写真・記録:岡 泰行/城郭カメラマン
岩櫃城の歴史と見どころ
岩櫃城(いわびつじょう)は、上野国吾妻郡の中心に位置する山城で、岩櫃山の東山腹に築かれている。創築は応永12年(1405)、斎藤憲行によると伝わる。斎藤氏は下河辺行重の孫・行盛の系統で、戦乱に敗れてこの地に逃れた行盛の子憲行が岩櫃を拠点とし、延文2年(1357)以降、山内上杉氏の幕下に属した。憲行は岩櫃に本城を構え、諸子を中山・荒牧・山田・稲荷・富沢など各地に配して領国を治め、のちに大野・塩谷・秋間の三家が分立して「吾妻三家」と称された。
戦国期に入ると、大永年間(1521〜28)に憲行の系統の斎藤憲次が、一族の大野氏を滅ぼして岩櫃城を掌握し、吾妻郡一円を支配した。憲次の子憲広の代には、周辺の鎌原氏・浦野氏らと抗争を繰り返し、やがて真田幸隆・武田信玄と対立する。
永禄5年(1562)、信玄の命を受けた真田勢が鎌原城を奪還し、岩櫃城を攻めて憲広を降伏させた。しかし憲広は抵抗を続け、永禄8年(1565)11月に真田勢が最終的に城を攻略したことで斎藤氏は滅亡した。以後、岩櫃は真田氏の支配下に入り、甲信・上野を結ぶ軍事拠点として重要視される。元亀年間には信玄自ら吾妻へ出陣したという伝承もあるが、これは真田幸隆の行動と推定される見解もある。
天正10年(1582年)、武田勝頼が織田勢に追われて新府城から落ち延びる際、真田昌幸はこの城に迎え入れようとしたが、勝頼は岩櫃を目前に自害し、武田家は滅亡した。
その後も真田氏は岩櫃を上野経略の拠点とし、天正17年(1589)には昌幸の嫡子・信幸の支配下で矢沢頼綱を城代とした。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで昌幸が西軍に属したのち、岩櫃は破却され、元和2年(1616)頃までに廃城となった。現在、岩櫃城跡は国史跡に指定され、東吾妻町によって登城道や解説板が整備されている。堀切や土塁、竪堀などがよく保存され、山麓の平沢登山口から往時の構えをたどることができる。
岩櫃城の特徴と構造
岩櫃城は、標高597m、比高200mの岩櫃山東山腹に築かれた複合型の山城で、南北朝期地域城郭の移行型と評価される。
本城(本郭・第二郭・中城)は西から東へ連なり、郭・空堀・横堀・虎口・桝形などが確認される。なかでも第二郭を中心に放射状に延びる六筋の竪堀は、敵の側面移動を阻止するとともに、攻防の通路としても機能していた。
本郭(約160m×70m)の北部には壇状の高所があり、天守台に相当すると考えられる。周辺の平沢地区には、西南—東北方向に下る六条ほどの堀跡があり、各長さ400m内外で空堀が多く、二重堀や土居を伴い、横堀で結ばれて内外の防御線を形成していた。また北東の天狗丸、さらに観音山に築かれた柳沢城を支城として連携し、岩峰と谷を巧みに利用した堅固な構えを見せる。自然地形と人工防御を融合させた戦国期山城の典型といえる。
参考文献:
- 『日本城郭大系4』(新人物往来社)
- 「岩櫃城跡」東吾妻町公式Webサイト
岩櫃城の学びに役立つ本と資料
書籍では、『岩櫃城跡総合調査報告書』A4・324P、東吾妻町教育委員会発行、東吾妻町中央公民館でなどで販売されている。
岩櫃城の散策コース
現地では、岩櫃城址観光案内所で登山ルートマップをGET。また立体模型があるので、見てから登ると良い。
城域へのコースと潜龍院跡へのコースを登山ルートマップで確認
岩櫃城の駐車場の位置や登山ルートマップは、東吾妻町観光協会のWebサイトでダウンロードできる。全行程を歩こうと思えば、かなりの時間を要するが、主要な郭のみが目的であれば、真田道を案内所まで車で行き、平沢登山口から本丸跡まで徒歩15分といったところだ。
