田丸城は延元元年(1336)に北畠親房が南伊勢の拠点として田丸山に築いたとされ、北畠氏から織田信雄らへと受け継がれた。平山城の中心部は石垣が累々と残り、曲輪や堀跡、土塁が往時を伝える。城山公園として開放され、石垣の造形美を撮れる。このページでは歴史と見どころ、撮影スポットを豊富な写真とともに紹介する。
写真:岡 泰行(城郭カメラマン)
田丸城の歴史・見どころ
南伊勢の要衝に築かれた田丸城(たまるじょう)は、伊勢神宮からもほど近く、石垣が累々と残り、見応えのある城跡となっている。北畠氏、織田信雄、蒲生氏郷、稲葉氏、久野氏と受け継がれた歴史の舞台であり、曲輪や堀跡も往時の構えを今に伝えている。
田丸城の歴史
田丸城は、延元元年(1336)、吉野へ戻る後醍醐天皇に呼応するかたちで、北畠親房が愛州氏や度会氏らの支援を受けて挙兵し、南伊勢の拠点として田丸山に築かれたとされている。史料によれば、延元2年(1337)には田丸城での戦闘が記録されており、遅くともこの頃までに城が築かれていたことがうかがえる。
この土地は、南朝の中心地である吉野と、伊勢神宮の外港・大湊を結ぶ要衝に位置し、吉野朝廷にとって極めて重要な地であった。そのため、田丸城は南北両朝の攻防の舞台となり、神宮領をめぐる激しい争奪戦が繰り広げられた。
南北朝の統一後、田丸城は北畠氏一族の手により再び整備され、南伊勢支配の拠点とされる。「玉丸御所」とも呼ばれたという。室町時代には、伊勢国司・北畠氏の支城として機能し、美杉町の多気に本拠を構えつつ、田丸を伊勢支配の要と位置づけていた。ただし近年の研究では、この時期の田丸城主は北畠一門の坂内氏とされ、「田丸氏(玉丸氏)」の登場は戦国末期とされている。
戦国末期には、織田信長が伊勢へと勢力を広げ、天正3年(1575)には次男・信雄(のぶかつ)を北畠具房の養子とすることで和睦が成立。信雄は南伊勢五郡を掌握し、大河内城から田丸城へと入城した。このとき、城は大改修され、本丸・二の丸・北の丸が新たに築かれた。本丸には三層の天守が建てられたと伝わっている。
しかし天正8年(1580)、この天守は放火によって焼失し、信雄は松ヶ島城へと移ることになった。
天正10年(1582)、本能寺の変をきっかけに、田丸直息は信雄に背き、羽柴秀吉に従って蒲生氏郷とともに松ヶ島城を攻め落とした。天正12年(1584)、氏郷が伊勢の領主として松ヶ島城へ移ると、直息は再び田丸城主となる。その後、天正18年(1590)には秀吉の命により、氏郷とともに東北地方へと転封され、以後は蒲生氏に仕えていく。
その後、田丸城には稲葉重通が城代として入り、関ヶ原の戦いの戦功により、慶長5年(1600)にはその子・道通が正式に城主となった。このとき、近隣の岩出城を廃し、その資材や石垣を田丸へ移して大改築が行われたと伝えられている。
元和3年(1617)、津城主・藤堂高虎が徳川家から田丸の地を加増され、元和5年(1619)には紀州徳川家の所領となる。徳川頼宣の家老・久野宗成が田丸城主に任じられ、以後、久野氏が九代にわたり城代を務めたのち、明治維新を迎えた。
江戸時代の田丸の城下町は、伊勢参りの旅人で賑わい、宿場町としても大いに栄えたと伝えられている。
本丸虎口
平成14年(2002)の発掘調査で、門や建物の礎石、側溝が確認された本丸の出入口。石垣と導線が重なり、城内へと引き込まれる構造がよく分かる。
天守台と本丸跡
天守台を中心に広がる本丸跡。高低差と石垣の連なりが空間に奥行きを与え、近世城郭としての構えを感じさせる。
北の丸から本丸を望む
手前に広がる空掘、その先に帯曲輪と本丸石垣が重なる眺め。田丸城らしい立体的な縄張が一望できる視点だ。
北の丸北側に残る空掘と土塁
深く刻まれた空掘と、それに沿って築かれた土塁が連続する防御空間。歩くほどに構造とその土木量が迫力となり伝わる。
