写真・記録:岡 泰行/城郭カメラマン

相良城の歴史と見どころ

相良の地は、中世以来、城館と町の記憶を重ねてきた土地だ。はじまりは、藤原南家藤原為憲の後裔とされる周頼がこの地に居住し、館を構えたことにある。以来、相良氏を称する一族が根を下ろし、周頼の五代の孫にあたる頼景、さらにその子長頼は源頼朝に従った。建久9年(1198)、相良氏は肥後国球磨の地頭職に補せられ、人吉へ移るが、相良という地名と中世的な居館の記憶は、この遠江の地に残された。

戦国期に入ると、天正4年(1576)、武田勝頼が徳川家康に対する軍事拠点として相良に城を築いたと伝えられる。『高天神記』には、勝頼が高天神城へ兵を入れる途上、相良の湊近くに城を取り、高坂弾正が縄張りを行ったと記されている。ただし、この時期の城の規模や具体的な構造は明らかでない。数年後、相良は徳川氏の領有となり、天正14年(1586)には鷹狩の際に用いられる「相良御殿」として整えられた。

江戸時代中期、相良の歴史は大きく動く。明和4年(1767)7月、側用人として台頭していた田沼意次が五千石を加増され、将軍徳川家治から相良城(さがらじょう)築城を許された。翌明和5年(1768)4月に普請が始まり、意次の出世と歩調を合わせるように城は整えられていく。意次は老中へ進み、石高も最終的に五万七千石に達し、相良城はその威勢を映す近世城郭として完成をみた。

しかし、天明4年(1784)に子の意知が江戸城中で殺害されると、田沼政権は急速に衰える。天明6年(1786)から翌7年(1787)にかけて相次ぐ削封ののち、相良城は没収され、天明8年(1788)に壊され堀も埋められ農地になった。築城着工からわずか20年あまり、相良城は短い生涯を閉じることになった。

相良城の特徴と構造

相良城は、遠江国相良に築かれた平城で、城域は東西約500m、南北約450m、約七万坪に及んだ。標高は約7mと低く、周囲の河川を防御に取り込んだ構成が特徴となる。

本丸は、かつての相良御殿跡を転用し、その周囲に二の丸・三の丸を角形の堀で巡らせた。北東を流れる萩間川、北西の天の川を大外堀とし、平地にありながら水系を巧みに用いた縄張りだった。堀と石垣の築造には、江戸から招かれた請負師・岡田新助があたり、近世城郭らしい整った構造が与えられている。

築城に際しては河川の流路変更も行われ、潮田川や樋尻川の付け替えが記録に残る。ただし、田沼意次失脚後、松平定信の命により城は徹底的に破壊され、現在、当時の遺構はほとんど残されていない。『相良海老』の付図などを通じて、往時の姿をたどることができるにとどまる。

相良城二の丸のマツ
相良城二の丸土塁の松。牧之原市指定の天然記念物となっている。

相良城の整備状況

相良城跡は、現在その大部分が市街地として利用されている。旧城域には、現在、相良町役場・相良町史料館が本丸跡、相良小学校・中学校が二の丸跡、相良高校が三の丸跡となっている。城郭としてのまとまった遺構は残されていない。

一方で、仙台河岸に残る石垣や、相良城にあった御殿が移築現存する大慶寺(藤枝市藤枝)、城の用材が使用されたと伝わる大澤寺本堂、田沼家専用の玄関を備えた平田寺、田沼家ゆかりの陣太鼓や相良城の杉戸の展示がある般若寺など、城の記憶を伝えている。石垣石は本丸跡石碑のそばに1石と、静岡県牧之原市波津(大澤寺付近)に2石の計3石が残されている。また、相良城跡で相良藩初代藩主で江戸幕府の老中だった田沼意次の銅像が令和3年(2021)5月29日に本丸跡に建立されている。

仙台河岸
相良城の最東端に石垣「仙台河岸」が残る。仙台藩主 伊達重村が寄進した石垣用材によって造られたため、この名が付く。

参考文献:

  • 『日本城郭大系9』(新人物往来社)
  • 「田沼家ゆかりの地をめぐる」牧之原市Webサイト

相良城の撮影スポット

相良城の写真集

城郭カメラマンが撮影した「お城めぐりFAN LIBRARY」には、相良城の魅力を映す写真が並ぶ。事前に目にしておけば現地での発見が鮮やかになり、旅の余韻もいっそう深まる。

