戸期には藤枝口が大手一之門に)、城の外周には水堀が巡らされていた。
江戸時代の城郭構成は、万延元年(1860)正月の『藤井文書』に詳しく記されている。本丸南東隅には二層櫓が置かれ、天守の代用とされた。大手一之門の東側には太鼓櫓、各虎口には多聞櫓が配され、虎口両面には石垣が積まれていたことが、現存する絵図から確認できる。近年の調査では、水源地から城内堀へ導水する木管(直径約30cm)が埋設されていたことも明らかになっている。

田中城西側に位置した大手二之門の跡。主要虎口で城内防御の要所をなした地点だ。

城郭外縁を画した三之堀と土塁の遺構。円郭式縄張を形づくる防御線の一部が、現在も地形として確認できる。

三の丸を囲んで巡る外郭の堀と土塁。亀甲城の名に由来する、外周部の輪郭を伝える遺構だ。

曲線を描く三日月堀の遺構。敵の進入を制限し、攻防を有利に展開するための工夫が読み取れる。
田中城の整備状況
田中城跡は現在、市指定史跡として位置づけられているが、城域の大半は西益津小・中学校敷地や周辺住宅地となっており、往時の遺構は一部を残すのみとなっている。学校改築や宅地化の進行によって、円形縄張を示す貴重な遺構は年々失われてきた。
一方で、藤枝市では城跡の歴史的価値を伝えるため、城下屋敷跡の整備や案内板の設置など、史跡としての保存活用が進められている。現地では、往時の城郭全体像を想像しながら散策できるよう配慮がなされ、地域史を学ぶ場として活用されている。
余談ながら、20数年前に地元の不動産会社から筆者(岡)のもとに、田中城の土塁が庭先にある家が売りに出され、大切にしてくださる方にお売りしたいとの相談を受けたことがある。今も大切にされていることを願いたい。
参考文献:
- 『日本城郭大系9』(新人物往来社)
- 「史跡田中城下屋敷」藤枝市郷土博物館・文学館Webサイト
田中城の学びに役立つ本と資料
「駿河国田中城絵図資料」「藤枝市文化財地図」「田中城と本多氏」「駿河の岩村藩」など。藤枝市郷土博物館(藤枝市若王子500 開館時間AM9:00~PM4:30)にてGETできる。
田中城の撮影スポット
田中城の写真集
城郭カメラマンが撮影した「お城めぐりFAN LIBRARY」には、田中城の魅力を映す写真が並ぶ。事前に目にしておけば現地での発見が鮮やかになり、旅の余韻もいっそう深まる。田中城の周辺史跡を訪ねて
旭傳院に残る移築城門
「史跡田中城下屋敷」から南へ徒歩3分程度、焼津市保福島の旭傳院(ぎょくでんいん)。城内から門が移されている。その規模から城門でなく城内の屋敷門ではないかと考えられているそうな。ちなみにここにある松は、樹齢600年で市の文化財指定を受けている立派なもの。または、西へ約2kmのところに大慶寺(藤枝市藤枝4-2-7)。ここにもさらに有名な松があるがそれはさておき、相良城にあった御殿が移築現存している。天明8年(1788)、相良城解体の際に700両で払い下げられたものらしい。またこの寺には、田中藩城主と藩士の墓がある。本多氏時代には家臣の大半が檀家だったので「さむらい寺」と呼ばれたそうな。
近郊の城
田中城の周辺おすすめ名物料理
「ひいらぎや」そば屋。藤枝市郷土博物館のある蓮華寺池の近くです(@透@ 99.03.24)。
田中城観光のおすすめホテル
綺麗さ、値段ともに「ホテル シーラックパル焼津」がズバリ良い。この近辺だと通常、掛川や静岡に宿をとるのが城めぐり的には良い場合があるが、行程上、焼津の地に泊まるようであれば、ここがベスト。
田中城の観光情報・アクセス
所在地
住所:静岡県藤枝市田中3丁目14-1 [MAP] 県別一覧[静岡県]
電話:054-644-3345(史跡田中城下屋敷)
史跡田中城下屋敷 開館情報
田中城は市街地のため散策自由。「史跡田中城下屋敷」は、9時〜17時。月曜(祝日の場合は翌日)・年末年始休館。
アクセス
鉄道利用
JR東海道本線、西焼津駅下車、バス7分「西益津中学校前」降車、徒歩すぐで田中城本丸跡。また「六間川」降車徒歩4分で「史跡田中城下屋敷」。どちらかで降りればあとは徒歩圏内。
マイカー利用
東名高速道路「焼津」ICから10分。県道81号線、国道1号線、県道30号線を左折すぐ。「史跡田中城下屋敷(藤枝市田中3-14-1)」の無料駐車場(20台)を利用。
岡 泰行 | 城郭カメラマン [プロフィール]
1996年よりWebサイト「お城めぐりFAN」を運営し、日本各地の城郭を訪ね歩いて取材・撮影を続けている。四半世紀にわたる現地経験をもとに、城のたたずまいと風土を記録してきた。撮影を通して美意識を見つめ、遺構や城下町の風景に宿る歴史の息づかいを伝えている。その作品は、書籍・テレビ・新聞など多くのメディアで紹介され、多くの人に城の美しさと文化を伝えている。
田中城:城ファンたちの記憶
実際に田中城を訪れた城ファンの皆さまが綴る、印象に残った景色、人との出会い、歴史メモ、旅のハプニングなど、心に残る旅の記憶を共有しています(全9件)。







