写真・監修:岡 泰行/城郭カメラマン

杉山城の歴史と見どころ

市野川のほとり、比企丘陵の尾根に築かれた杉山城は、戦国期の関東における築城技術を今に伝える名城だ。自然の地形を読み込み、土塁と空堀を緻密に組み合わせた縄張は「中世城郭の教本」と称される。関東の戦国史を語る上で欠かせない遺構であり、国指定史跡として良好に保存されている。

杉山城の歴史

杉山城(すぎやまじょう)は、市野川の西岸に延びる長尾根状の丘陵南端に築かれた戦国期の城である。丘陵は東が緩斜面、西が急崖となる地形を示し、その地形差を巧みに防備へ転じた。鎌倉街道が西側を通過し、河川と街道の双方を望む位置にあり、要衝としての立地が際立つ。

この城は、北条氏と上杉氏が関東支配を争った戦国末期に築かれたと考えられる。『新編武蔵国風土記稿』には、居城者として金子十郎家忠、または庄(杉山)主水の名が見えるが、研究者の竹村雅夫氏は鎌倉期の金子氏ではなく戦国後期の築城とみている。庄主水は「天正庚寅松山合戦図」に記される人物と同一とされ、上田能登守の家臣として松山城攻防に関わった庄氏の一族とみられる。

築城年代は伊礼正雄氏によって天文〜永禄年間(1532〜1570)と推定され、河越夜戦以後の北条氏康が上杉氏と対峙した時期にあたる。この情勢下で松山方面への備えとして築かれたと考えられ、戦国期関東の築城理念を体系的に示す遺構であることから「中世城郭の教本」と呼ばれている。

遺構の危機を乗り越えて:史跡保存の道のり

杉山城跡は、一時は関越自動車道の路線候補地となって破壊の危機に瀕したが、関係者の努力により乗り越え、現在の姿を長く後世に伝えることができるようになった。昭和58年(1983)に埼玉県指定史跡、平成20年(2008)に国指定史跡となり、嵐山町が保存整備を進めている。嵐山町では、国指定史跡化後の平成21年(2009)から、町教委によって史跡整備基本計画が策定・推進され、遊歩道や案内板が設けられた史跡公園として一般公開されている。

杉山城の特徴と構造

杉山城は、長さ約570mの丘陵上に築かれた多郭式の丘城だ。地形は西が急崖、東が緩斜面で、東西の地形差を防備に生かしている。本郭を中心に南・東・北の三方向に郭を配し、相互に連携できるよう工夫された「陰陽和合の城」と呼ばれる構成をとる。

郭群は十余に及び、南側には大手口を備えた外郭・南三郭・南二郭・井戸郭が、東側には東三郭・東二郭が、北側には搦手口を形成する北三郭・北二郭が連なる。主要な小口には屛風折形の土塁や出桝形土塁、喰違い虎口が施され、各所に馬出しや横矢を備える。特に屛風折形の塁線は比企地方の他の城郭には認められない構造であり、築城教本といわれる由縁のひとつになっている。空堀は深く、土塁は高く、実戦的防御を重視した構えとなっている。

本郭西方には井戸跡と腰郭が設けられ、水の手としての防備も整う。これら多様な防御技法を統合した縄張は、戦国期関東の築城技術を体現する典型であり、その保存状態も良好である。

  • 『日本城郭大系5』(新人物往来社)
  • 「国指定史跡 杉山城跡」嵐山町公式Webサイト

杉山城の学びに役立つ本と資料

現地では杉山城の1/500の模型が、嵐山町役場にある。町職員による力作で、どういう城なのかが一目瞭然。
また、書籍では『嵐山町博物誌第5巻 嵐山の中世「戦い・祈り・人々の暮らし」』(1997嵐山町)A4版242頁オールカラー。1997年に嵐山町から町制施行30周年記念で出版されたもので、杉山城について「関東戦国山城の傑作」との記述がある。

杉山城の周辺史跡を訪ねて

杉山城から北へ行けば、同じく戦国期の遺構である菅谷館跡がある。上杉氏と北条氏がせめぎ合った時代の館で、土塁や空堀が良好に残る。この地域には、大蔵館跡(平安末期)といった古い館跡も点在しており、菅谷館跡・杉山城(戦国時代)と合わせ、中世城館の変遷を体感できる。比企の丘陵一帯は、城郭史跡の野外博物館といえる地だ。