相良城の周辺史跡を訪ねて

牧之原市史料館

牧之原市史料館相良城本丸跡に建つ「牧之原市史料館」は、牧之原市の歩みを人物史と産業史からたどる施設だ。展示は、田沼意次を中心に、相良氏や本多氏といった当地ゆかりの人物に関する史料約150点、さらに相良油田に関わる史料約100点で構成されている。城跡とあわせて訪れたい場所だ。

相良城の痕跡

城の用材が使用されたと伝わる大澤寺本堂、田沼家専用の玄関を備えた平田寺、般若寺(相良町大沢)に陣太鼓や杉戸絵が残る。また、田中城近くの大慶寺(藤枝市藤枝)に、相良城にあった御殿が移築現存している。相良城解体の際に700両で払い下げられたものだとか。

近郊の城

相良城の周辺には、牧之原周辺の中世城館として知られる小山城・勝間田城、遠江支配の拠点として、支配者が移り変わった掛川城、戦国期屈指の攻防戦が繰り広げられた高天神城、武田勝頼の遠江進出を支えた諏訪原城がある。

相良城の周辺おすすめ名物料理

「壽亭」そば屋。相良町役場・相良町史料館から東へ徒歩すぐ。味は東京そば。

相良城の観光情報・アクセス

所在地

住所:静岡県牧之原市相良 [MAP] 県別一覧[静岡県]

電話:0548-23-0001(牧之原市役所)

牧之原市史料館 開館時間

牧之原市史料館横の本丸跡石碑や二の丸の松、仙台河岸などは散策自由。牧之原市史料館は9時〜16時、月曜・年末年始休館。

アクセス

鉄道利用

JR東海道本線、静岡駅下車、特急相良御前崎行きバス「相良営業所」降車、徒歩10分、またはJR金谷駅下車、萩間線相良行きバス「相良営業所」降車、徒歩10分。

マイカー利用

東名高速道路、相良・牧之原ICから国道473号線、約20分。牧之原市史料館前の無料駐車場利用。

相良城:城ファンたちの記憶

実際に相良城を訪れた城ファンの皆さまが綴る、印象に残った景色、人との出会い、歴史メモ、旅のハプニングなど、心に残る旅の記憶を共有しています(全5件)。

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    老中田沼意次の相良城は記録にあるように完全に取り壊されたのであるが、当時の「お城取り壊し」というのは、城の瓦一枚に至るまで、徹底的に取り壊してその資材を江戸に搬送したといわれている。当時のその様子は、数多くの牛車や今でいうリヤカーなどが延々と連なり東海道を行ったという。さらに、伝説では、当然、田沼意次の私財もすべて取り抑えられたというが、その際、小判一枚見つからなかったといわれている。鬼女新田と呼ばれている田沼城の北西地区の、どこかの社に隠し財宝が眠っているという伝説もあるとも聞く。

    意次ファン)

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    2001年3月に、舟着き場と見られる堀をせき止めた木杭の遺構が出土したらしい。

    半兵衛)

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    相良町役場・相良町史料館が本丸跡、中学校・小学校が二の丸跡、高校が三の丸跡。相良町史料館横に石碑があります。また、二の丸跡の相良小学校入り口の土塁にある松は、かつて二の丸にあった当時のものだそうです。

    晴信)

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    船着場として利用した「仙台河岸(せんだいがし)」と呼ばれるエリアは、かつては、城内と外海を結ぶ軍事上の役目を秘め備えた船着場で、当時は千石船が横付けできたそうです。それを示す案内板と石垣があります。東へ徒歩5分程度。路地とまではいかないですが狭い路を進み、幅2mほどの川にかかる小さい橋の付近にあるため、あらかじめ史料館等で場所を確認してから行くといいです。

    晴信)

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    役場の横に資料館があるが、その付近が本丸跡であり、役場・隣の中学校・小学校一帯が城域であったという。小学校の運動場の西側と南側に高さ3mほどの土塁があり、その上に全部で12本の大きな松の木が立っている。史跡に指定されているようで、藩政時代からの名残のようである。役場の前の道が内堀のあった場所で、前の道を南へ進むと途中に用水が通っているが、そこが外堀の跡である。役場の東方に仙台河岸と呼ばれる場所があり当時の石垣が確認できた。

    天野)

城の情報

心に残る相良城の思い出は?