岩櫃城本丸跡から、岩櫃山の山頂までは、途中岩場がありその辺りまでは城域でいくつか削平地が確認できるが、残念ながらそれ以降、頂上までは城の遺構は無い。天狗の蹴上げ石からは、鎖場や梯子があったりと登山の難易度が多少上がる。なぜ、城域から頂上付近まで目立った城の遺構が無いのか不思議だったが、訪れてみると、尾根筋は細い1本道で両側の谷が深く、切り立った岩々からその尾根筋に出るルートがほぼ分からないためかと思われる。
なお、岩櫃山の城と反対側にある、真田昌幸が武田勝頼を迎え武田家再興を図ろうと急造した御殿跡「潜龍院跡」や郷原城跡を見ようと思えば、岩櫃山の西側に行かなければならないので、城域を見た後、平沢登山口から古谷登山口まで車で移動することをおすすめする。平沢登山口には登山者用の駐車場(10台)がある。
岩櫃城の撮影スポット
岩櫃城の写真集
城郭カメラマンが撮影した「お城めぐりFAN LIBRARY」には、岩櫃城の魅力を映す写真が並ぶ。事前に目にしておけば現地での発見が鮮やかになり、旅の余韻もいっそう深まる。岩櫃城の周辺史跡を訪ねて
岩櫃山の城と反対側にある、真田昌幸が武田勝頼を迎え武田家再興を図ろうと急造した御殿跡「潜龍院跡」。または、支城の柳沢城(観音山城)、郷原城などを同時み攻めると、岩櫃城の堅固さがよく分かる。
岩櫃城の観光情報・アクセス
所在地
住所:群馬県吾妻郡東吾妻町原町 [MAP] 県別一覧[群馬県]
電話:0279-68-2111(東吾妻町役場まちづくり推進課)
アクセス
鉄道利用
JR吾妻線、群馬原町駅から徒歩約37分(2.3km)で、岩櫃城址観光案内所。すぐ目の前に平沢登山口がありそこから徒歩15分で本丸跡。なお、潜龍院跡へは、郷原駅から徒歩22分(1.4km)。
マイカー利用
上信越自動車道、西から須坂長野東IC、佐久北IC、松井田妙義ICなどから、1時間〜2時間。または、関越自動車道、渋川伊香保ICから西へ約47分(26km)。岩櫃城址観光案内所を目指す。平沢登山口駐車場(無料)あり。平沢登山口まで本丸跡まで徒歩約15分。
岡 泰行 | 城郭カメラマン [プロフィール]
1996年よりWebサイト「お城めぐりFAN」を運営し、日本各地の城郭を訪ね歩いて取材・撮影を続けている。四半世紀にわたる現地経験をもとに、城のたたずまいと風土を記録してきた。撮影を通して美意識を見つめ、遺構や城下町の風景に宿る歴史の息づかいを伝えている。その作品は、書籍・テレビ・新聞など多くのメディアで紹介され、多くの人に城の美しさと文化を伝えている。
岩櫃城:城ファンたちの記憶
実際に岩櫃城を訪れた城ファンの皆さまが綴る、印象に残った景色、人との出会い、歴史メモ、旅のハプニングなど、心に残る旅の記憶を共有しています(全3件)。




岩櫃山の密岩の登山口には、張り紙がしてあり、要点をまとめると「急斜面や鎖場のある山です。中でも密岩通りは、中・上級者向けコースです、登山靴、ヘルメット、手袋、熊鈴など、装備をご用意ください。登山は安全を最優先の上、自己責任で。」といった感じ。城ファンは、岩櫃城のある平沢登山口からで充分かも。
( 城好き匿名希望)
岩櫃城といえば、もうひとつの登り口をご存じですか? 私は、一昨年、吾妻線郷原駅裏手より岩櫃山に登り、大変な目に逢いました。そこは、登山道コースになっており、岩盤のロープを伝って登る、恐怖の絶壁ルートでございます。頂上は絶景で、榛名山や周囲の山々が一望できます。体力に自身がある方は、オススメです。
( ナオ)
真田関連の城巡りをしたとき、岩櫃城から沼田城に向かう途中でロックハート城に通りかかりました。これは津川雅彦氏が以前に北海道の幸福駅の近くにおもちゃの国を造ろうとしたときに、ヨーロッパから城ごとそっくり買ってきたやつですね。ですから城自体はかなりまともなやつだったと思います。
( 蔵)