写真:岡 泰行

田丸城の歴史と見どころ

南伊勢の要衝に築かれた田丸城跡は、伊勢神宮からもほど近く、歴史と景観が調和する穴場の城址。北畠氏、織田信雄、蒲生氏郷、稲葉氏、久野氏と受け継がれた歴史の舞台で、石垣や曲輪跡が今も静かに残る。本ページでは、そんな田丸城の成り立ちから見どころまでをわかりやすく紹介する。

田丸城の歴史

田丸城(たまるじょう)は、延元元年(1336)、吉野へ戻る後醍醐天皇に呼応するかたちで、北畠親房が愛州氏や度会氏らの支援を得て挙兵し、南伊勢の拠点として田丸山に築いたのが始まりである。当地は、南朝の中心地である吉野と伊勢神宮の外港・大湊とを結ぶ要衝にあたり、吉野朝廷にとって極めて重要な場所であった。そのため、田丸城は南北両朝の攻防の舞台となり、神宮領をめぐる激しい争奪戦が繰り返された。やがて南北朝が統一されると、北畠氏一族がこの城に居を構え、「玉丸御所」とも称された。

室町時代には、伊勢国司・北畠氏の支城として機能し、一志郡美杉村の多気に館を構えつつ、田丸城を伊勢支配の拠点とした。

戦国末期になると、織田信長が伊勢へと勢力を伸ばし、天正3年(1575)には次男・信雄(のぶかつ)を北畠氏の養子とすることで和睦が成立。信雄は南伊勢五郡を掌握し、大河内城から田丸城へと居を移した。このとき、城は大規模に改修され、本丸・二の丸・北の丸が新設され、本丸には三層の天守が築かれたと伝わる。しかし天正8年(1580)、その天守は放火により焼失し、信雄は松ヶ島城へと移った。

天正10年(1582)、本能寺の変を契機に、田丸直息は信雄に背き、羽柴秀吉に与して蒲生氏郷とともに松ヶ島城を攻略。天正12年(1584)に氏郷が伊勢の領主として松ヶ島城へ移ると、直息は再び田丸城主となる。その後、天正18年(1590)には秀吉の命により、氏郷とともに東北地方へと転封され、以後は蒲生氏を支える存在として仕えた。

その後、田丸城には稲葉重通が城代となり、関ヶ原の戦功により、慶長5年(1600)にはその子・道通が正式に城主となる。このとき、岩出城を廃し、その資材や石垣を田丸に移して大改修が行われたとされる。

元和3年(1617)、津城主・藤堂高虎が徳川家より田丸の地を加増され、元和5年(1619)には紀州徳川家の所領となった。徳川頼宣の家老・久野宗成が田丸城主に任ぜられ、以後、久野氏が九代にわたって城代を務め、明治維新を迎えることとなる。江戸時代の田丸の城下町は、伊勢参りの旅人で賑わい、宿場町としても繁栄を見せていたらしい。

明治2年(1869)、田丸城は廃城となるが、のちに、紀州藩旧田丸領に仕えた旧士族にあたる村山龍平の寄付によって一部が町有地となり、昭和3年(1928)には「城山公園」として一般に開放された。さらに昭和28年(1953)には三重県の文化財史跡に指定されている。近年では国指定史跡への登録を視野に入れ、玉城町が2021年度から5か年計画で史跡調査や保存整備の取り組みを本格化させている。

今もなお、石垣や曲輪跡などの遺構に往時の面影をとどめる、南伊勢屈指の名城である。

田丸城の写真撮影方法

田丸城は平山城でその中心部は石垣に覆われている。その造形美を捉えておきたい。また、外郭に近い場所では土塁も見られ、変化に富んだ写真を撮ることができるぞ。

田丸城の写真集

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田丸城のアクセス・所在地

所在地

住所:三重県度会郡玉城町田丸 [MAP] 県別一覧[三重県]

電話:0596-58-8200(玉城町役場)

アクセス

鉄道利用

JR参宮線、田丸駅下車、徒歩10分。

マイカー利用

伊勢自動車道、玉城ICから府道65号線を東へ約1km。無料駐車場は玉城町役場を利用する。

城ファンの気になるところ (6)

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    石垣フェチにはけっこう堪能できます。本丸への道は2つあるけど、二の丸(町役場沿い)から登らないと、かなり「とほほ」です。

    ( 島上裕和)さんより

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    夕方の5時になると度会郡玉城町全域に聞こえる、ドうるさいサイレンがお城付近から鳴り響きます。ぜひ時間を合わせて驚きに行ってください。

    ( 島上裕和)さんより

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    本丸跡からまわりを狙うと良し。時間は朝から昼過ぎまで。季節はいつでも良し。典型的な平山城なので、街を見おろすと、田舎殿様気分が味わえます。

    ( 島上裕和)さんより

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    本丸は、一部積み直しが見られるが石垣が良好に残る。二の丸は、町立玉城中学校。

    ( 右近)さんより

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    南北朝の動乱期1336(建武3)年に後醍醐天皇を迎えようとして、北畠親房が築城。戦国時代1575(天正3)年、織田信長の息子、信雄が養子に行き、本丸、二の丸、北の丸を作り、天守閣も造る。江戸時代は紀州藩の家老、久野氏が代々城主。明治2年に廃城という典型的な平山城。建物は富士見門しか残ってないのが残念。

    ( 島上裕和・右近)さんより

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    2003年2月、田丸城で発掘調査をしてました。天守への道がコンクリートで固められていたのですが、はがされていました。ブルーのシートで覆われていましたが柱の跡らしき穴がみられました。この穴と穴の間が門なのかと眺めていました。意外と多い。門出てすぐ門。門じゃないのかもしれないが。シートの上を平気で歩いている人がいたのには腹が立ちました。遊歩道などがきれいに舗装され、草に覆われた道がきれいに現れていました。自然のままのほうがよかったのですが。井戸らしきものなどいろいろと面白い発見がありますので歩いてみてください。石垣の横に穴のあいたところがあります。小さいころは抜け穴かと考えていましたが小さいのです。見つけてみてください。

    ( nishioka)さんより

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