田辺城の歴史・見どころ

田辺城の歴史

田辺城は、紀伊国田辺の会津川河口左岸に築かれた平城で、錦水城とも呼ばれた。関ヶ原の戦い後の慶長5年(1600)、紀伊国に浅野幸長が入国すると、田辺には執政の浅野左衛門佐氏重が入った。浅野氏は慶長11年(1606)、会津川河口に湊城を築き、あわせて城下町の町割を整えた。街路には鉤の手状の屈曲や袋小路を設け、防御の手薄な場所には社寺を配置するなど、城と城下町を一体として整備した。この町割が、現在の田辺市街地の基礎となった。

元和5年(1619)、徳川頼宣が紀州藩主となると、付家老の安藤帯刀直次が3万8000余石を与えられ、田辺領主となった。幕府の一国一城制により、公的には館と称したが、田辺城は幕末まで安藤氏の居城として存続した。直次は紀州藩の重臣として和歌山城の城下に常駐したため、田辺には従弟の安藤小兵衛を留守居役として置き、以後、小兵衛家が代々城代家老を務めた。

安藤氏の時代には、城の修築が繰り返された。寛文12年(1672)から嘉永元年(1848)までの堀普請は36回を数え、享保5年(1720)には城門などに板塀を設けた記録が残る。寛延4年(1751)には二の丸役所が焼失し、翌宝暦2年(1752)に二の丸普請が行われた。天保2年(1831)の大規模な修築では、それまで城塁上に巡らされていた柴垣や竹垣を撤去し、壁や銃眼を備えた城郭へと姿を改めた。田辺城が白壁を備えた近世城郭として整えられたのは、この頃のこととされる。

幕末には外国船の来航に備え、海岸に近い田辺城を内陸へ移す計画が持ち上がった。文久3年(1863)、移築先を下万呂の城ヶ谷と定め、地ならしなどの工事に着手したが、翌元治元年(1864)には中止された。移築計画は実現せず、田辺城は従来の場所にとどまった。

明治3年(1870)に廃城となると、城地は払い下げられ、建物や堀は次第に失われた。明治から大正にかけて内堀・外堀の埋め立てが進み、城下町の街路も変化した。かつて会津川の河口に白壁を映した錦水城は、現在、水門とそれに続く石垣に往時の姿をわずかにとどめている。

田辺城の特徴と構造

田辺城は、田辺湾に注ぐ会津川の河口左岸、現在の田辺市上屋敷町一帯に築かれた平城。本丸は東西約100m、南北約70mの規模を持ち、内堀と外堀によって囲まれていた。外堀は総延長約790m、幅約36mに及び、内堀と外堀の間には「丸の内」と呼ばれる家臣屋敷地が広がっていた。

本丸には140畳敷の大広間をはじめ、表御殿、奥御殿、番所、土蔵、4か所の井戸などが設けられていた。大手門は本丸東側の中央に位置し、長さ約14.4m、幅約4.5m。門前には広庭が設けられ、本丸の東側と北側には内堀が巡らされていた。

本丸西端には、河口に通じる埋門型の水門が設けられた。門口は約2.4m、高さ約2.6mと記録され、現在も石垣とともに残る。水門の石垣は石材を緊密に積み上げたもので、昭和41年(1966)、第一小学校の運動場工事で発見された外堀の石垣と同種とされる。

また、城壁に隣接する出城の外郭には、政務を扱う請役所と「殿水の井戸」があった。井戸の水は代々の城代家老が使用し、のちには藩主も用いたと伝わる。城内の建造物や堀の大部分は失われたが、河口に残る水門と石垣は、田辺城の構造を知るうえで重要な遺構となっている。