杉山城の周辺おすすめ名物料理

嵐山町の名物は「嵐山辛モツ焼そば」。スパイスの効いた豚モツ入り焼そばで、町おこしグルメとして人気がある。散策のあとは、地元産さつまいもを使った「芋ようかん」もおすすめ。素朴な甘みが歩き疲れた身体にやさしい味わいだ。

杉山城の観光情報・アクセス

所在地

住所:埼玉県比企郡嵐山町杉山614 [MAP] 県別一覧[埼玉県]

電話0493-62-2150(嵐山町役場)・0493-81-4511(一般社団法人 嵐山町観光協会)

  • 公式サイト:「杉山城」(一般社団法人 嵐山町観光協会)

アクセス

鉄道利用

東武東上線、武蔵嵐山駅下車、徒歩約40分(2.9km)。または、東武東上線、小川町駅下車、バス小川パークヒル方面行「小川パークヒル」降車、北東へ徒歩11分(900m)。

マイカー利用

関越自動車道、嵐山小川ICから約4分(2.4km)。城の北側に無料駐車場有り。

杉山城:城ファンたちの記憶

実際に杉山城を訪れた城ファンの皆さまが綴る、印象に残った景色、人との出会い、歴史メモ、旅のハプニングなど、心に残る旅の記憶を共有しています(全4件)。

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    杉山城現地説明会にいってきました。杉山城は火災があり、最終的にこれを片付けているトレンチのほぼ全面から焼土が検出され、溝跡の中からは特に焼土と焼けた壁土が出土した。このことからこの城は火災にあい、その後に片付けられている。ただし、これが失火によるものか、廃城に際して建物を燃やしたものなのか今のところわからないとのこと。また、陶磁器や土器などの城の年代を解明する手がかりとなる遺物が検出された。発掘調査で最も多く出土したのは、かわらけだそうで、ほとんどが指先ほどの小さな破片ですが約650点出土した。これ以外では中国製の磁器1片と瀬戸・美濃産の天目茶碗・皿・すり鉢が数点だけ出土しています。これらの年代はおおよそ16世紀初頭から中ごろにかけてのものです。陶磁器に関しては生産地での時代決定と消費地で使われる年代や使用期間の問題もあり、点数が少ないこともあり一概に杉山城の年代をそのまま当てはめることが出来ないかもしれない。また、かわらけは日常的に使用されるものでなく、その他の日常生活用品が非常に少ないことから出土遺物の構成を見ると生活観があまりない城のように思われる。

    霹靂火)

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    北条築城術を体感するならこの城、と言われてますが、それ以上に中世城郭について根本的なところから知りたいとあれば、本当にお奨めです。繰り返される横矢と虎口、土塁と空堀、そして馬出、規模はともかくとして松山城と似ているように思えるのは気のせいでしょうか?北条氏の誰かさんが自分たちの時代の城とはこういうものなのだ!と言わんばかりに築いたタイムマシーンのような城です。

    Hodaka Toya)

  • avatar

    杉山城は、北から南へ北三の郭、北二の郭、本郭、井戸郭、南二の郭、南三の郭。南二の郭、南三の郭の東側に外郭、大手口。本郭の東側に東二の郭、東三の郭といったような構成の城です。縄張りはちょっと筆に尽くせないくらい見事です。縄張り図見ながらこの城の縄張り探索すると5時間位あっというまに過ぎます。堀などは埋まって浅くなっているところもありますが、縄張りそのものは完全に残っていますので後北条氏の築城術をじっくりと見ることができます。

    真田山城猫)

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    杉山城は確かに竪堀あり馬出ありといろいろな防御機能が満載なのですが、それにしても狭すぎる空間に粒さに配置してしまっていますので自分が見た印象は「ここは城郭構築研究所か!」と思ってしまったほどでした。杉山城の丘陵自体がそれほど高さも無いですし、城の規模自体もそれほど広くないにも関わらず本丸周辺の堀の幅もそれほど広くありませんし、逆に敵に足掛かりを作られてしまうような土塁もあったりと、どうもここの城は本当に実戦向きだったのかは疑問に感じています。

    潮風)

城の情報

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