旧田丸城三の丸奥書院
三の丸に復元された奥書院。落ち着いた建物配置が城下に開かれた空間を思わせ、往時の生活の気配を今に伝える。
富士見門
三の丸の城門、富士見門。田丸城の建築遺構。明治初年に民家宅に移築されたが、昭和59年(1984)、城内の現在地へ戻された。
田丸城の整備状況
明治2年(1869)、田丸城は廃城となったが、後に紀州藩旧田丸領に仕えていた士族・村山龍平の寄付によって一部が町有地となった。昭和3年(1928)には「城山公園」として一般に開放され、昭和28年(1953)には三重県の文化財史跡に指定されている。
近年では国指定史跡への登録を視野に入れ、玉城町が2021年度から5か年計画で史跡調査や保存整備の取り組みを進めている。今もなお、石垣や曲輪跡などの遺構に往時の面影が残されている南伊勢を代表する名城のひとつといえる。
田丸城の撮影スポット・絶景ポイント
田丸城は平山城でその中心部は石垣に覆われている。その造形美を捉えておきたい。また、外郭に近い場所では土塁も見られ、変化に富んだ写真を撮ることができるぞ。
田丸城の写真集
城郭カメラマンが撮影した「お城めぐりFAN LIBRARY」には、田丸城の魅力を映す写真が並ぶ。事前に目にしておけば現地での発見が鮮やかになり、旅の余韻もいっそう深まる。
田丸城アクセス・駐車場・営業時間
所在地
住所:三重県度会郡玉城町田丸 [地図を見る]
県別一覧:[三重県の城]
電話:0596-58-8200(玉城町役場)
アクセス
鉄道利用
JR参宮線、田丸駅下車、徒歩10分。
マイカー利用
伊勢自動車道、玉城ICから府道65号線を東へ約1km。無料駐車場は玉城町役場を利用する。
地図
田丸城:城ファンの知見と記録
田丸城を訪ねた人たちが残してきた記録です。現地での発見や知見が寄せられ、城歩きの文化の中で育まれてきた経験がここに蓄積されています(全6件)。







2003年2月、田丸城で発掘調査をしてました。天守への道がコンクリートで固められていたのですが、はがされていました。ブルーのシートで覆われていましたが柱の跡らしき穴がみられました。この穴と穴の間が門なのかと眺めていました。意外と多い。門出てすぐ門。門じゃないのかもしれないが。シートの上を平気で歩いている人がいたのには腹が立ちました。遊歩道などがきれいに舗装され、草に覆われた道がきれいに現れていました。自然のままのほうがよかったのですが。井戸らしきものなどいろいろと面白い発見がありますので歩いてみてください。石垣の横に穴のあいたところがあります。小さいころは抜け穴かと考えていましたが小さいのです。見つけてみてください。
記録:nishioka 2003
南北朝の動乱期1336(建武3)年に後醍醐天皇を迎えようとして、北畠親房が築城。戦国時代1575(天正3)年、織田信長の息子、信雄が養子に行き、本丸、二の丸、北の丸を作り、天守閣も造る。江戸時代は紀州藩の家老、久野氏が代々城主。明治2年に廃城という典型的な平山城。建物は富士見門しか残ってないのが残念。
記録:島上裕和・右近 1999
本丸は、一部積み直しが見られるが石垣が良好に残る。二の丸は、町立玉城中学校。
記録:右近 1999
本丸跡からまわりを狙うと良し。時間は朝から昼過ぎまで。季節はいつでも良し。典型的な平山城なので、街を見おろすと、田舎殿様気分が味わえます。
記録:島上裕和 1999
夕方の5時になると度会郡玉城町全域に聞こえる、ドうるさいサイレンがお城付近から鳴り響きます。ぜひ時間を合わせて驚きに行ってください。
記録:島上裕和 1999
石垣フェチにはけっこう堪能できます。本丸への道は2つあるけど、二の丸(町役場沿い)から登らないと、かなり「とほほ」です。
記録:島上裕和 1999