直径約600mの同心円のお城。かなりめずらしい形。今でも道路は同心円で地図を見ると城のかたちが分かります。本丸は西益津小学校内付近で、同校には田中城の簡単な屋外模型があります。
( 半兵衛)
「史跡田中城下屋敷」は是非訪れておきたい。江戸後期の城主の別荘跡の一部を無料で開放している。ここに現存移築されている田中城本丸櫓がある。田中城は天守閣はなく二層の物見櫓が高さ2.7mの石垣の上に建っていたといわれ旗本であった地元の方が昭和60年に寄贈されたものだとか。史跡の中心にある大松も当時のものらしい。また入口の冠木門は当時の図面から復元したものだとか。田中城で現存する建築物はこの櫓と旭傳院(ぎょくでんいん)にある門の計2つ。
( 半兵衛)
「平島一之門跡」はその碑の裏側から畑までの間を市が買い上げたらしく、発掘調査が行われたそうだ。畑の持ち主の方のお話によると、ここに小さい溝があるが、その溝のコーナー部にある石垣は当時のものだそうだ。
( 半兵衛)
田中城域に碑は多い。現地の人の話では100本近くあるそうだが、市立西益津小学校前の「田中城本丸跡」と、田中2丁目4番付近の「平島一之門跡」の2本の碑が大サイズ。
( 半兵衛)
なにを見るべきか?主な遺構は「平島一之門跡と付近の土塁」、西益津小学校付近の「二之堀」「三日月堀」、西益津中学校の裏手の「三之堀」、「旭傳院(ぎょくでんいん)へ移築の門」「史跡田中城下屋敷」の6つ。史跡田中城下屋敷(藤枝市田中3-14-1)のB4二つ折りパンフレットにそれらの場所が記載されているのでGET!
( 半兵衛)
城の南側を流れる六間川は、一番外側の四重目の堀とつながっていて、これをせき止めると、二重目の堀まで水が満たされ、浮城となったそうな。
( 右近)
その昔は、今川系の徳之一色城という城があったそうな。
( 右近)
家康の死の原因とも言われている鯛の天麩羅を食した場所がこの田中城だそうな。
( 右近)
別名亀城。甲州流の築城様式がほどこしてあり三日月堀があった円形の城は模範がしやすいので全国に絵地図がのこっています。
( @透@)