紀伊田辺城 田辺城水門
会津川河口に残る田辺城の水門。城の本丸西端に設けられた埋門型の門で、隙間なく積まれた石垣が残る。城内の建物や堀が失われた現在、錦水城の往時の姿を伝える貴重な遺構。
紀伊田辺城 水門の石階段
田辺城水門に残る石階段。長い年月にわたり人々が行き来したことで、石段の表面がすり減り、中央部がくぼんでいる。幾世代もの足跡が刻まれた歴史を肌で感じられる場所だ。
紀伊田辺城 錦水公園
田辺城跡として整備された錦水公園。園内には水門跡の石垣が残り、田辺城の歴史を紹介する解説板や鯱の展示施設も設けられている。市街地に残された城郭遺構を身近に見学できる。
紀伊田辺城 鯱の展示
錦水公園内に設けられた鯱の展示施設。櫓を模した小さな建物の内部に鯱が保存され、ガラス越しに見学できる。水門や石垣とともに、田辺城跡を訪れた際に見ておきたい展示。
紀伊田辺城 水門と会津川
田辺城水門付近から望む会津川と田辺湾。城は会津川の河口左岸に築かれ、川と海に接する立地だった。
紀伊田辺城 外堀石垣跡
田辺城の外堀に築かれていた石垣の痕跡。かつて外堀は総延長約790m、幅約36mに及び、本丸の周囲に広がる城郭の外郭を形成していた。城下町の整備とともに築かれた田辺城の規模を伝える遺構。
紀伊田辺城 殿井戸
田辺城の出城外郭にあった「殿水の井戸」。代々の城代家老が使用し、のちには藩主も用いたと伝わる。城内の暮らしを支えた井戸の歴史は、現地に建つ「殿水の記」の碑文にも記されている。
紀伊田辺城 錦水城跡之碑
田辺城の礎石(沓石)を利用した「錦水城跡之碑」。かつて田辺城跡にあった旅館「錦城館」から移されたもので、現在は南紀白浜温泉の旅館「むさし」に保存されている。石には柱を据えた穴が残る。

田辺城の整備状況

明治3年(1870)の廃城後、城内の建造物は取り壊され、堀も明治から大正にかけて埋め立てられた。城跡の大部分が市街地へと姿を変えるなか、会津川河口に設けられた水門と、それに続く石垣が残された。

その水門も、会津川沿いの道路建設計画によって失われる危機に直面した。田辺大橋から会津大橋までの約330mに道路を整備する計画が持ち上がり、工事も着工されたが、地元住民の反対によって水門部分の保存が決まった。

現在、水門には一部コンクリートによる補修が見られるものの、埋門型の構造と石垣が往時の面影を伝えている。現地には田辺市教育委員会の解説板が設けられ、明治2年(1869)調べの田辺城建物図とともに城の姿を紹介している。

また、かつて城跡に建っていた「錦水城跡之碑」は、城の建物に使われた礎石(沓石)を利用したもの。城跡にあった旅館「錦城館」が白浜へ移転した際に運ばれ、現在は白浜町の旅館「むさし」のエントランスに保存されている。

参考文献:

  • 『日本城郭大系10』(新人物往来社)
  • 「田辺城水門」現地案内板(田辺市教育委員会)
  • 「殿水の記」現地碑文(昭和34年)
  • 「錦水城跡之碑」現地解説板(旅館むさし)

田辺城をより深く学ぶ展示・資料館・学習スポット

田辺城の城下町については、鬪雞神社所蔵の町割図が田辺市立図書館に現存する。また、同館では『田辺市史』第二巻 通史編Ⅱ(近世編)など、田辺藩の歴史を詳しく知ることのできる郷土史資料が販売されている。

田辺市教育委員会には明治初年に作成された城内建物図が残るほか、平成27年(2015)には、明治5年(1872)の陸軍省による調査で描かれた田辺城の絵図2枚が新たに発見された。これらの絵図は、失われた田辺城の建物や縄張りを知るうえで貴重な資料となっている。

田辺城の撮影スポット・絶景ポイント

田辺城水門は西向きのため、午後が撮影に適している。ただし、水門は周囲の地表より低い位置にあるため、午前中でも逆光の影響を受けにくく、比較的撮影しやすい。

また、公園内には櫓を模した小さな建物があり、内部に鯱が保存されている。南向きのガラス越しに撮影するため、光の反射で鯱が写りにくいことがある。ガラス面への映り込みを抑えるには、レンズをガラスに近づけるほか、忍者レフなどの反射防止グッズを用意しておくとよい。

田辺城の写真(城写真ARCHIVE)

城郭カメラマン 岡 泰行が30年にわたり撮影・記録してきた「城写真ARCHIVE」では、田辺城の魅力を写した写真を公開している。訪問前の見どころ探しや、旅の余韻を振り返る際にも役立つ。

田辺城周辺の観光スポット・史跡めぐり

熊野水軍出陣の地碑

熊野水軍出陣の地碑田辺市の扇ヶ浜に建つ、熊野水軍の出陣を伝える石碑。源平合戦の際、熊野別当湛増が源氏に味方し、熊野水軍を率いてこの地から出陣したと伝わる。扇ヶ浜には幕末、外国船の来航に備えて台場も築かれた。現在、砲台などの遺構は残っていないが、中世の熊野水軍から幕末の海防まで、この海岸が歴史の舞台となったことを伝えている。

熊野水軍の船隠「三段壁」

三段壁洞窟の船隠南紀白浜を代表する景勝地、三段壁。太平洋に面して高さ約50mの断崖が続き、その地下には波の浸食によって形成された三段壁洞窟が広がる。洞窟は、源平合戦の頃に熊野水軍が船を隠した場所と伝えられ、現在は内部を見学できる。

三段壁の熊野水軍小屋洞窟内には熊野水軍の軍船を紹介する展示もあり、紀南の海で活動した水軍の歴史に触れられる。南北朝時代には白浜町安宅を本拠とする安宅氏が紀伊水道で勢力を広げるなど、この地方には水軍が活躍した歴史が残る。荒波が打ち寄せる洞窟では、伝説と迫力ある自然景観をあわせて楽しめる。

田辺城の礎石を利用した「錦水城跡之碑」が保存されている旅館「むさし」から、車で約13分(約2.7km)。田辺城ゆかりの礎石を見学したあと、あわせて足を延ばしたい。

田辺は武蔵坊弁慶ゆかりの地

武蔵坊弁慶の銅像源義経に仕えた武蔵坊弁慶には、紀伊国田辺で生まれ育ったという伝承が残る。田辺市街には、弁慶の父とされる熊野別当湛増ゆかりの鬪雞神社をはじめ、弁慶産湯の井戸、弁慶生誕地の碑、弁慶腰掛の石など、ゆかりの地が点在する。写真はJR紀伊田辺駅前ロータリーに建つ弁慶の銅像。田辺城とあわせて、弁慶の足跡をたどる城下町散策も楽しみたい。

南方熊楠顕彰館・南方熊楠邸

南方熊楠邸博物学者・南方熊楠が大正5年(1916)から晩年まで暮らした旧邸と、その研究業績を紹介する顕彰館。旧邸には書斎や庭園が残り、熊楠が植物や菌類などの研究に取り組んだ当時の暮らしを伝えている。隣接する顕彰館では、熊楠の生涯や幅広い研究活動を資料とともに紹介している(写真は書斎内部)。

熊楠邸の敷地は、かつて田辺藩士の屋敷があった場所で、明治期には陸軍中佐の住まいとなっていた。熊楠は屋敷地に残る蔵や楠を気に入り、この土地を購入して晩年を過ごした。また、熊楠は田辺城跡にあった料亭旅館「錦城館」で結婚式を挙げ、柳田國男とも初めて対面している。田辺城の歴史から近代の学問と文化へ、興味を広げられる場所。

田辺城周辺グルメ・名物料理

とっくり

紀伊田辺駅前の飲食店街「味光路」にある、昭和59年(1984)開業の居酒屋。新鮮な魚介を使った料理に定評があり、もちがつおなど紀南ならではの海の幸を楽しめる。なかでも刺身のおいしさは格別で、訪れた際にもその鮮度と味わいが強く印象に残った。田辺の夜に、ぜひ立ち寄りたい一軒。

田辺城アクセス・駐車場・営業時間

所在地

住所:和歌山県田辺市上屋敷3 [地図を見る]

県別一覧:[和歌山県の城]

電話:0739-26-9929(田辺観光協会)

アクセス

鉄道利用

JR紀勢本線(きのくに線)「紀伊田辺駅」下車、徒歩約18分。

マイカー利用

阪和自動車道、紀勢自動車道、南紀田辺ICから南へ6分(2.2km)。「市営扇ヶ浜海岸駐車場」(有料・406台)、駐車場から水門まで徒歩9分(600m)。

地図